2014年12月号

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連載記事

アイコム50年史

JA3FMP櫻井紀佳

第3回 マイコン時代

■ 空前の大ヒットIC-2N

ハンディ機を作ることになり、担当者が操作もメンテナンスもできるだけシンプルを目標に設計しました。ダイヤルにはサムホィールスイッチを採用し、電池は外付けパック式で、回路も非常にシンプルにできあがりました。当初はそんなにヒットするとは社内の誰も想像していませんでしたが、出荷してみるとものすごい人気で、アメリカに出張していた社長から何万台もの生産予定の指示があったりしました。

この人気は数年続き430MHzのIC-3Nや、業務用にも波及していきました。シンプルなだけに故障も少なく業務用を含むこのタイプのトータル出荷台数は200万台を突破しました。アマチュア無線機としては空前の台数が出ただけにアイコムの名を世に広めた一番の貢献機種になりました。

■ レピーター免許される

1980年に日本でもレピーターが免許されるようになったため、430MHz帯のレピーターを開発しました。レピーターは、一本のアンテナに送受信回路が接続されるため、自局の送信電波の発射で受信部が感度低下を起こさないようデュプレクサーで減衰させて受信機入力に接続します。送信電波は10Wであるため+40dBm。デュプレクサーの減衰が-80dB程度なので、受信部には-40dBm程度の強力な信号が入ります。受信信号に影響するかしないかは数dBの余裕しかなく、デュプレクサーの調整と受信部の妨害に負けない受信部高周波回路の微妙な電流の調整などで大変苦労しました。

■ 歴代のHF機

IC-720Aの後、小型のIC-730やIC-740、IC-741、IC-745、IC-750を次々に開発し、性能や機能を進化させていきました。IC-750は特に受信機性能が格段に上がり、ユーザーから高い評価を受けました。この頃には調整箇所も増大して130箇所にも及びんでいました。回路が複雑化して調整箇所が増えると部品のバラツキ等で所定の性能が出ずに生産が止まることもありました。この頃から設計が終わると、その後性能が変わらない方法はないものかと考え、デジタル化を検討し始めました。当時はまだDSPはなくハード的にできる方法を考え、その前にデジタル化の理論の勉強を始めました。

■ CADの導入

この頃までは製品を作るためのプリント基板の原稿は、透明なグラフ用紙に専用のシールやテープを貼り付けて作っていました。部品の足が通る穴の部分は蛇の目に足がついたようなティアドロップのシールを貼り、そこから細いテープで繋いでいました。

このようなやり方は時間がかかって効率が悪く、各社が開発していたCAD(Computer Aided Design)の中で、1983年に(株)図研の製品を導入することになりました。当時のCADは高額で、19インチCRTディスプレイだけでも700万円、パターンを描くプロッターが4,000万円と、今では考えられないような価格でトータルでは1億数千万円にもなりました。導入後は効率は確実に上がり、出来上がった図形の情報を電話線で送れるなど、納期も短縮することができました。当時はCADを導入した会社がまだ少なく、他社に差をつけることができました。

■ AQS (Amateur Quinmatic System)

1985年頃、パーソナル無線が流行りだしたため、アイコムでも製品を開発して販売しました。これを参考に、呼び出しチャンネルで相手方と一致すると両局が空きチャンネルに同時に周波数を移動するシステムがアマチュア無線にも取り入れられました。ケンウッド社が独自にこのシステムをDCL(Digital Channel Link)という名称で取り入れたため、アイコム、八重洲無線、スタンダードの3社がAQSという共通のプロトコルを作ってDCLに対抗しました。その後、両者で共通に使えるシステムの話し合いを行いましたが、このシステム自体がアマチュア無線の主旨にそぐわないとのことで市場は拡大して行きませんでした。

また、パーソナル無線そのものは周波数範囲を逸脱した不法局がはびこり、2MHz下の地下1階などという言葉が流行って最終的には地下6階などといっていました。携帯電話の要求が強まったことでこれらの周波数を割り当てたため、不法局の摘発に苦労していました。

■ DDS(Direct Digital Synthesizer)

その頃、ICの素子の性能等からPLLの限界を感じ始めていました。なんとか直接サイン波を作り出せないものかと文献を調べ、無限級数の一番収束の早い方法はないかと検討しましたがそんなうまい方法は今でもありません。Sin値を計算してテーブルにする方法しかないと考え、その取り出す方法に悩んでいました。ある時、東京から出張の帰りに新幹線の中で素晴らしい方法を思いついたのです。大発明かと会社に帰って特許の調査をした所、その一部はコンピューターの関係者には既に知られている数値積分という回路だったのです。がっかりしましたが、これでDDSができることが分かりさっそく試作しました。

最初の試作はA4の大きさ2枚ものプリント基板で、こんな大きなものが無線機のどこに入るのかと思いましたが、IC化できる話が持ち込まれワンチップにすることができました。その後このDDSが基となりPLLと組み合わせてDDSは使われています。

このDDSを最初に使ったのが144MHzのIC-275と、430MHzのIC-375です。

■ CI (Corporate Identity)

企業文化を構築し、特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、またわかりやすいメッセージで発信し社会と共有することで存在価値を高めていくというCI活動を進め、1987年に商標のデザインもこれに従って変更することになりました。また、会社全体としてCIの主旨に従った考え方や行動を継続して行くことにもなりました。

■ 東京R&D

アイコムは会社発足以来、大阪を中心に事業展開をしてきましたが、やはり東京にも技術開発と情報収集の拠点が必要になってきたことから、1987年に東京R&Dを発足しました。最初は芝大門の近くに拠点を置き、その後手狭になったため東京営業所と一緒に墨田区に移りました。現在は日本橋浜町でソリューション事業部に組織変更して活動を継続しています。

■ IC-900

しばらくコントローラーと無線機本体部を分離したタイプを販売していなかったため、本格的な分離型機種を作ることになりました。無線機本体はバンド毎にユニットを分けて、ニーズに応じて随時追加することを可能にし、バンドユニットとコントローラーとの接続には光ケーブルを使いました。光ケーブルには4チャンネルPWMの信号を使い、アナログとデジタルの中間のような信号を使っていました。このようにすることで過去に経験した分離したためにコントロールケーブルから入るノイズから見事に逃れることができました。

この頃、毎年販売店を招待して新製品発表会を行っていました。この機種をその新製品発表会で展示するときは開発がギリギリになり、徹夜で仕上げた試作機のふたをパチンと止めたとたんにお客さんが入場する綱渡りのスケジュール、なんとか間に合った苦い思い出があります。後日、ARRLにD-STARの説明に行った時、ARRLの会長がこの機種の愛用者だったことが分かり、光ケーブルの予備を送ったことがありました。

■ 和歌山アイコム

製造工場を国内に作って全面的に国内生産をすることになり、1988年、和歌山県に製造子会社である和歌山アイコム株式会社を設立しました。場所は和歌山市より少し南にある吉備町(現在の有田川町)で、高速道路の便も良く大阪の本社から車で約1時間のところです。この頃からチップ部品の比率が大幅に上がり、この和歌山アイコムでもチップマウンターを導入して全機種がチップ部品による製造となりました。その後、2009年には同じ和歌山県内の紀の川市に紀の川工場を建て、この2つの工場で100%国内生産を続けています。

■ IC-780

アイコムでは今まで多くのHF機を世に送り出してきましたが、他社にない最高のHF機を作ろうということになりました。DXerにとって必須となってきたデュアルワッチ機能、CRTディスプレイをフル活用したバンドスコープ、バンド毎に最後に使った周波数やモードを記憶できるバンドスタッキングレジスターなど多くの機能を盛り込み、余裕のある送信出力段と大幅に改善した受信性能など素晴らしい機種となりました。

■ IC-R9000

IC-780の受信機の性能を基にプロ用の受信機を作ることになりました。当時、ローデシュワルツの受信機は数100万円、アンリツの受信機でも200万円以上もする時代で、同等の性能で価格は半値以下、受信周波数範囲は100kHz~1.3GHzと広帯域のため業界で話題になり、各国政府関係からも多くの引き合いがありました。

象の檻といわれる広帯域のビームアンテナを使った情報収集システムで、一度に26台を動作させて、そこから輻射する局発のスプリアスの低減を要望されたこともありました。

次回は、1980年代後半からいよいよデジタル通信の時代になり、その話題を進めていきたいと思います。

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