2013年5月号

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連載記事

アマチュア無線への思い

JA1CIN 三木哲也
(公益財団法人 日本無線協会)

第2回 CW(モールス電信)はアマチュア無線の原点

3.無線電信の普及とアマチュア無線のはじまり

一般の船舶への無線電信の普及がはじまり国際的な運用方法を定める必要性が出てきたことから、1906年にベルリンで第1回国際無線電信会議が開催された。日本からは、電気試験所の浅野応輔所長を主席委員とする6名の代表団が参加している。ここで、公衆通信を扱う船舶局と海岸局に適用される周波数などを定めた条約が制定された。この条約により、一般公衆通信には波長300m(1MHz)と600m(500kHz)が、それ以外の業務または海岸局の遠距離通信には600m未満または1,600m以上(187.5kHz以下)が割り当てられた。その他、遭難信号などが定められた。これに従い、日本では銚子に海岸局(呼出符号:JCS)を開設し1908年5月に日本で初めての無線電信による電報業務が始まった。続けて7月には、大瀬崎(JOS)、潮岬(JSM)、角島(JTS)、落石(JOC)が開局している[2]。

当時の電報業務にはこのように中波帯が使われていたが、1910年代に入ると実験や趣味で行う無線電信(以下、アマチュア無線と記す)が増え業務用通信に妨害を与える機会が増えてきたことから、米国では1912年にアマチュア無線が使用できる波長を200m(1.5MHz)に制限する規則が定められた。当時、アメリカのアマチュア無線局は1万局ほどあったようであるが、この規則が出来たことで1,200局程度に減ったとのことである[4]。1913年にアームストロングにより三極管発信器と再生受信機が発明されたことから、それまでの火花式送信機、高周波発電機などの送信技術とコヒーラ検知器、鉱石検波器などの受信技術に比べて高い周波数の送受信が容易となり、短波帯でのアマチュア無線の実験が再び活発になったようだ。1914年にはARRL(アメリカのアマチュア無線連盟)が発足している。1920年代に入ると、短波による大西洋横断通信が成功し、より高い周波数による長距離の通信実験が成果をあげるようになってきた。そのため1924年に米国では、アマチュア無線用波長帯(周波数帯)として、200m帯(1.5~2MHz)、80m帯(3.5~4MHz)、40m帯(7.0~7.5MHz)、20m帯(13.6~15.0MHz)、5m帯(60~75MHz)が定められた[4]。

日本でのアマチュア無線のはじまりはアメリカよりもやや遅れるが、1925年秋頃に大阪市の梶井謙一氏と神戸市の笠原功一氏が波長300m(1MHz)で約20kmの交信に成功したのをはじめとして、両氏が翌年春に行った北海道・落石海岸局(JOC)と短波での交信などの活動がそれに当たると言われている。当時の日本には未だアマチュア無線の制度が無かったため、自分たちで適当な呼出符号を付けており、梶井氏、笠原氏はそれぞれJAZZ、JFMTを用いていたとのことである。また、関東でも仙波猛氏(J1TS)や礒英治氏(J1SO)などのグループがあり1926年3月5日には仙波猛氏(J1TS)と関西の谷川譲氏(J3WW)が波長40m(7MHz)で初めて関東・関西間の交信をしている。そして、これら関東・関西のメンバーが中心になって日本アマチュア無線連盟(JARL)が1926年6月に創設された。創設時の連盟員としては37名の名前と当時の呼出符号が記されている[5]。このJARL創設のニュースは直ちに世界に伝わって、ARRLの機関誌QSTの1926年8月号のI.A.R.U. NEWS欄に図3のように掲載された[5]。


図3 QST誌に速報されたJARL発足のニュース

逓信省は、アマチュア無線を許可していなかったので、この記事を見て大変驚いたとのことである。これが契機となり、逓信省は短波実験局の許可方針を定め、翌1927年3月1日にJLYB有坂磐雄氏とJLZB楠本哲秀氏の2局に初めて免許が下りた。しかし、この2局は厳密にはアマチュア無線局とは見なしにくい事情があったようだ。個人として最初の短波私設無線電信電話実験局の免許は、1927年9月10日にJXAX草間貫吉氏に許可された。同時に免許の下りた局は、JXAX, JXBX,・・・JXHXの8局であり、許可された波長は38m(7.9MHz)に限られ、電力は2Wないし10Wであった[6]。当時のアマチュア無線先進国であったアメリカで短波のアマチュア無線バンドが制定された後、わずか3年で日本に私設無線実験局の免許制度が出来たことは注目に値する。

当時JARLはすでにコールブックを発行しており、1926年発行の最初のものには29局が掲載されている。その後、局数はどんどん増えて1934年1月発行のコールブックには168局が掲載されているが、電信+電話が162局、電話のみは6局であり、当時は電信での運用が主流であったことが分かる。1941年12月8日の太平洋戦争の開戦に伴って、全ての私設無線実験局の電波発射は禁止されたが、その時点での局数はおよそ330局になっていた。当時の無線機は真空管方式であったが、図4のように木製板上に空間的に部品を配置するものであり、いわゆる“まな板配線”と呼ばれる典型的な組み立て方であった。受信機についても同様な方法で自作していた人が多かったと思われるが、アメリカでは軍用の受信機をアマチュア無線用に安価にした短波受信機が市販されていたとのことで、図5のHRO-JRはその例である。日本でもこのような受信機を輸入して使用していた人もいたようである。


図4 太平洋戦争以前の"まな板配線"の自作送信機の例
(提供:電気通信大学コミュニケーションミュージアム)


図5 太平洋戦争以前の市販受信機の例
〔アメリカNATIONAL社製:HRO-JR (1934-1940)〕
(提供:電気通信大学コミュニケーションミュージアム)

戦前の日本のアマチュア無線の活動で特筆すべきことは、J1EG斯波邦夫氏が1935年10月20日にW3FAR、ZS1Hに次いで世界で3番目の10m(28MHz)でWAC (Worked All Continental: 世界の6大州と交信した証) を完成させ、さらにWAZ (Worked All Zone: 世界を40のゾーンに分け全てのゾーンと交信した証)を獲得したことである。また、DXCC (DX Century Club: 世界の100か国以上と交信した証)をJ5CC堀口文雄氏とJ2JJ大河内正陽氏が獲得している[7]。

4.あとがき

1800年代半ばに、現在の情報通信の源流であるモールス電信が実用化され、その後半世紀を経ずして無線電信が産声をあげ、この技術の延長線上に現代の情報通信社会の発展がある。無線通信の生みの親マルコーニが初めて電波のことを知り、実験を始めたのは、1894年20才のときボローニア大学図書館から借りてきて読んだ科学雑誌によるそうだ[8]。1920年ごろから盛んになってきたアマチュア無線をはじめた人達も、ほとんどが10代20代の若い人達であった。このようなチャレンジ精神旺盛な若者達が、情報通信の黎明期の諸技術を開拓しまたアマチュア無線を発展させてきたことに思いを馳せたい。

参考資料

[1] 松田裕之著「モールス電信士のアメリカ史―IT時代を拓いた技術者たち」, 日本経済評論社 (2011).
[2] 若井登監修「無線百話」, 日本の無線電信機開発, pp61-66, クリエイト・クルーズ発行(1997).
[3] 吉田昭彦, “日本海会戦における通信”, 軍事史学, Vol. 17, No. 1, pp.55 (1981).
[4] William Continelli (W2XOYT), “The History Of Amateur Radio”, Columnswritten for the Schenectady Museum AmateurRadio Club (1996).
http://www.rollanet.org/~n0klu/Ham_Radio/History%20of%20Ham%20Radio.pdf
[5] “I. A. R. U. NEWS”, QST, August pp.48 (1926).
[6] 「アマチュア無線のあゆみ」日本アマチュア無線連盟50年史, CQ出版社 (1976).
[7] 芳野赳夫, “日本のアマチュア通信の歴史と世界の現状”, 電子情報通信学会通信ソサイエティガジンB plus, No.23, pp.174-180 (2012).
[8] デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著, 御舩佳子訳「父マルコーニ」, 東京電機大学出版局発行 (2007).

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