2013年6月号

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連載記事

アマチュア無線への思い


JA1CIN 三木哲也
(公益財団法人 日本無線協会)

第3回 CW(モールス電信)とアマチュア無線資格

1. まえがき

マルコーニが1901年12月12日に英国・カナダ間で大西洋横断のモールス符号による通信に成功したことをきっかけに、無線電信は特に船舶との通信に不可欠な技術として普及すると同時に、この技術にチャレンジする多くのアマチュア無線家を生み出していった。1900年代初期の無線通信の黎明期においては、業務目的の無線通信と個人的な実験や興味によるアマチュア無線の境界はあいまいであった。当時は火花放電による電波(これをB電波と言うが、国際的に1965年1月1日以降禁止となっている)であり周波数スペクトラム幅が広く、アマチュア無線が軍用などの重要通信へ妨害を与えることがしばしば生じることから、目的の異なる無線局相互の通信も必要であった。

そのため、アマチュア無線を行う者にもプロ並の技術力とQ符号の知識、さらにモールス電信のスキルが当然のごとく求められた。アマチュア無線の資格制度については国により大きな違いがあり、アメリカでは1910年代に早くも制度化が進んでいたが、日本での本格的な制度化は、1950年の電波法の制定によって初めて実現した。これにより第1級および第2級のアマチュア無線技士が誕生し、現在の第1級~第4級の資格制度に至っている。

このような経緯から、無線通信の従事者資格を得るには無線通信に関する技術・法律の知識と共に、CW(モールス電信)のスキルが求められ、アマチュア無線の資格を得るにも例外では無かった。その後の無線通信技術の発展により、船舶などの遭難や非常時の通信手段として必須であったCW通信が他の通信手段に取って代わることになり、このことも影響して現在ではアマチュア無線技士の資格取得(国家試験)においてCWのスキルは求められなくなった。CW通信とアマチュア無線の資格についてふり返り、これからのCW通信を考える一助としたい。

2. 無線通信の国際条約とアマチュア無線資格

1906年(明治39年)10月ベルリンにおいて第1回国際無線電信会議が開催され、初めての無線電信条約と附属業務規則が、参加した27カ国により調印された。この会議に日本からも6名の代表団が参加したことは前月号に書いたが、ここで(1)海岸局と船舶局との間の通信の義務付け(無線機製造会社の違いによる通信の拒否の禁止)、(2)一般公衆通信用波長の割り当て、(3)海岸局の遠距離通信用、ならびに一般公衆通信以外の業務用に対する波長の割り当て、および(4)新しい遭難信号SOSの採用(それまではCQD:各局に呼びかける“CQ”とDistress(遭難)を意味する“D”)が定められ、同時にそれらに対する業務規則が定められた[1]。

それに従って各国は国内の無線電信制度を作ったが、英国では受信機の保有にも免許を必要とするような厳しい制度だったようだ。日本では無線局は全て官営であり、未だアマチュア無線と呼べるような活動は芽生えていなかった。一方米国では、この頃すでにアマチュア無線に相当する活動が制度のないまま無免許で行われていたため、1912年に出来た米国電波法(Radio Act)によって第1級、第2級の無線従事者資格が制度化され免許が付与されることになった。免許取得には政府の試験に合格する必要があったが、CWの実技試験は5WPM(25字/分に相当)という比較的ゆっくりした速度であった。当時は火花送信機が主流であり、速度の速いモールス符号の送受信は技術的に困難であったためと思われる。

その後、1919年からは10WPM、1923年には20WPMの速度が課せられるエクストラ級というクラスを設けたようだ。1927年に改定された米国電波法では、アマチュア無線資格として、エクストラ級(Extra First Class)、アマチュア級(Amateur Class、従来の第1級)、暫定アマチュア級(Temporary Amateur Grade、従来の第2級で1年間のみ有効)の3クラスを制定している。その後、資格の呼称や実技試験の速度が何回か改定され、1936年からはクラスA、B、Cという3資格に同一の13WPMが課せられた時期もあったが、1951年に現在につながる〔表1〕のような5つの資格制度に組み替えられ、2000年に新たな動きがでるまで半世紀にわたって適用されてきた[2, 3, 4]。


表1 米国のアマチュア無線資格(1951-2000年)

話を日本に戻そう。1912年4月14日に起きたタイタニック号の遭難事故が契機となり、1914年ロンドンで開催された「海上における人命の安全のための国際条約(The International Convention for the Safety of Life at Sea:SOLAS 条約)」の会合において、船舶にはモールス無線電信装置を設置し,波長600m(500 kHz)の遭難通信波長を24時間聴取することが義務付けられた〔注1〕。

〔注1〕決議はなされたが第一次世界大戦の影響で発効には至らず、その後新たな安全規制を追加するなどの修正が加えられた条約が1929年に締結され1933年に発効した。

このため塔載人員50名以上の外国航路船への無線局設置の義務が生じた。陸上においても私設無線局認可への気運が高まってきたことから、1915年6月21日に制定された無線電信法(同年11月1日施行)に基づいて、官営の無線局とは別に私設の無線局開設を定めた「私設無線電信規則」が定められ、そこに従事する無線従事者を検定する「私設無線電信通信従事者資格検定規則」が制定された[5]。この規則に第1級~第3級の無線従事者資格と従事できる範囲が定められている。資格取得のために必要とされたCW通信の実技試験の速度は、第1級が欧文100字/分(20WPM相当)、和文80字/分であり、第2級と第3級が欧文60字/分、和文50字/分であった[5]。ここで「私設」という用語はアマチュア無線を連想させるが、これは官に対する民の意味であり、日本では米国のようにアマチュア無線が制度化されることは戦前には実現しなかった。

しかし、前月号に記したように1925年頃から関西・関東でアマチュア無線の活動がはじまり、1926年6月にJARL(日本アマチュア無線連盟)の創設に至ったことが契機となり、1927年からは個人が開設する無線局にも道が開かれた。ただし、研究機関などが設置する「実験局」として扱われ、その運用には第3級の無線従事者資格が適用された。実験局のコールサインについては1928年に整備され、J1A□のようにAから始まるのは官庁用、Bから始まるのは学校用、Cから始まるのは企業・個人用として付与された。因みに、これによる最初の企業・個人用としてJ1CAのコールサインは安中電機(現在のアンリツ株式会社)の実験局に付与されたそうだ[6]。

戦時中は禁止されていた個人無線局の再開に向けてJARLからの粘り強い働きかけが功を奏し、日本のアマチュア無線が制度化されたのは1950年6月1日に施行された「電波法」においてであった[7]〔注2〕。電波法に基づく「無線従事者国家試験及び免許規則」において、第1級および第2級アマチュア無線技士が以下のように定められた。
・第1級アマチュア無線技士:アマチユア無線局の無線設備の通信操作及び技術操作
・第2級アマチュア無線技士:空中線電力100W以下で50MHz以上又は8MHz以下の周波数を使用するアマチユア無線局の無線電話の通信操作及び技術操作

〔注2〕6月1日「電波の日」は1950年6月1日に電波三法(電波法・放送法・電波監理委員会設置法)が施行されたことにちなんでいる。

このように規定された根拠は、1947年の国際電気通信会議で定められた無線通信規則に「アマチュア局の機器を運用するための許可を受けようとする者は、モールス符号によって文字を正確に手送りし送信し、及び正確に聴覚受信することができることを証明しなければならない。専ら1,000MHzを超える周波数を使用する局については、この要件を課すことを要しない〔注3〕。ただし、主管庁は技術的観点から運用者に課す要件を緩和し得る」と規定されていたことに基づいており、第2級は規則のただし書きによる資格でありCW実技試験が課されていなかった。第1級に課せられたCW実技試験の速度は、欧文60字/分、和文50字/分であった。これにより、日本でも米国と同様なアマチュア無線が実現し、最初のアマチュア無線技士の試験は1951年6月に実施され、第1級47名、第2級59名が合格したそうだ[7]。

〔注3〕アマチュア無線従事者のCW通信能力を不要とした操作範囲の規定は、1,000MHz以上からその後の無線通信規則の改定により、順次緩和された。すなわち、1959年の改定において144MHz以上となり、1982年の改定により30MHz以上と改定された。

無線通信規則にて、短波帯で運用することの多いアマチュア無線の操作条件にCW通信能力が求められていたのは、当時の通信技術では船舶や軍の通信をはじめ公衆通信などとの混信の可能性があると認識さており、それを回避する能力が必要だったからである。それにもかかわらずCW通信の出来ない第2級の資格を設けた背景には、1950年頃の日本の通信技術は戦前に比べて大きく進歩し電波の質や受信機の性能が高まっていたことと、海外への伝搬が限られる8MHz以下(具体的には7MHz帯と3.5MHz帯)および50MHz以上を許容しても問題は生じないであろうという判断があったものと思われる。このようなモールス電信(code)を含まない免許を通称Non-code Licenseと言う。

これに続く大きな制度変更は、米国のノビス級のような初心者の資格の導入である。日本におけるノビス級のあり方はJARLにおいても種々の意見があったようであるが、1958年の電波法の改正により電信級と電話級が設けられ、11月5日に施行された[8]。同時に第2級も見直され、CW通信の実技試験が課せられるようになった。その結果の資格別操作範囲とCW実技試験に課せられた速度を〔表2〕に示す。


表2 1958年からのアマチュア無線の操作範囲とCW実技試験

この制度改正によりNon-code Licenseである電話級の空中線電力が10W以下に制限されたことで、無線通信規則への適合度は高まったと言える。また、この改正時にそれまで5年間だった無線従事者免許の有効期間が終身となった。有効期間の有った時代は、継続して業務に従事していた人は期間満了時に新しい免許証が交付され、一方業務に従事していなかった人には能力維持を確認する試験があったがほとんど合格していたそうだ。そのため、免許更新の負担軽減を図るため終身免許になったとのことである。

筆者が免許を得たのはこの改正の直前であったため、その免許証には有効期間が記されている〔写真1〕。初心者への垣根を低くした効果は絶大で、制度改正の狙い通り日本のアマチュア無線人口は急激に増加することとなった。これ以降1961年に第2級の操作範囲が全バンドとなり、電信級・電話級の操作範囲に21MHzと28MHzが追加されたが、1989年の電波法大改正に至るまでこの制度が適用された。


写真1 有効期間があった時代の免許証

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