2014年5月号

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連載記事

海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~


JA3AER 荒川泰蔵

その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年

海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任

日本の企業活動のグローバル化に伴い、海外で運用する日本人アマチュア無線家も世界の各大陸に広がり、グローバル化の様相をみせてきた。この年(1978年)の9月1日、筆者は米国への赴任が決まり、9月12日に米国の就労ビザであるE-1マルチビザを取得、10月3日に赴任(写真1の左)するという慌ただしい時を過ごした。以来1988年7月に帰国の辞令(写真1の右)が出るまでの約10年間を米国で過ごすことになるが、出発前にニューヨーク在住のN2JA塚本葵氏を紹介して貰っていたので、アマチュア無線を継続できることに不安はなかった。出向先は、ニュージャージーに本社のあるシャープの現地法人会社、Sharp Electronics Corporation (SEC)であったが、近くに在住のJA1BMI小林巌氏を紹介され早速アイボールQSO、11月にニュージャージー北部で開かれたARRLハドソン支部のコンベンションに連れて行ってもらった。そこで小林氏と共にFCCのテクニシアンクラスを受験、幸い小林氏と共に合格して小林氏にはN2ATF、筆者にはN2ATTの免許が与えられた。そのコールサインでARRLのFULL Memberとして入会できたのが翌年1月24日であり、米国に赴任してから僅か4ケ月足らずであった(写真2)。その後の米国及びその周辺での運用については、次号以降の年代順の記事に織り交ぜて紹介させていただくことにする。


写真1. (左)筆者の米国出向の辞令(1978)と、(右)本社勤務(帰国)の辞令(1988)。


写真2. (左)米国出向先SECの名刺と、(右)ARRLの会員証(1979)。

1978年 (香港・マカオ VS6HK, CR9AJ)

JA1UT林義雄氏は、香港とマカオからの運用について、次のようなアンケートを寄せてくれた。「日米加共同製作のAO8による日本人との初交信が目的で訪問した。VS6BEのLouttit氏のご好意により彼のシャックを使わせていただいた。AO8ではJ-mode 8局、A-mode 1局の計9局と交信できた。6mは初交信ではなかったが、942局 8カントリーと交信できた。同時にわれわれペディグループにより行われたCR9AJの6mは874局と交信したが、これは史上初のマカオからの6m交信となった。ロケーションの良さとコンディションに助けられ、8カントリーの6m QSOはまずまずの成果であった。その後このQRVの近くにVS6SIXのビーコンが作られ今でも電波を発射している。香港は誰でもゲストオペが許されるようである。VS6HKのコールは香港で特別のイベント用に用意されているクラブコールサインである(写真3の左)。(1986年7月記)」


写真3. (左)VS6HKのQSLカードと、(右)CR9AJのQSLカード。

マカオについては、「1978年4月29日から5月6日にかけて、Torres氏のCR9AJのゲストオペとして6m及びサテライトを運用させていただいた。この運用は私にとっては初めての海外運用であり、以後XX9UTまで15回の海外ペディの端緒となったものだけに印象深いものでした。6m、サテライト共、マカオからの初運用でした。総交信局数は6mで874局(同時に行ったVS6HK香港の942局と合わせ1,816局)、AO-8で4局(VS6HKは9局)であった(写真3の右)。(1986年5月記)」

1978年 (フィリピン DU0WPX, 4D88UT)

先月号で紹介した親比家のJA3UB三好二郎氏は、コンテスト局(DU0WPX)についてのレポートを寄せてくれた。「1978年、マニラ湾のコレヒドール島からWPXコンテストに参加のために、グループに与えられた特別コールサインの局であった(写真4)。(1985年5月記)」


写真4. DU0WPXのQSLカード。

また、上記香港やマカオでも運用したJA1UT林義雄氏は、特別記念局4D88UTの運用について、次のようなレポートを寄せてくれた。「DU1NRSヘレナス氏の好意により、フィリッピン第1共和国独立80周年を記念し、4DとJAが88をするという意味で最初4D+88+JAとなるはずだったが、JAのペディグループのUTのコールにいつの間にか変わってしまって4D+88+UTとなった。そのお蔭でUTはミス・マニラに市長表敬訪問の際に88をしてもらったという(写真5-7)。(1988年1月記)」


写真5. (左)4D88UTのQSLカード。 (右)DU1JJTトパス会長にお土産を渡すJA1UT林義雄氏。


写真6. (左)ハガティ・マニラ市長に横浜市長からの贈り物とメッセージを渡すJA1UT林義雄氏。 (右)DU1NRSヘレナス氏が西郷横浜市長の書を説明しているところ。


写真7. (左)PARAのトパス会長へのJARL原会長からのメッセージ。 (右)ハガティ・マニラ市長への横浜市長からのメッセージ。 (クリックで拡大します)

1978年 (タイ HSIARU)

IARU第3地域会議に参加したJH1VRQ秋山直樹氏は、特別局HSIARUについて、次のようなレポートを寄せてくれた。「1978年10月7日から9日にかけて開催されたIARU第3地域会議に際して、特別に許可された局。RAST会員と、会議参加者に運用が許された。(1985年5月記)」

また、そのHSIARU局をゲストオペしたJA3UB三好二郎氏も、次のようなレポートを寄せてくれた。「バンコクで行われたReg.IIIコンファレンス会場に開設された特別局で、サフィックスがIARUで、プリフェックスに数字を含まない特別コールサインで、参加者は誰でもオペレートすることができました。当時は数局の個人シャックを訪問してゲストOPで運用することもできました(写真8)。(1988年1月記)」


写真8. (左)IARU第3地域会議場でのJA3UB三好二郎氏。 (右)HSIARUを運用するJA3UB三好二郎氏。

1978年 (ナウル C21TA)

ナウルに駐在していたJL1QDF新井敏夫氏は、その国の免許について次のようなレポートを寄せてくれた。「免許については、CWの試験と口頭試問で、局の設備のCheckがある。試験官は郵政省の職員であった。政府の職員であった事とElec. Engineerであった為、並びに友好裡の間柄であったのでEasyだった。コールサインのサフィックスは空きがあればイニシャルを使用できた(写真9)。ハムの親しかった仲間はC21BJだったかMr. Billという現地人。オーストラリア人の仲間は多数いた(総局数は18局程度)。絶海の孤島なので、趣味以上に実益もあった。一般人がライセンスを取得するのは非常に困難と思われる。クラブ局(C21NI)のゲストオペが良いと思う。(1988年1月記)」


写真9. C21TA新井敏夫氏のQSLカード。

1978年 (米国 N2AIR, WB2ZTB, KA2EPQ)

米国でN2AIR/7としてアクティブだったJA1LZR岩倉襄氏(写真10)は、免許について次のようにレポートしてくれた。「1976年に駐在員として赴任、1978年にGENERAL級を取得し、西海岸のシアトルに転勤、運用開始、現在に至る。国籍に関係なく、FCCのテストにパスすれば免許が与えられる米国の免許制度のお蔭で、長期の海外勤務が出来ている次第です。(1985年10月記)」


写真10. (左)N2AIR/7岩倉襄氏のQSLカードと、(右)N2AIR/7岩倉ご夫妻。

米国でWB2ZTBの免許を得られたJA1PTI山口晟氏(写真11)は、受験について次のようなレポートを寄せてくれた。「当時は毎週水曜日、NYCのVarric StreetのFCCで受験。最初にCW、続いて150問のWritten Test。合格すると、2週間でLicenseを入手。(1986年7月記)」


写真11. (左)WB2ZTB山口晟氏のQSLカードと、(右)WB2ZTB 山口晟氏。

また、JI1VLV伊原ナナ子氏からは、米国でのゲストオペについてレポートが寄せられた。「1978年12月15日から1979年1月10日までアメリカに旅行し、KA2EPQをゲストオペさせて頂いた。(1987年4月記)」

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