2014年4月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
バンコクで第7回SEANETコンベンション開催
SEANETとそのコンベンションの話は既に述べてきたが、1977年にタイのバンコクで開かれた第7回コンベンションは、筆者が参加した初めてのSEANETコンベンションであり、日本人ハムが本格的に参加しはじめたコンベンションではかったかと思われる(JA1ANG米田治雄氏はそれ以前の1974年にも、マニラで開かれた第4回コンベンションの参加者リストに残っている)。バンコクでは1972年の第2回目も開催しているので、5年ぶりの2回目であるが、そのプログラムを含む運営は洗練され、この時に配布された小冊子(写真1の左)を見ると、単に趣味団体の集まりではなく、科学技術振興、国際交流、社会貢献等をPRする場となっていたことが伺える。
写真1 (左)SEANET 1977 in Bangkokの小冊子と、(右)参加者の寄せ書き色紙。
同時に配布された参加者名簿を見ると、15ケ国から127名の参加があり、持参した色紙に一部の参加者のサインを頂いたが、HS1WR, 9N1MM, 9V1QMなど、既に他界された著名なアマチュア無線家のサインも残っている(写真1の右)。日本からの参加者は筆者以外に、JA1ANG米田治雄氏、JR1SWB中山幹康氏、JA9AG吉井裕氏、JA0AD小林勇氏の5名であった(写真2及び3)が、バンコク駐在のHS1ALS(JA2CSJ)富田和政氏が主催団体RASTのメンバーとして参加したので、合計6名の日本人が参加したことになる。米田氏と中山氏はJAMSATを代表して、アマチュア通信衛星(OSCAR)の講演をするために参加されたようであった。今回はこのSEANETコンベンションでの特別局HS0SEAを含むタイから始めるが、上記JA1ANG米田治雄氏(1919-2007)に筆者が初めてお目にかかったのは、それより9年前(1968年)の、同じバンコクであったことを付記しておく。
写真2. (左)SEANET 1977の会場となったErawan Hotel。 (右)SEANET1977の会場にて、左からRASTの会長HS1WR, Col. Kamchai Chotikul、筆者、JA1ANG米田治雄氏。
写真3. (左)SEANET 1977の会場にて、左からタイ人ハム2人と、JA9AG吉井裕氏、JA0AD小林勇氏。 (右)SEANET 1977の会議風景、メインテーブルの左からJA1ANG米田治雄氏、2人おいてHS1WR Col. Kamchai Chotikul、JR1SWB中山幹康氏。
1977年 (タイ HS0SEA, HS1ALS)
軍政下にあったタイで開かれたSEANETコンベンションに参加し、HS0SEAをゲスト運用した筆者(JA3AER)は、次のように記憶を記録していた。「1977年11月、SEANETのコンベンションがバンコクのErawan Hotelで開かれ、久しぶりにバンコクを訪れたが、会場には特別局HS0SEAが設置され、コンベンションへの参加者に運用を許していたので運用させてもらった(写真4)。しかし、軍政下にあったためか、英語とタイ語しか使用が許されず。しかも交信は総て録音され、またシャックの外には銃を手にした2人の兵士が立つというものものしさであった。(1985年4月記)」
写真4. (左)SEANET 1977の会場に設置された特別局HS0SEAからSEANETをコントロールするS79R(WB8JDR), Mr. Carl Reder達。 (右)HS0SEAのQSLカード。
当時、バンコクに駐在していたJA2CSJ(HS1ALS)富田和政氏(写真5)からは次のようなアンケートを頂いた。「RASTに入会申請書と日本の免許のコピー(英文)を提出しメンバーになる。入会後3ヶ月間RASTの月例会に出席すると、コールサインHS1ALSの割り当てがあった(写真6)。例会はバンコク市内のホテル、レストランなどで開かれ、毎回50名程の出席があったが、そのうち約50%は外国人であった。例会では食事をしながら、会の事務連絡、ビューロー経由のQSLカードの授受、雑談などがあった。局の運用期間は1977年- 1979年の3年間で、アパートの屋上にCQアンテナを設置し、主にJAとコンタクトしたが、使用言語は英語かタイ語でなければならなかった。(1987年12月記)」
写真5. (左) SEANET 1977の晩餐会にて、左からJA0AD小林勇氏、HS1ALS(JA2CSJ)富田和政氏。 (右)HS1ALS富田和政氏のQSLカード。
写真6. (左)HS1ALS富田和政氏のRASTへの入会申請書と、(右)コールサインが書かれたRASTの会員証。
そして、それに添えられた手紙には、「(一部抜粋) 今から10年前BANGKOKのエラワンHOTELでお会いしたのを今もはっきりと憶えています。私はBANGKOKに3年滞在し帰国しました。タイ国での局の運用はアンケートに書いた通りですが、局開局の許可はタイ政府の正式な許可によるものではないと思われます。当時RASTの会長であったMR.カムチャイ(故人)の努力でRASTのMEMBERは局の運用を黙認されていたと思います。無線機器をタイ国内に堂々と持込むことは出来ませんでしたので、持込みには苦労しました。」とあり、軍政下にあった当時のタイの様子が伺える。
1977年 (イラン EP2TY)
イランからアクティブあったJA3AEV(EP2TY)矢井俊夫氏(写真7)から次のようなレポートを頂いた。「イラン革命後(1979年4月)すぐに再免許をPTTに申請しOKをもらったが、1983年4月に再免許を申請したときは、戦争が終わるまで再発行しないとの事であったので、その頃時々出ていた局は全てアンカバ-だと思われる。革命後は1ケ月に1回、革命ポリスがシャックに来て機械の増減をチェックされた。スパイ等に渡っていなかをチェックしたのであろう。(1986年1月記)」
写真7. EP2TY矢井俊夫氏のQSLカード。
1977年 (フィリピン DU1UB, DU1POP, DX1JA)
親比家と言われたJA3UB三好二郎氏は、フィリピンで活発な民間外交を展開し、DU1UB、DU1POP、DX1JAなど(写真8)について次のようなアンケートを寄せてくれた。先ずDU1UBについては、「1977年11月、ラジコン模型コンファレンスがマニラで開催された際にコミッティーとして参加し(写真9)、役員宿舎のペニンスラーホテルに開設・運用しました。(1985年5月記)」
写真8. (左)JA3UB三好二郎氏の、DX1JAとDU1UBを兼ねたQSLカードと、(右)三好氏がゲストオペをしたDU1POPのQSLカード(4D1POPはフィイリッピン独立80周年記念の特別コールサイン)。
写真9. (左) ラジコン模型コンファレンス(Japan Radio Control Friendship Conference)で挨拶するJA3UB三好二郎氏と、(右)コンファレンス会場のメインテールで、左端がJA3UB三好二郎氏。
そしてゲストオペをしたDU1POPについては、「私の親友というより、弟のようなFreddieのシャックです。マニラにおける私のRigや生活用品は彼のところに保管してあり、私自身の局を設営する時間のない時は、彼のところからゲストオペとしてオンエアします(写真10)。(1985年5月記)」
写真10. (左) DU1POPのシャックにて、左からDU1POL、DU1POP,Freddie。 (右)DU1POPのシャックにて、JA3UB三好二郎氏。
また、DX1JAについては、「1977年7月、日比親善行事の一環として、JARL制作の映画(7J1RL)の上映やフィールド運用も行いました。それにちなんだコールサインがDUの特別プリフェックスとJAサフィックスです。仔豚の丸焼きなど、食べたり飲んだりのフィールドデーでした(写真11)。(1985年5月記)」 これらフィリピンでの三好二郎氏の活動は、当時の新聞や雑誌にも掲載された(写真12)。
写真11. (左) DX1JAを運用するJA3UB三好二郎氏と、(右)DX1JAのアンテナを建設するメンバー達。
写真12. (左)ラジコン模型コンファレンスの様子を報じた大阪新聞と、(右)DX1JA運用の様子を報じた雑誌のページ。