2013年5月号

トップページ > 2013年5月号 > アマチュア無線への思い 第2回 CW(モールス電信)はアマチュア無線の原点

連載記事

アマチュア無線への思い


JA1CIN 三木哲也
(公益財団法人 日本無線協会)

第2回 CW(モールス電信)はアマチュア無線の原点

1.まえがき

アマチュア無線の通信形態は、今では細かく数えたら切りが無いほど多様化が進んでいるが、最もポピュラーなのは電話と電信である。細かく言えば電話と言っても、電波型式にはSSB(単側波帯振幅変調:J3E)、AM(両側波帯振幅変調:A3E)、FM(周波数変調:F3E)があるし、電信にもいわゆるCW(Continuous Wave:電波型式A1A)以外にも、RTTY(Radio Teletype, 印刷電信:F1B)、PSK31(Phase Shift Keying, 31ビット/秒データ伝送用の位相シフト電信:G1B)などがある。さらに、電話帯域モデムによるパケット通信、本格的なデジタル通信であるD-STAR(Digital-Smart Technology for Amateur Radio)、画像通信ではSSTV(Slow Scan TV)による静止画伝送やATV(Amateur TV)と称す動画伝送、等々が存在しており、普及の違いはあるにしろそれぞれ使われている。しかし、なんと言ってもCW(モールス電信)に敵う魅力的な通信形態は無いように思う。今回は電信の歴史をふり返ると共にアマチュア無線の歴史を概観してみる。

2.モールス電信による通信のはじまり

アメリカのモールスがヴェイルと発明したモールス符号と電信機によって、1844年にボルチモア・ワシントン間130kmに敷設した電線で通信実験に成功した。このモールス符号がその後多少改良されて世界に普及した。1845年にモールスは、さっそくマグネティック・テレグラフという会社を設立し、電信を事業化している。1853年にはアメリカ全土に89の電信会社が出来ていたそうである。また西部開拓で沸いていた時代であり、鉄道網の急拡大に伴って電信が全米に普及していき、電信士という新たな技術職が確立していった。モールス符号の送受には特殊な知識と技能を必要としたことから、その能力に応じて男女の差なく処遇されたそうだ。そのため、女性が高給を得られる職種として多くの女性電信士が活躍し、女性の社会進出の一端を担ったとのことである[1]。

日本には、1854年に日米和親条約締結のためペリー提督が2度目に来日した際、米国大統領フィルモアから徳川幕府へ電信機が献上され技術が入ってきた。だが実際に使われ始めたのは1869年で、東京・横浜間に電信設備が敷設され日本最初の電信事業が始まった。因みに、10月23日の電信電話記念日は、この電信線の敷設を始めた日(旧暦9月19日を新暦に換算した日)である。1871年には、長崎~上海および長崎~ウラジオストックの間に海底ケーブルが敷設され、国際通信も始まっている。

電話は1876年にベルによって発明されたが、真空管の発明以前であり音声増幅は不可能な当時、都市間の長距離の電話通信は無理であった。増幅機能のある三極真空管が1906年にドフォーレによって発明されたが、実用になるのは1920年頃以降であり、当時の長距離通信は全て電信に頼っていた。そんな時代にヘルツが1888年、マクセルが予言していた電波の存在を実験によって初めて実証した。図1はミュンヘンのドイツ博物館に展示されているヘルツの実験装置のレプリカである。


図1 ヘルツの実験装置のレプリカ(ドイツ博物館にて撮影)

ヘルツによる電波の実証がきっかけとなり、多くの実験家により電波による通信技術の模索が始まった。そのような実験家の一人がイタリアのマルコーニであり、火花送信機とリッジが発明したコヒーラという電波検知器を用いて1895年に約1.5kmの無線通信に成功した。本格的な開発を行うため、翌年に母親と一緒にロンドンに赴いて支援者を得て通信距離の記録を伸ばしていった。1897年には6kmの距離でモールス符号による通信に成功し、1899年にはフランスとの間でイギリス海峡を横断する実験に成功した。さらに1901年には、大西洋を横断するイギリスとカナダ間の約3,500kmの通信実験に成功し、無線通信の威力を世界に示した。この時イギリス側に設置された送信機は、同調回路付きの火花送信機で出力は約25kWだったとのことである[2]。

当時日本では、長岡半太郎がヘルツの実験を知り1889年に追試実験をはじめている。本格的には逓信省電気試験所において1896年に研究が始まり、松代松之助と木村三郎がマルコーニと同様の技術を独自に開発している。1897年には月島と3.4km離れた第五台場の間での通信実験を公開している。これを見て海軍も無線通信の開発を始め、松代は1900年に海軍へ移って艦船搭載用の無線電信機の開発に携わった。逓信省の研究は佐伯美津留が引き継いで、1900年には千葉県八幡と神奈川県横須賀大津の間約50kmの実験を行い、さらに1903年には長崎と台湾の間1,200kmの通信に成功している。一方海軍では、木村駿吉が1903年(明治36年)に370kmの交信能力を持つ三六式無線電信機を完成させた[2]。この成果が、1905年5月に日本の海軍がロシアのバルチック艦隊と戦闘した日本海海戦に活かされた。

海軍連合艦隊では、この三六式無線電信機を大型艦艇から順次搭載し、日本海海戦までには仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上の全艦艇に装備していた。日本海海戦は、ウラジオストックに向けて航行するバルチック艦隊を連合艦隊が待ち受けて戦ったものであるが、無線通信が戦争に使われた最初の出来事であったと言われている。仮装巡洋艦「信濃丸」が九州西方沖で最初に敵艦隊を発見したとき、「タタタタ敵第二艦隊見ユ」「敵艦隊二百三地点、午前五時」との暗号電報を送信し、巡洋艦「厳島」が中継して東郷平八郎司令長官が座乗する旗艦「三笠」へ通報された[3]。これにより戦闘が開始され、連合艦隊の有利な展開に大いに寄与したと言われている。横須賀の記念艦「三笠」の無線電信室には、復元された三六式無線機が展示されているが実物とは多少異なっているようだ。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の中で日本海海戦の場面が放映されたが、図2はその撮影に使われた「三笠」の無線電信室にセットされた三六式無線機であり、実物写真や文献に基づいて制作されたものである。


図2 旗艦「三笠」無線電信室における三六式無線電信機
〔NHKドラマ「坂の上の雲」のセット;東宝スタジオにて〕
(提供:電気通信大学コミュニケーションミュージアム学術調査員中村治彦氏)

  • 連載記事一覧
  • テクニカルコーナー一覧

お知らせ

発行元

発行元: 月刊FBニュース編集部
連絡先: info@fbnews.jp