2014年11月号

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連載記事

アイコム50年史

JA3FMP櫻井紀佳

第2回 変革著しい1970年代

■ 新しい場所で

1970年になっていよいよ大阪万博が始まる頃、井上電機は創業から5年過ごした場所から同じ大阪市内の平野区加美鞍作へ引っ越すことになりました。引っ越し時には、従業員も増えて20数名になり、創業時の社屋では収容困難な状況になっていました。新しい場所はJR関西線(現在のJR大和路線)の加美駅からすぐの所に新築3階建ての自社ビルを建て、新規に従業員も採用して気持ちも新たにスタートしました。3月始めの引っ越しの朝、万博ソ連館の頂上に雪が積もったとのニュースが流れていたことを今も覚えています。

■ ヘリカル同調のIC-20

新しい場所に移って最初に開発したのが12チャンネル搭載のFM10Wトランシーバー、IC-20です。当時は多くの業務無線が60MHz帯から150MHz帯に変わるバンド変更があり、中でも警察無線がアマチュア無線の周波数の近くに変わったため、警察無線からの妨害が大きな課題になりました。その妨害排除のため、高周波部のフィルターを急峻にする必要があり、色々と検討した結果、ヘリカルフィルターを作ることにしました。1/4λの線や棒を同軸状にすると鋭い共振特性になることは知られていますが、共振素子をコイル状にして小型化したものがヘリカル同調回路です。

外側の真鍮製のカン(CAN)と内側のコイルを巻くボビンの大きさや、コイルの線の太さと長さ等を何回も実験して特性を取り、最良のものを決めました。この特性を取るのに当時はまだトラッキングジェネレーターやこの周波数のスイープジェネレーターさえない状況で、SGとバルボル(真空管電圧計)で格闘していました。しかし、このお陰で警察無線の妨害は激減し、IC-20は東京タワーの下でも使える無線機と評価されました。

IC-20のもう一つの特徴は無線機を動作分けしてユニット化したことです。例えば受信高周波部、IF部、AF部、発振部、送信ヤンガー部等で、これにより各部のユニット取替が可能となり、製造とサービスで融通が利くようになりました。また、チャンネル数も12チャンネルとなり、多チャンネル化の幕開けとなりました。さらに、このIC-20の兄弟機として50MHzのIC-60も開発し販売しました。

■ IC-21

IC-20が警察無線等からの妨害に強い特性を持っていたことから、固定機も手がけることになり、IC-20で行ったユニット化の技術を利用して24チャンネルのIC-21を開発しました。その時は既に各社でチャンネル競争になっており、最初は12チャンネルだったものが24接点のスイッチを見つけてきて24チャンネルになり、更に48チャンネルになり、そしてそのブロックを2つ切り替える96チャンネル機まで現れました。

1971年7月に岩手県雫石町で起きた全日空の航空機事故の際、警察はもちろん消防やアマチュア無線家まで事故の救援に向かい、それぞれが各々の無線機を持って現場に駆けつけました。この時、同じ場所に一度に無線機が集中したため、相互に妨害になり通信に支障が出ましたが、最後まで妨害を受けずに通信できたのがIC-21であったといわれ、近接の妨害に強いことが証明されました。

■ シンセサイザーの幕開けIC-200

チャンネル競争が頂点に達した頃は、受信用と送信用の水晶発振子がチャンネル分必要なため、96チャンネル機では全チャンネル分の水晶を入れると200個近い水晶片が必要となり、コストが高く、水晶メーカーを喜ばせるだけの様相でした。

こんなことではいけないと考え、シンセサイザーの開発に取り組み始めました。IC-200はアナログ式ながらPLLシンセサイザーを搭載し、20kHzステップで144MHz帯を完全にカバーし、チャンネル競争に終止符を打ちました。その後改良型のIC-200Aも発売し、これを機に水晶切替式からシンセサイザー方式に世の中が変わって行きました。

この頃、(株)東洋電具が、PLLのICを作ったので評価して欲しいとサンプルを持ってこられました。我々の欲しい周波数シンセサイザー用ではなかったのですが、東洋電具がICの開発をしているとは全く知りませんでした。この頃からIC化の時代になってきました。東洋電具はその後ローム(株)と社名変更を行い、井上電機製作所では以前から同社の抵抗器を使っていたこともあり、その後は多くのICも使うようになりました。

当時アメリカの「FM」という無線雑誌にシンセサイザーの記事がでていました。分周器にデジタルICを使い、のこぎり波発生回路やサンプルホールドの位相検波回路など、私の全く知らない技術が掲載されており、アメリカの技術の高さに度肝を抜かれた思いがしました。これは、その後の井上電機製作所のシンセサイザー開発が大きな影響を受けました。


FM誌の表紙と、シンセサイザーの回路イメージ

この頃、デジタルICも徐々にポピュラーになり、TTL ICも入手可能になってきました。デジタルICでPLLを作ろうと考え、三菱のTTL ICをプライベートで買い込み実験を行いましたが、当時のICは低速で10進のカウンターが1MHzまで動作することが困難な状況でした。

■ 全数エージング試験

井上電機製作所では、加美鞍作の新しい場所に引っ越した頃から製品全数に一定時間のエージングを行い、その後再検査してから出荷することで、信頼性を上げる努力をしていました。夜間に100台単位で、送受信比10:1のエージングをかけていましたので、直流電源のトータル電流は相当なものとなっていました。超大型のダイオードやトランジスターを沢山注文したため、井上電機は電気機関車でも作るのか、と三菱電機の人がわざわざ問い合わせに来たことがありました。

■ スペクトラムアナライザー(スペアナ)

この頃、YHP(当時横河ヒューレットパッカード)の営業担当が、スペクトラムアナライザーを持ってデモにやってきました。それは元祖スペアナともいえるHP141Tで、今までにない素晴らしい測定器であり、すっかりはまってしまいました。価格は数100万もしましたが、会社で買って貰えたのです。その結果、競合各社の中で一番早くスペアナを持てたことで無線機の性能もぐっと上がり、業界で有利に立てました。その後は最新の測定器を次々に揃えて貰えるようになりました。

■ 430MHz機の開発

IC-20と同じスタイルで430MHzの車載機IC-30を作ることになりました。妨害に強い無線機を目指すため、高周波増幅にFETを使うことが求められ、当時UHFテレビチューナーにも使えるというFETをいくつか試しましたがなかなか感度が取れませんでした。最後にソニーの3SK48で実験したところ何とか感度が取れるようになりました。当時ソニーはこのFETを一般売りするつもりはなかったようですが、何とか頼み込んで使うことができました。高周波の同調回路にもヘリカル同調回路を採用しました。

ある時、テレビの12CHの妨害を受けることが分かり、テレビ送信所のある生駒山上で実験することになりました。当時は生駒山に今のような遊園地はなく、近鉄不動産にお願いして送信所付近に入れて貰いました。妨害の状況はTV12CHの220MHz帯の2倍の高調波が440MHz付近の妨害になっていることが分かり、調査の結果、IC-30の送信出力を表示するための検波ダイオードがTV12CHの高調波を発生していたようです。念のため、現場でダイオードに短いリード線を付けてメーターに繋いだところテレビ電波の強さでメーターが振り切れになりました。その後ダイオードから高調波が出ないように対応し、このことをいつも頭に入れて設計するようになりました。

■ 小野田寛郎さんとIC31

次にIC-30の固定機版としてIC-31を開発しました。固定機のため、相手局の周波数ずれを見るセンターメーターを付けましたが、IF回路にICを採用したため出力に直流のバイアスがかかっていたため、このバイアスをキャンセルする回路が必要でした。ICには温度特性があり、温度でそのバイアスが動くため、センターメーターのこの温度補償には随分苦労しました。

1974年、フィリピンのルバング島に残留日本兵の小野田寛郎さんがいることが分かり、日本とフィリピンと合同の捜索隊で小野田さんを探すことになりました。フィリピンの捜索隊の中にアマチュア無線家がいたと思われ、捜索のための通信にIC-31を使いたいと外務省、厚生省を通じて注文してきました。まだ完成して間もないIC-31を政府御用達で2台納めることになりました。どうも先方は捜索が終われば自分で使いたかったようです。機器納入後も小野田さんはすぐには見つかりませんでしたが、通信には役だったのではないかと思っています。

■ 業務用検定機

IC-30を設計したお陰で400MHz帯の送受信機が作れるようになり、業務用の検定機に挑戦することになりました。その頃は小金井にあった電波研究所で業務機の型式検定を行っており、合格を得るのは送信も受信も当時としてはたいへん難しいものでした。送信のスプリアス抑圧比は60dB以上必要でしたが、当時は高調波を確実に60dB落とせるフィルターの設計方法はよく分かっていませんでした。もちろんまだパソコンもなく、パソコンを使った設計やシミュレーションもできませんでした。

電波研究所による検定に臨み、他の項目も何とか合格かという時に検定機が働かなくなり検定が不合格になってしまいました。後でよく調べると送信段の電源のハンダ付け不良だったことが分かり、残念な思いをしました。検定料金も結構かかったと思いますし、同じ型式名では二度と検定に出せないことをこの時初めて知りました。その後、この経験を活かして業務用機器の検定も取得し、販売することができるようになりました。

■ 好評だったAM-3D

50MHz帯のAM機ではFDAM-3が長年愛用されていましたが、これをバージョンアップしたAM-3Dを1971年に開発して発売しました。受信した信号に送信周波数を合わせる「キャリブレ」と称する操作により、送受信の周波数を一致させる方式でAM-3Dは一躍人気機種になりました。この機種に愛着を持つユーザーも多く、私自身もまだこの機種を捨てずに持っています。先日、押し入れを片付けた時にこれを見つけたため、久しぶりに受信とキャリブレーションをやってみると結構やり難いことが分かり、ユーザーの皆さんによく使って頂けたものと、いまさらながら感謝の気持ちが湧いてきました。

■ ICOM商標登録

1971年、「ICOM」を商標として特許庁に登録しました。最初はイコムではないかという話もありましたが、アメリカ人にこれを読ませると、間違いなく「アイコム」と読むことが分かり、商標としてのアイコムが定着していきました。その後ロゴマークは、現在のアイコムに変わる1987年まで使用しました。ICOMはInoue Communicationの意味で完全な造語です。ところが、世の中がITブームになりNTTの「iモード事件」以来、「I」を付けることが流行となりICOMが勝手に使われる機会が増えました。その結果、アイコム株式会社とは全く関係のないICOMを名乗る会社も結構多く出てきました。我々と分野の異なる業種の商標は法的対応が難しいのです。

■ デジタルVFO DV-21

デジタルICによる周波数シンセサイザーの検討は続けていましたが、そのような時にモトローラからPLL用のICが発売されたのです。特にそのシリーズで、位相-周波数検波用の4044の動作は目から鱗の感じがしました。このICを使ってIC-21A用のデジタルVFOを作りました。当時は周波数をキーボードで入力するようなアマチュア無線機器はなく、東京竹橋で開かれた最初のJAIAフェアに出展した時にはずいぶん話題になりました。

IC-21Aは元々低い周波数の水晶発振子を基に設計されているため、144MHz帯のPLL周波数を分周して低い周波数に戻す必要があり、そのため当時あまり使われていなかったモトローラのECL(Emitter Coupled Logic)のICを使いましたが、これが技術的に話題になったようです。

■ CMOS PLL ICの開発

このデジタルVFOが元となってデジタルPLLの開発を進めていきましたが、コントローラとPLLが1つにならないかと検討していたところ、兼松エレクトロニクス(株)が第二精工(株)(現在のセイコーNPC株式会社)でオリジナルのCMOS ICが作れるという話を持ってきました。双方の話し合いがうまくいき、CMOSのPLL ICを開発することになりました。

当初は、第二精工社が千葉県習志野市にあり、ここに打ち合わせなどで何回か行き、そのうちにNPC(当時は日本プレシジョンサーキット株式会社)が設立されたため、所在地が栃木県那須塩原市(当時那須町)に移り、ここに30回以上も通うこととなりました。

最初はこちら側でロジック回路全体を描き、IC化に必要な変更をNPCで行い、双方が確認した後、いよいよCMOSの工程別層分けのための色塗りが行われます。四畳半位の大きな紙に、8層に層分けするため8色の色鉛筆で小さなブロックを担当者が塗っていくのですが、もしどこか1ヶ所でも間違えるとそのICは失敗となるため、細心の注意が必要でした。塗られた色毎にスキャナーで読み取ってICのマスクを作るのです。当時はこんな方法でICを作っていました。

機械化が進んだ今でも1回でICができあがることはまずないようです。当時も試作なしでできあがることは極まれであり、当時NPCの偉いさんから1回でできないことを覚悟しておいてくれ、どちらがお客さんか分からないようなことを言われたのを思い出します。

ところが、脳天気な私に神が味方をしたのか、運がよほどよかったのか1回で動くものができたのです。少し不具合はありましたがこれを使って無線機が作れそうであることが分かりました。できあがったICをチェックするとカウント可能な周波数は2MHz強程度で、この周波数までのPLL回路を設計しなければならないことになりました。

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