2013年6月号

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連載記事

海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~


JA3AER 荒川泰蔵

その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年

半世紀前にタイムスリップ

筆者が終身会員になっている米国のQCWA (Quarter Century Wireless Association) から、アマチュア無線歴55年のサティフィケートが送られてきた。JARLからは2010年に会員歴50年以上の表彰状が届いているが、入会時期の証明が出来ないことで2年間の差がある(写真1)。55年前と言えば1957年でJA3AERの予備免許を得た年であるが、初めて海外に出たのは1967年であるから、アマチュア無線を始めてから10年目であった。それより前の1965年にジュネーブの4U1ITU局をゲストオペしたJA1DCY神山堅志郎氏や、イランで免許を取得したJA1GXT久保木正夫氏が、また1966年には、西ドイツで免許を取得したJA1SKY宮本尚氏がおられるので、今回はそこから1967年頃までを紹介する。


写真1. (左) QCWAのアマチュア無線歴55年の証明書と、(右) JARLの会員歴50年以上の表彰状

1965年 (国際電気通信連合 4U1ITU)

JA1DCY神山堅志郎氏が1965年に、ジュネーブのITU本部のクラブ局4U1ITUからゲストオペをしている(写真2)。「海外旅行が自由化された年、まだ旅行者が少なく、JAのOPも希でした。JAとはQSOできなかったのですが、ヨーロッパ各地から大もてで、ペディションの気分でした。昔のことで、詳しくは覚えていませんが、電話一本で押しかけていったと思います。この年まだ在米中に郵政省電波管理局に文書で相互運用協定についてお願いし、公文書で"否"の返事を頂いたのを覚えています」と述べておられる。このレポートは1985年に思い出して書かれたものであるが、1965年当時の米国では、まだ日本人に免許が与えられず、日本政府は相互運用協定を結ぶことすら考えていなかったようである。


写真2. (左) 1965年当時のITU本部ビルと、(右) その内部に設置された4U1ITU局にて右側が神山氏

1965年 (イラン EP2MK)

技術者として当時イランに滞在していたJA1GXT (後に7N2CQY) 久保木正夫氏は1965年に、JA1BHD 岩田武氏と共に、それぞれEP2MKとEP2CIの免許を得、久保木氏は1967年7月から8月末まで運用したと、1993年にアンケートを寄せてくれた(写真3及び4)。「当時より大分時間が経っており、詳しいことは思い出せませんので、帰国したころのCQ誌から抜粋します。何しろ北方一帯がソビエト連邦ですからUSSRの電波はどこを聞いてもウジャウジャしています。EPといえば現役ハム20名程度で、そのうちアクティブなのはせいぜい3~4局ですから、他のカントリーからみればまだまだ珍で、事実私のQSOした相手も1st EPだという局がほとんどでした。免許の取得は、日本のライセンスを英文化、日本大使館の証明入手後、イランPTTへ申請の形、通信機材については、当時は持ち込み規制があり、持ち込み時にパスポートへ記入、帰国時に必ず持ち出す義務がありました」と述べておられる。そしてCQ誌の記事の最後は「今後も、ハムの中から海外に進出される方もあると思いますが、EPのようにJAとは何の電波上の協約がなくともライセンスを許可する国があることを思うと、多少の規制は加えてもよいから、早くJAも外人に対して免許を与えられるようになってほしいと思うのは小生ばかりではないでしょう」と締めくくっている。


写真3. (左) EP2MKのQSLカードと、(右) EP2MKのシャックにて久保木正夫氏


写真4. 久保木正夫氏が取得したEP2MKの免許状

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