2014年7月号

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連載記事

海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~


JA3AER 荒川泰蔵

その16 1980年代の概観 1980年(1)

1980年代の概観

1980年代は、先に紹介したJANETクラブの活動も活発になり、1985年の米国との相互運用協定を皮切りに、1986年には西ドイツ、カナダ、1987年にはオーストラリア、フランス、と次々に相互運用協定が結ばれ、日本人の海外での運用も比較的容易になり活発な運用が行われた。筆者は1980年から、1988年に帰国するまでCQ ham radio誌に「N2ATTのニューヨーク便り」と題して米国でのアマチュア無線の日常を紹介したが、海外で運用するする日本人を紹介するため「JANET News」として、分離したコラムを1981年から始めた。途中1987年から1991年までJG3STV服部匡史氏が担当してくれ、1993年まで続けたが、1994年からはタイトルを「Overseas Activity」と改め、1997年からは「ローカルトピックス海外版」、1999年からは「海外ロカトピ」と改題して2003年まで続けた。そして2004年以降はJH6RTO福島誠治氏が「DXing Abroad」として引き継いでくれた。これらの記事は、その時々の海外で運用した人達の活動を紹介し、海外での運用を志す人達を刺激し、希望を与えたことと思う。これらの記事とは別に、1985年から「日本人による海外運用の記録」として、1999年まで153回にわたり国別に海外で運用した日本人を紹介した。この記事の為にCQ ham radio誌上で公募したアンケートが、このウエブマガジン・月刊FBニュースの「海外運用の先駆者達」の記事の基礎になっている。多くのアンケートが1980年代後半から1990年代にかけて書かれたものであるのはそのためである。

さて、1980年はサイクル21のピークの時期ともあって、JA1BK溝口皖司氏の南太平洋ツアーと、JA7SGV鈴木進一氏によるインド洋・太平洋ツアーを含め、海外から多くの日本人アマチュア無線家が運用した。従って、そのレポートも多いため2回に分け、溝口氏と鈴木氏のツアーについては次号で紹介する。

1980年 (オーストラリア VK1BM, VK1ARA)

JA1RHL荒大助氏(写真1)は、2回にわたって次のようにレポートを送ってくれた。「1980年2月、キャンベラにやってきてすぐにVK1BMで個人局を開局しました。日本出国前にわざわざ巣鴨まで出向いてJARL国際課に相談したもののケンもホロロの応対でガッカリ。当時のJARL窓口では平身低頭でお願いしたにも関わらず、英文のJARL会員証明書発行も日本の免許の英文翻訳証明も頭ごなしに拒否されてしまったのです。それに比べて豪州の電監は驚くほど親切でビックリ仰天。免許人氏名も住所も漢字で書かれ、昭和年号記載の日本語免許証(状)などチラっと見ただけでお構いなし…、ホームシャックの写真とCWモードしか印刷されていなかったJA1RHLのQSLカードを見せただけですべてOK、係官自らがニコニコと申請書に記入してくれて私は最後にサインしただけでVK1BMの最上級コールサインをその場で発給してくれました。


写真1. (左)VK1ARA荒大助氏と、(右)VK1ARAのQSLカード。

VKローカル局と交信するうちに、当時は彼等が日本を訪問しても日本で運用出来ない事を知らされてなんとも肩身がせまくなり、慌てて当地の最上級従事者資格を取得した次第です(写真2)。合格と同時に電話一本で名前と同じコールサインに変更してもらいました(写真3右)。JARLでの体験でガッカリした直後でしたので、感動のあまりこちらのハム雑誌に4ページも記事を投稿してVK電監の応対ぶりをほめちぎりました。それからもう20年近い年月が経ちましたが、いつ訪問してもVK電監は私にはニコニコと親切ですし、コーヒーまで出ます。こちらでは日本と違って、市街地や一般住宅地ではアンテナの建築規制がうるさくてタワーなどはなかなか立てることが出来ません。昔の法律でさえクランクアップタワーを立てる許可が出るまで2年、建設途中で3回も検査がありました。規制が厳しくなった現在でしたら、アンテナタワーを立てるのはまず不可能に近いでしょう。大都市在住VK局のアンテナが質素な訳はここにあります。(1999年7月記及び8月追記)」 尚、2回のレポートの重複部分は削除/合成させて頂いた。


写真2. (左)VK1ARA荒大助氏の最上級従事者資格証、(右)その裏面には顔写真入りの所持者の特徴記述がある。 (クリックで拡大します)


写真3. (左) VK1ARA荒大助氏が入会したWIAの会員証明書と、(右)VK1ARA荒大助氏の免許状。 (クリックで拡大します)

1980年 (ソロモン諸島 H44TA)

JL1QDF新井敏夫氏は、「JAのライセンスを携行すれば臨時のコールサインをくれる。期間は短期。まだ、業務が不慣れであったせいか、簡単にくれたように思う。先日もワッチしていたら、21.3MHzあたりで、H44JAというJapaneseの局がパイルアップになっていた。アンテナは3ele Yagi 10mHで、北向きに固定していたので、14、21は余程BFなコンディションでなければ、JAは59 Over。南北はFBであったが、東西は局数も少ないせいかBFでした。JAで運用してマナーの悪いのにはビックリ!! (1988年1月記)」  とレポートしてくれた。

1980年 (フィリピン 4D1SEA, DX3UB)

故JA3UB三好二郎氏は、この年フィリピンのマニラで開かれたSEANETコンベンションに参加し、特別局4D1SEAをゲストオペしたらしく、1987年4月に、そのQSLカードと写真を送ってくれた(写真4及び5)。写真にはJA9AG吉井裕氏の顔も見え、参加した他の日本人達もゲストオペをしたものと思われる。


写真4. (左)SEANET 1980 in Manilaに参加したJA3UB三好二郎氏(中央)、JA9AG吉井裕氏(左側)の顔も見える。 (右)SEANETの特別局4D1SEAのQSLカード。


写真5. (左)SEANET 1980の参加者達とJA3UB三好二郎氏(後列右から2番目)。 (右)4D1SEAの開局式で第一声を送信するDU1DAN郵政大臣とそれを見守る参加者達。

また、故三好二郎氏はDX3UBについても、同時期にQSLカードと写真を送ってくれた(写真6及び7)が、この年フィリピンと日本の友好の特別局DX3UBの免許を得て、フィリピン人と日本人の複数のハムがバギオ市とマニラで運用したようである。写真には故JA3AA島伊三治氏の顔も見える。


写真6. (左) DX3UBのQSLカード。 (右)DX3UBの開局式でのJA3UB三好二郎氏(左側)。


写真7. DX3UBの日比合同オペレーター達。両写真の右端にJA3AA島伊三治氏の顔も見える。

1980年 (タイ HS1WR, HS1YL)

JA1UT林義雄氏は、「HSから初めてのSSTVの運用となった(写真8)。交信数100、10カントリー。既に亡くなられたが、HS1WRのカムチャイさんが熱心にオペレートされた。6mでは既にHS1WRにより数局が交信されていたが、一挙に500局と6mで交信したのはわれわれのパーティが初めてであった。総交信局数(6m) 475局の内、3局はSSTVのモードであった。6mはHS1YLカムチャイさんのXYLマユリさんのコールで行った。娘さん2人(HS1EO, HS1ER)も一緒に加わった。日本からのゲスト・オペレーターは私を含め6名(YL2名) であった。そのころはまだHSよりハムの運用が許されており楽しい時代だった。6mの伝搬はダブルEスポによるものと思われ、F2ではない。夜間開けなかったことからTEPの可能性も少ないのではないかと推定される。(1988年1月記)」 とレポートしてくれた。


写真8. (左)JA1UT林義雄氏がゲストオペしたHS1WR/HS1YLのQSLカードと、(右)50MHz用ビームアンテナの組み立て作業。

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