2014年5月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
1978年 (ケイマン諸島・米領バージン諸島 ZF2BX, KP2/WB1EZI)
JH3OII中村千代賢氏はケイマン諸島での経験を、「米国の免許 (WB1EZI=1978年当時) を提示、国籍表示も求められなかったのでそのまま申請し、即日免許となった(写真12-13)。(1985年3月記)」 と報告してくれた。
写真12. (左)ZF2BX中村千代賢氏のQSLカードと、(右)ZF2BXの運用場所。
写真13. ZF2BX中村千代賢氏の免許状。
また、米領バージン諸島については、「プエルトリコから小型機で30分の米領バージン諸島、セント・トーマス島は観光と海軍以外なにもないリゾートアイランドです。運用当時はプリフィックスがKV4からKP2に変わった直後で、ポータブルとは言え”KP2”を初めて使った例ではなかったかと思います。ホテルはコーテジ風の海岸沿いで、周りのヤシの木に釣り糸を高く投げて張ったダイポールと100Wで主にEU相手にパイルを捌きましたが、残念ながらJAのConditionはNGでした(写真14)。地理的にはカリブなるも、文化的には既に米国本土の影響をかなり受けており、島の黒人の何%が地元の人なのか疑問ですし、他のカリブ諸島と比べると、何となくEXOTICISMに欠けます。帰りの飛行機では、バーミューダ・トライアングルの特有のエアーポケットを満喫しました。(1991年9月記)」 と報告してくれた。
写真14. (左)KP2/WB1EZI中村千代賢氏のQSLカードと、(右)KP2/WB1EZIの運用場所。
1978年 (パラグアイ共和国 ZP5XBC, ZP5XBD)
パラグアイ共和国で仕事をされたJA1QXY花崎豪氏からは、次のように詳細な報告が寄せられた。「日本電気(NEC)で通信システムの設計を仕事にしており、その関係でZPに滞在しました。日本出発に先き立ち、従事者免許証の英文証明をまず電波管理局にて入手しましたが、結局役に立ちませんでした。証明は白紙にタイプし、管理課長のサインのはいったものでしたが、免許申請先の担当者より、日本大使館のオーソライズを受けてくるよう求められ大使館より断られたためです。一課長のサインは登録されていないとの理由からです。代わりに使用したのが、従事者免許証の”西文証明”です。日本ではあまりお目にかかりませんが、日本文と西文にたいする公証翻訳人に、免許証の内容を西文で書いてもらい証明してもらいました(写真15)。
写真15. JA1SNA山口真氏の日本の免許証のスペイン語訳証明書。
私の仕事は、幸いなことに免許を発行するANTELCO(パラグアイ電信電話公社)のマイクロ/衛星回線のプロジェクト関連であったため、客先のプロジェクト責任者の推薦状を添付し、免許申請書にその他必用事項を記入して申請しました。たまたま免許責任課長が海外出張中であったため、約2カ月かかりましたが4月初めZP5XBC (同時に申請した友人の山口氏はZP5XBD)のコールがおりました。免許状と運用注意事項書(主に罰則と罰金が書かれたものhi)を、パラグアイ・アマチュア無線連盟への入会金として日本円にして約15,000円と引き替えに交付されました。クラスは”C'”、パラグアイの最上クラスのライセンスでした(写真16)。運用にあったっては、山口氏が持ち込んだTS520に、借家の庭の大木より垂らした7/14MHzの傾斜型ダイポールで、不思議なほど良く飛んでくれました。対蹟点効果のせいでしょうか、JAのローカルラグチュウもおもしろい位良く聞こえます。ZPからみて一番聞こえにくい所は、大洋州特にVK/ZLでした。季節にもよると思われますので一概には言えないかも知れませんが。1978年4月より帰国した6月までの3カ月で約2,500局のQSOでQRTしました。(1987年7月記)」
写真16. (左)山口真氏のクラブの会員証と、(右)ZP5XBDの免許状。(クリックで拡大します)
同時期に免許を得られたJA1SNA山口真氏からも、次のような報告を頂いた。「申請書(自己のフォーマットで)、JAの従免、従免のスペイン語訳(パラグアイ法定公証人の訳)、パスポートのコピーをANTELCOへ提出すると約1ヵ月で局免許が取得出来た。同時にクラブへの入会が義務付けられている。なかでも従免の英文版はサインのみで印(電波管理局の)が無い為認められず。オリジナルを公証人に訳してもらった。JAのライセンスは初めてだそうで、当時仕事が一緒だったJA1QXY花崎氏と一緒に申請し、彼はZP5XBC、私はZP5XBDの免許を受けた。いずれにせよ、仕事先がANTELCOだった為、個人的な知り合いにより免許された傾向が強い。借家に14AVQ+ラジアルのGPを建て、7~14を主に運用した。JAとは友人達と定時連絡をとっていた(JA0CUV, JR1AIB, JE1JKL, JH1VRQ etc.)。私は仕事の関係であまりアクティブでなかったが、ZP5XBC花崎氏は非常にアクティブにOn Airした。(1987年7月記)」
1978年 (ケニア 5Z4QT, 5Z4QJ)
青年海外協力隊員としてザンビアに赴任していたJA3KWJ小梶和男氏は、ケニアで5Z4QTを運用したレポートを寄せてくれた(写真17)。「JAの局免及び従事者免許の英文化したものを、当時KENYA PTCにいた5Z4PV吉井氏を通じて申請した。保証人と宛先も吉井氏のものを使用させていただいた。9J2滞在期間の休暇を利用しての運用であり、ナイロビの5Z4PV(ex. JA8AEL, JI1NTN)吉井氏のシャックから、及びスキムにいた同じ青年海外協力隊員の5Z4QK(ex. JR2URH)山田氏のシャックからの短期間の運用であった。合計QSO局数は1,000局程度であった。私が滞在した9J2では当時(1977-79年)はライセンスが下りず、アフリカからの初オペレートは、この5Z4からであった。(1988年8月記)」
写真17. 5Z4QT小梶和男氏のQSLカード。
また2月号で紹介したEL2FYとしてリベリアへ赴任中だったJA1XAF斎藤栄一氏も、吉井氏を訪問し5Z4QJとして運用したとレポートを寄せてくれた。「ナイロビの5Z4PV吉井殿の所よりQRV。滞在7日間。(1988年7月記)」
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ