2013年8月号

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連載記事

アマチュア無線への思い


JA1CIN 三木哲也
(公益財団法人 日本無線協会)

第5回 移動通信の業績で奥村善久氏がドレイパー賞を受賞

1.まえがき

今年2月20日あるいは21日の主要新聞の紙上で、「日本人がはじめてドレイパー賞を受賞」との報道があった[1]。この記事によって多くの日本人ははじめて、ドレイパー賞という国際的な賞が存在し工学分野のノーベル賞と見なされていること、今回の受賞者が金沢工業大学名誉教授の奥村善久氏であること、対象となった業績は今日の携帯電話のはしりとなった初期の移動通信(すなわちモービル通信)であったことを知ったと思う。

情報通信に携わる者にとってこれは非常に嬉しいニュースであり、さっそくIEEE東京支部と電子情報通信学会東京支部によって「セルラー電話網の先駆的業績―奥村先生ドレイパー賞受賞記念」講演・座談会が企画された。このイベントは、受賞者と業績の紹介講演に続いて奥村氏および氏と研究を共に行った方達による座談会からなっており、7月12日に金沢工業大学・東京虎ノ門キャンパスで開催された。筆者はこのイベントを企画した一人として、100名以上の参加者と共に、奥村氏から直々に当時の研究状況を聞く機会に恵まれた。

奥村氏は、1960年代に当時の電電公社・電気通信研究所において日本の移動通信の研究を始めたその人である。日本が車社会に向かいはじめ、アマチュア無線のモービル通信も盛んになりはじめた時代である。奥村氏が研究した移動通信における電波伝搬特性の推定法は、国際的に「奥村カーブ」と言われており、移動通信の設計の基礎となっている。日本での最初の移動通信サービスは自動車電話と称され、800MHz帯を用いて1979年に開始されたが、研究段階では400MHz帯を用いる方式が提案されていたことも知りえた。モービル機やハンディ機での通信を日頃行っているアマチュア無線家にとって、移動通信黎明期の様子は関心が高いと思われるので、この講演・座談会で紹介された当時の研究状況および自動車電話の商用化に至る経緯を紹介し、今後の移動通信におけるアマチュア無線の可能性についても考えてみたい。


写真1 奥村氏の講演および会場の様子

2.ドレイパー賞とは

ドレイパー賞[2]は、米国工学アカデミー(National Academy of Engineering)が授与するCharles Stark Draper Prizeのことであり、生活の質向上などにおいて社会にインパクトの大きい業績を挙げた技術者を表彰するものであり、工学分野のノーベル賞と呼ばれている。同アカデミーのWebによれば、この賞は以下に基づいて1989年から始まり、最近は毎年授与されている。
・ドレイパー賞は、1988年にCharles Stark Draper研究所〔注〕から米国工学アカデミーに寄贈された基金によって設けられた。
・ドレイパー賞は米国工学アカデミーが工学分野の研究者に授与する最も権威ある国際賞であり、生活の質の改善、自由で快適に暮らせる力の提供、あるいは情報化の促進において、社会的に大きなインパクトを与えた顕著な成果を顕彰するものである。
・ドレイパー賞はすべての工学の範囲から選考され、受賞者への賞金は50万ドルである。

〔注〕賞の名称のCharles Stark Draper氏は、MIT器械工学研究所の創設者であり、慣性航法の父と呼ばれアポロ計画の遂行に大きな貢献をした技術者である。氏の功績を称えて、同研究所は1970年にCharles Stark Draper研究所と名称変更された。その後、同研究所は1973年にMITから離れ独立の研究所となり現在に至っている。

ドレイパー賞のこれまでの授与実績は表1のようになっており、当初は隔年に1件づつだったようであるが近年はほぼ毎年授与されている。最初のドレイパー賞は、モノリシック集積回路の業績に対して半導体分野の研究者として著名なJ. Kilby氏とR. Noyce氏に授与されている。


表1 これまでに授与されたドレイパー賞

無線通信分野では、1995年の通信衛星、2003年のGPS、2005年の地球観測衛星、そして今回の移動通信に授与されている。今回の移動通信の業績は、正確には「世界最初のセルラー電話のネットワーク、システム及び標準化への先駆的貢献(Pioneering contributions to the world’s first cellular telephone networks, systems, and standards)」として顕彰され、M. Cooper氏(米国)、J. Engel氏(米国)、R. Frenkiel(米国)、T. Haug氏(スウェーデン)、奥村善久氏の5名が同時受賞したものである。

今年のドレイパー賞授賞式は2月19日に行われたが、奥村氏に同行された伊藤貞男氏(元NTT研究所、奥村氏の後任の移動通信研究室長)によれば、授賞式はワシントンD.C.ユニオン駅構内にある施設で行われ、格式張った式とはずいぶん違うパーティー的な雰囲気であったとのことである。ドレイパー賞メダルおよび授賞式の様子を写真2に示す。


写真2 ドレイパー賞メダルおよび授賞式の様子〔提供:伊藤貞男氏〕

3.初期の移動通信研究

上記の講演・座談会においては、最初に伊藤氏から移動通信の研究初期の時代背景と奥村氏の業績、および授賞式の模様が紹介された。それに引き続く座談会の冒頭で、奥村氏自身から当時の研究内容や研究にまつわる苦労話が紹介された。その内容と別の機会に奥村氏から直接伺った話を含め、要約して以下に示す。

・UHF帯の移動通信における電波伝搬は、それまでまったく把握されていなかったため、最初に電波伝搬の実測をする必要があった。1962年11月~1963年1月および1965年3月~6月の2度にわたって、453MHz、922MHz、1310MHz、1430MHz、1920MHzの電波を用いて、関東平野一円を走り回り電波伝搬測定の実験が行われた。

・この実験に先だって、当時の関東電波監理局へ電波伝搬測定に用いる送信局の免許申請をしたが、一度に5波の申請ということで担当者が驚いたのか「電電公社に免許を与えると事業に使うことになるから許可出来ない」と言われ、なかなか許可されなかった。「事業目的ではなく将来の移動通信の研究目的であり、同時に5波の免許が是非とも欲しい」と粘り強く説明へ通い、6回目にようやく免許が取得できた。

・基地局設備の設置場所も問題であった。実験場所は市街地も必要であり、またアンテナの高度の違いによるデータ収集も必要なため、東京タワーを利用するのが一番良いと考え百数十メートルと二百数十メートルの高さに1週間ずつ4つのアンテナを設置することを願い出たが、けんもほろろに断られた。放送中のテレビ電波への影響が懸念されたことは予想されたので、干渉計算をして実験用送信機を置いても問題ないという結果を持って再度依頼したが、すぐには認められず3回目でようやく許可がでた。その他、ビルの屋上や山の上など高所を利用して、30mから1,000mまでの高さで、6箇所の実験用基地局が設けられた。1,000mは、筑波山山頂のタワー利用による。

・許可された電波のうち同時に4波を用いて、測定車で移動しながら送受信する電波が地形や建物・樹木などの影響を受けてどのように変化するかが、関東一円で延べ約3,000kmを走行して実験された。実験での問題は測定器の安定度の悪さであった。当時の機器は真空管式であったため安定化電源を使用していても一日中使用していると測定値が10デシベル位も変動してしまう状態であったため、頻繁にレベル較正をする必要があった。消費電力も大きく1kW必要であったが、手に入らず米軍の払い下げ品を2台調達して使用した。しかし、たびたび故障し1台を使用し、もう1台を交互に修理に出している有様であった。測定値はペンレコーダを用いて記録したが、4波の周波数の相互関係を把握するため同時に記録する必要があり、東京中を探して4チャンネルのレコーダをようやく見付けることが出来た。

・最後の難関は、膨大な測定結果をどうやって処理するかということであった。例えば図1のような記録を一つ一つ読み取って数値化して統計処理するのであるが、コンピュータはもちろん電卓もない時代であり、アルバイトの人達に手伝って貰い人海戦術で処理するしかなかった。データを読み取る精度を確保するのに大変苦労した。


図1 電波伝搬測定値の記録例(市街地の短区間における瞬時値変動)[12]
筑波山頂送信、距離:23kmの水街道市内、走行速度:15km/時、記録区間:50m

・これらの統計処理の結果を基地局からの距離に対する電界強度の図にしたものが、有名な「奥村カーブ」であり、電界強度の中央値(電界強度がそれより大きくなる時間率とそれより小さくなる時間率が等しくなる値)について、短区間での瞬時変動に対する中央値を用いて長区間中央値を求め、それを2のようにグラフ化していることが特徴である[3]。このような距離による電界強度中央値の変化が、大都市市街地、中小都市市街地、郊外、解放地の4種類の環境に分類されて、広い周波数領域(400MHz~2GHz)について作成され、多種の基地局高(30m~1,000m)についてグラフ化されていることから、広範囲に利用可能な貴重な基礎データとなった。米国ベル研究所においても同様の測定が行われていたが、大都市のみではるか小規模なデータしか取得していなかったそうだ。この結果は英文論文[4]として発表されると共に、CCIR(現在のITU-R)にも寄書として提出されCCIR Rec. 370-2という勧告に採択された[5]


図2 「奥村カーブ」における電界強度の統計的表現法

・この様な基礎データを蓄積すると共に、1962年に400MHz帯を用いるチャンネル間隔25kHz移動通信方式の研究が開始された。この方式は、3のような基地局配置にすることも決め1966年に完成したが、当時の郵政省からの事業認可が得られず商用化には至らなかった。ただし、この技術は道路公団の専用通信システムとして実用化された。


図3 幻となった400MHz帯自動車電話方式の基地局配置案〔提供:伊藤貞男氏〕

・奥村氏は、400MHz帯は利用できる周波数帯が限られていたことが事業認可に至らなかった理由と考え、まだ手つかずであった800MHz帯を利用する研究計画を1969年に提案した。しかし、当時のNTTは電話の次の新サービスとしてテレビ電話を考えており、研究所のリソースをミリ波導波管方式をはじめ大容量伝送の研究やデジタルテレビなどの研究につぎ込んでおり、自動車電話の研究には研究所幹部の理解がまったく得られなかったそうだ。奥村氏は、それでも粘りに粘ってようやく翌1970年に研究計画書が承認され、無線と交換の研究者が連携した研究体制を作ることが出来た。そして、この研究構想と無線方式、交換方式の研究内容が1971年10月の電子通信学会通信方式研究会において発表され、国内の無線通信の関係者に大きなインパクトを与えた[6]

・1972年には郵政省電波技術審議会において「800MHzを用いる陸上移動業務の技術的諸条件」の審議が開始され、自動車電話サービスの認可に向けての準備が始まった。その後、1973年に郵政省とNTTによる800MHz帯の電波伝搬調査、1974年にシステム機器の第二次試作、1975年にシステム仕様を完成させて研究所の手を離れた。これを受けて事業導入の準備が進むと同時に、電波技術審議会において関連する課題の審議が行われ、1979年12月3日に自動車電話の商用サービスが開始された。

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