2014年7月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その16 1980年代の概観 1980年(1)
1980年 (シンガポール 9V1UU)
JA1RAR佐藤武久氏は、「シンガポールセミコンインダストリ社への駐在(通信機器開発設計部)として、1980年1月よりシンガポールに滞在し、同9月に9V1UUのコールとともにライセンスが交付される(写真9)。免許の3ヶ月前にシンガポール人である会社社長、部長2名の推薦をもらい、JAでのライセンスの英文コピーと共に申請し、落成検査を受けて無事コールがおりる。1980年、1981年は7mHのダイポールにTS-120V, 10Wで、21MHzでおもに運用し、ヨーロッパのパイルでQSOは深夜におよぶことがたびたびあった。1982年、1983年はQTHがかわり、50mHのダイポールにTS-120V+TL-120にて100W運用となる。もちろんQTHの変更により再検査を受けて無事合格。1984年、1985年現在に至るまではQTHを再度かわり、100mHの屋上にアンテナをあげるため、屋上使用権を申請し、保証金100ドルと使用料年間120ドルで許可がおりた。アンテナのロケーションはよく、ダイポールといえども6大陸すべてと交信ができ、現在2500局(1st QSOのみ)にのぼる。特にヨーロッパが交信相手として多い。
写真9. (左) 9V1UU佐藤武久氏の免許状。 (クリックで拡大します) (右)9ViUUのシャックにて佐藤武久氏と筆者(2002年)。
QSO を通じて当地にてアイボールをした局数も数多くなり、人と人の出合いをハムを通じて作りえたことが一番の思い出となるであろう。SARTSのメンバーは現在50名位で毎月1回ミーティングを行い、技術的な話し合い、その他フレンドシップを盛り上げている。私は仕事がハムに関係ある通信機器であり、IDD(International Direct Dial)やファクシミリ、TELEX、更にISDN、セルラーラジオ(自動車電話も含む)、その他の通信手段により、全世界が更にエレクトロニクス的に狭まり、多くの人が会話を交わす未来がとても楽しみである。ハムが趣味であるということは誇りに思えることもあり、更に多くのハムと交信を通じて世界の友を作っていくアマチュア局になることを願っている。(1985年5月記)」 とレポートしてくれたが、現在もシンガポールに滞在しておられる。
1980年 (オーストリア OE1XFB/JA3BAG)
故JA3BAG原周三氏は、「毎年6月末か7月初めに西ドイツの南端ボ-デン湖畔の小さな町フリードリヒスハーフェンにてヨーロッパ最大のハムフェスティバル"Ham Radio"(ハムラーディオ)が開催される。この地は湖をはさんでスイス、オーストリーとも国境を接している。文字通り国際ハムフェスティバルであり、これに参加したついでに近隣諸国を旅行することが容易に考えられる。そのためにドイツ、スイス、オーストリー3国の郵政当局が会場にブースを設け、希望者に2週間のゲストライセンスが与えられる。無料であり、本国の免許を提示するだけで発給されるので、日本の局免のコールサイン部分を係官に明示するだけでOKだった。但し、日本人に対しスイスはNGとのこと。オーストリーはクラブコールOE1XFBのあとに本人のコールサインを付け加えて運用する方法をとるので、この2週間のあいだオーストリー国内では沢山のOE1XFB/xxxxxが聞かれることになる。特にON AIRの興味がなかったので、実際にはQRVしなかった。(1985年4月記)」 とレポートしてくれた。
1980年 (ドイツ JI1VLV/DL)
JI1VLV伊原 ナナ子氏は、「免許は1980年7月1日から9月30日までのBクラス。なぜかHerrn Nanako Iharaあての許可。名前の最後に「O」がつくからでしょうか。フランクフルト、ハンブルグ、エャンファーデの3ケ所からHF及び2mで運用しました。2mではレピータを使いました。(1987年4月記)」 と、この頃各地でアクティブだった。
1980年 (バミューダ N2ATT/VP9)
筆者は、米国駐在中の休暇を利用してXYLとバミューダ島に出かけた。ニュージャージから空路2時間程の大西洋にある小さな島である。事前に依頼しておいたVP9IB, Tomのシャックを借りての運用だったが、島についてから米国の免許をベースとした臨時運用許可証(写真10)を得て彼のシャックを訪問した(写真11左)。滞在7日間の内、3日間を運用に当てたが、21MHzを中心に535QSOし、そのほとんどがJAとのQSOであった。その後、この島には1984年12月にも再度訪問して運用したが、これらの運用のQSLマネジャーは、東京のJA1DTS坂誥教正氏が引き受けてくれた(写真11右)。
写真10. N2ATT/VP9筆者の臨時運用許可証。 (クリックで拡大します)
写真11. (左)VP9IB, Tomのシャックにて、左から筆者、VP9IB, Tom、VP9IX, Edna(Tomの母)。 (右) N2ATT/VP9のQSLカード。
1980年 (ブラジル PY2ZTH)
先月号に、米国の免許を取得されたことを掲載したJA1BNW広島孝之氏は、ブラジルでの免許について、次のようにレポートしてくれた。「1978年~1980年の3年間、ソニーの駐在員としてサンパウロ市に家族ともども滞在しておりました。PYとは相互運用協定が成立していないJAは、ブラジル人に帰化しない限りPYでは運用できないことを知らされていました。最初はJARLの原会長宛に問合せ、可能性を打診しましたが、やはり希望の持てる返事は頂けませんでした。そこで、作戦は変更、JAのハムであることは公表せずに最初からWの免許(N1APF)を使ってPYの免許取得にチャレンジすることにしました。まず、親友のW1HCQ Hal(ex KA2BB)を通じ、ARRLへその可能性を打診して頂き、一方LABREの会長PT2VE Rermy Flovesへも手紙を書くなど、こちらの返事はいずれも否定的ではなく可能性を秘めていました。早速、PT2VEからの紹介状を持ちDNTEL-SP(サンパウロ州の電監)へ、法律の分かる会社の優秀な秘書と共に交渉に行き、結果交渉は大前進、次の書類を提出するように伝えられました。
1. PYに住んでいるとうい住民票。 2. 税金の支払い証明書。 3. リグの購入時のレシート(持ちこみ時のInvoiceで代用)。 4. FCCのライセンス(N1AFP)の写し。 5. パスポートの写し。 6. 電気代、電話代の支払い証明書。 7. 局の申請書(外国人用)。 8. 身分を保証する書類(会社が証明)。 9. 無犯罪証明書(日本から取り寄せ)。
結果、提出10日後に私のイニシャルに合わせたPY2ZTHのスペシャルコールがおりました(写真12及び13)。日本人へ与えられた最初のPY免許だったようで、“PY/JAとの最初の出会い”とういことでPYの日系人ハムが中心となりお祝いをしてくださいました。交渉に99%、申請作業は1%といったとこでしょうか、XYLにはもうあきらめなさいといわれながらも、この間2年を費やしました。(1985年4月記)」
写真12. (左)PY2ZTH廣島孝之氏が入会したLABREの会員証と、(右)PY2ZTH廣島孝之氏のQSLカード。
写真13. (左) PY2ZTHを運用する廣島孝之氏。(右) PY2ZTH廣島孝之氏の免許状。(クリックで拡大します)
1980年 (カナダ VE2GCO)
JH3OII中村千代賢氏は、「1978年の電波法改正により、外国人でも従免がとれる事となり即受験した。局免は市民権(or永住権)がなければもらえぬが、通信省(DOC)ではIMMGRATION STATUSの提示を要求されなかったためそのまま申請→免許となった。永住権を持たない日本人が局免を受けた第1号と思う(写真14)。1. 日本の免許でポータブルVEの許可が下りた前例はあるが、これは二度と無理であろう。 2. 日本の従免の翻訳証明を通信省へ提示して、ある特定のクラブ局からON AIRする許可が下りた前例はいくつかある。これは地方通信局の判断による。 3. またカナダ政府より日本の郵政省へ相互運用協定の申し入れを1974年頃行っているが、その時の郵政省の回答が「クラブ局の一員としてのみ許可」の方針であったため、この交渉は1978年頃に凍結してしまった。(1985年3月記)」 とレポートしてくれた。
写真14. (左)VE2GCO中村千代賢氏の免許証と、(右)VE2GCO中村千代賢氏の免許状。 (クリックで拡大します)
1980年 (アラスカ KL7/AJ1A)
また、JH3OII中村千代賢氏は、「JG1BUF酒村さんがアラスカに住んでおられた頃、JFK→NRTのStopoverでお邪魔して、シャックを使わせて頂きました。流石に国際航空路の中継地(当時)、14MHzや21MHzではEUやW2など入感の仕方がそっくりです。勿論JAもよく入ります。まだ夕方だからと長居しているともう11時PM!白夜でしたから2~3時AMに夕焼けが見えたのが当地の深夜でした。(1991年10月記)」 とレポートしてくれた。
1980年 (米国 N2CAO)
JG3STV服部匡史氏(写真15)は、「2度目のニューヨーク駐在の直前、CQ誌の"N2ATTのNY便り"で、Wのライセンス取得が可能なこと、JANET CLUBがHELPしてくれることを知り、飛行機の中でN2JAへ手紙を書き、ガイドブックを送って頂いたのがきっかけです。先ずGeneralをそして翌年Advanceを手にして以来、それまで夢中だったゴルフもぷっつりとやめ、週末はもっぱらJANETのメンバーと交流、またはRigの前に座っていることがおおくなりました。最初はHFのRigまで手がまわらず、まず2mのHTを手に入れ、NYの名だたるRepeaterをAccessして喜んでおりましたが、そのうちW2SNM/R(MAARC)のメンバーにしてもらい、Repeaterを中心とした期間が長く続きました。無味乾燥になりがちな、単身長期赴任も、ハムを仲立ちとしたJANET East Coast各局、そしてRepeaterを通じてのLocal 各局との交流で、本当に充実した生活を送ることができました。
写真15. (左)N2CAO服部匡史氏のQSLカードと、(右)服部匡史氏(N2ATTのシャックにて1980年代)。
W2SNR/RのClub Meetingに出席してよく聞かれることはといえば、なんといってもJAでWのハムがライセンスをとれないということです。その度にJAの不公平さを問つめられ、本当に返事に窮します。いつまでもWのハムの(又はFCCの)寛容さに甘えたままでいることの是非は言うまでもないことと思います。Wの各局にJAでもライセンスがとれますよ、是非JAへ行って運用して下さい・・・と言える日が、一日も、いや一刻も早く来てほしいと願っています。その日までは肩身の狭い思いが続きますから・・・。(1985年5月記)」 と とレポートしてくれた。
1980年 (国連本部 4U1UN)
4U1UNについては、既に3月号の当記事(その12)で「4U1UNの創始者HB9RS, MaxのJANETクラブとの交流と、Maxの功績」として紹介したが、筆者は滞米中の1980年11月にARRLハドソン支部のコンベンションで、N2ATF小林巌氏が紹介してくれた4U1UNの会長HB9RS, Maxの好意により、その年以来1988年に帰国するまで、JANETメンバーと共に実に29回運用させて頂いた。1980年11月に21MHzでJA5MG稲毛章氏とのQSOが最初で、グループで約5,500QSO(内JAとは約1,000QSO)を記録した。当時のQSLマネジャーはW2MZV, Hermanで、1987年にSKしたあとはNA2K, Harryに引き継がれ発行されてきた。また、毎年国連の日(10月14日)にはプリフェックスの数字が周年の数字に代わる特別コールサインで運用していて、1982年の37周年には4U37UNで運用し、1985年には40周年記念の4U40UNを運用した。これら国連アマチュア無線局の運用について、当時蒐集した国連の郵便切手と共に、去る2014年5月19日から25日まで、大阪府立「花の文化園」のイベントホールで開かれた「花と趣味の切手展」に出品し、一般来場者に公開して国連切手と共にアマチュア無線を紹介した(写真16及び17)。
写真16. 切手展で「国連アマチュア無線局の運用と国連切手」と題して出品した作品をバックに筆者(2014年5月)。
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ