2014年12月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
ユニセフアマチュア無線クラブの活躍
10月号で青年海外協力隊員(JOCV)の活躍を紹介したが、この時代(1980年代)は日本ユニセフハムクラブの活動も活発であった。東京で開かれた「ハムフェアー2014」でJA1UT林義雄氏に久しぶり会って立ち話をしたが、近くのブースに掲示された海外運用の写真を見ながら、その昔、開発途上国を訪問してアマチュア無線の普及に協力したことを懐かしそうに話してくれた(写真1)。それが日本ユニセフハムクラブの活動であったと思われるが、今回の記事ではフィリピンの4D3UAや、ミクロネシアのKC6SXがそれに当たる。ここでは故JA3UB三好二郎氏からの報告であるが、日本ユニセフハムクラブに所属して各地で活動されたメンバーは多く、このシリーズ「海外運用の先駆者達」にもしばしは登場する。アマチュア無線を通じた草の根での国際協力が、それらの国々でのアマチュア無線の発展に大きく貢献し、国際交流、国際親善を果たしてきたものと思われる。
写真1. JA1UT林義雄氏 (ハムフェアー2014にて)。
1982年 (ITU本部 4U1ITU)
JG1BKN瀬戸口達也氏はITU本部で運用した経験をアンケートで寄せてくれた。「日本より事前に4U1ITUで運用したい旨のレター及び従事者免許証(2アマ)、パスポートのコピー、返信用封筒(IRC同封)を郵送すると、運用許可証が同封筒で送付されてきた(写真2)。ITU本部の受付に、運用許可証を提示してビルに入り、運用することができた(写真3)。時間制限はなく、同許可証を提示すれば深夜でも運用可能、シャックに泊まり運用する人もいたとのことです。(1987年5月記)」
写真2. JG1BKN瀬戸口達也氏への4U1ITU(IARC)からの返信。 (クリックで拡大します)
写真3. (左)4U1ITU/JG1BKN瀬戸口達也氏と、(右)その運用許可証。
1982年 (アンドラ JG1BKN/C31LU)
JG1BKN瀬戸口達也氏はアンドラから電波を出すことが出来たいきさつを知らせてくれた。「1982年3月、スペインのバルセロナに住むEA3CYS カブリエルに会い、彼と彼の友人EC3SMハビエルと共にC31LUホセを訪ねました。私達3人は大歓迎を受け、アンドラ・アマチュア無線連盟(URA)に招かれ、C31URAを見学しました(写真4)。また、彼は私にJAとコンタクトする機会を与えてくれ、3月9日にJG1BKN/C31LUのコールサインで、アンドラより電波を出すことができました(写真5)。 (1987年5月記)」
写真4. (左)アンドラの連盟(URA)の事務所にてJG1BKN瀬戸口達也氏(中央)と、(右)JG1BKN瀬戸口達也氏のQSLカード。
写真5. (左)C31LUのシャックにて左からJG1BKN、C31SC、C31LU。(中央)C31LUをゲストオペするJG1BKN瀬戸口達也氏。(右)C31LUの2エレ・八木アンテナ。
1982年 (ギニア 3X3JA, 3X5DX)
JA1BRK米村太刀夫氏は、ギニアで免許を得て運用した経験をアンケートで寄せてくれた。「大学時代の友人に日本ギニア友好協会の会員がいて、駐日ギニア大使Mandiou Toure氏を紹介してもらう。大使にギニアでのアマチュア運用の許可を依頼する(写真6)。入国は日本の政治家のデレゲーションと一緒だったので、無線機等はフリーパス。運用地点は"独立ホテル"。約5,000局とQSOした(写真7)。ほとんどの無線機はギニア協会へドネートした。一部の機材を持って帰るとき、コナクリ―空港で苦労させられた。ギニアのマイクロ回線を設立しているNECの日本人にお世話になった。(1985年4月記)」
写真6. 3X3JA米村太刀夫氏の免許状とその送付案内書。 (クリックで拡大します)
写真7. 3X3JA米村太刀夫氏のQSLカード。
1982年 (フィリピン DU1MRC, DX1PAR, 4D3UA)
在米中のKN6RJ, ex.JR6MTY坂本正彦氏 は、この月刊FBニュース6月号の記事を見て、次の様な情報を寄せてくれた。「フィリピンのDU1MRCのお話、特に懐かしく読ませて頂きました。JA7SGV鈴木さんとの面識はございませんが、ほぼ同時期、私もマニラに滞在しておりました。DU1MRCはMabuhay Radio Clubと言うクラブ局のことで、DUを訪れる外国人ハムにもゲストオペとしての運用を可能にしていました。私もそのコールを運用した一人で、1982年3月から1983年の7月まで、マニラ郊外で日本の技術協力が行われていた職業訓練センター(OMSD)からほぼ毎日運用していました(写真8右)。当時私は青年海外協力隊の一員としてその訓練センターで電気機器のインストラクターとして働いていましたが、そこに日本のJICAからの技術協力で行われていたEELW (Electronics Equipment Library & Workshop)設置プロジェクトが進行中で、フィリピン人学生の電子機器や無線に関する興味を喚起するためとして、アマチュア局の設置運用もそのプロジェクトに含まれていたのです。
無線局の設置は1982年の1月頃から始まり、ハムの免許を持っていたJICAのプロジェクトマネージャーと私、そしてDU1GF Georgeさん他DUのハムの協力のもと約3ヶ月で無線室、機器、タワーの設置が終わり、EELWの開所式にあわせてDX1GF特別局の運用が始まりました(写真8左)。 リグはFT901のフルセット、3段クランクアップに3EL 3Band だったと記憶しています。 面白かった事として、当時 DUには21MHzのRepeaterが有り、JAの局に良く利用されていました。 受信機はマニラから30kmくらい離れたタガイタイにあり、送信機はマニラ市内、その間のリンクは440MHzで行うというシステムです。従ってマニラでは440MHzのハンディー機があれば、それでそのRepeaterにアクセスしているDX局と交信が可能でした。早いものであれから30年が経過してしまいましたが、現在も運用されているのかどうか気になるところです。(2014年6月記)」
写真8. (左)DX1GF特別局開局時、左から坂本正彦氏、DU1GF, George Francisco氏、DU1DL, Peter Scheumann氏と、(右)坂本正彦氏のDU1MRCのQSLカード。
故JA3UB三好二郎氏は、1982年4月2日から5日にかけてマニラで開かれたIARU Reg.3 国際会議に、オブザーバーとして参加されたようで、その証明書のコピーと共に、フィリピンアマチュア無線協会(PARA)の特別局DX1PARを運用中の写真を送ってくれた(写真9)。会議の期間中1982年4月5日が、PARAの50周年記念日だったようで、この特別局はその記念と国際会議を兼ねたものと思われる。(85年12月)
写真9. (左)JA3UB三好二郎氏のオブザーバー証明書。(右)DX1PARをゲストオペするJA3UB三好二郎氏。
故JA3UB三好二郎氏は、日本ユニセフハムクラブのメンバーと共に、バギオ市(Baguio)で特別局4D3UAを運用したと、写真と共にQSLカードを送ってくれた(写真10)。フィリピンアマチュア無線協会(PARA)50周年記念行事を兼ねて、日比両国の共同運用としての免許だったらしく、この時ファクシミリによる日比間の初QSOも成功したらしい。(1985年12月)
写真10. (左)4D3UAのメンバー達とJA3UB三好二郎氏(中央)。(右)4D3UAのQSLカード。
1982年 (マカオ CR9BH, CR9BK)
JA1BK溝口皖司氏から、マカオでCR9BHを運用したとレポートを頂いた。「1982年1月30日から2月4日にかけて、OH2BH, Marttiが得た免許局CR9BHのCo-operatorとして1.9-28MHzのCWとSSBでQRV した(写真11)。(1986年4月記)」
写真11. CR9BHのQSLカード。裏面にはJA1BK溝口皖司氏がCo-operatorと記され、写真も掲載されいる。
また同じくJA1BK溝口皖司氏から、今度はCR9BKで運用したとのレポートを頂いた。「1982年の2月と8月に7-21MHzのCWとSSBでQRVした。CR9の免許はJAの免許だけではとれないが、3D2MKのコール(免許)を持っていたのでOKだった(写真12)。(1986年4月記)」
写真12. (左)CR9BK溝口皖司氏のQSLカードと、(右)その運用許可証。
1982年 (タイ HS1ANQ)
タイに滞在中のJA5TNF森岡隆氏から、CQ誌で筆者の記事を見ていると手紙をくれた。「1981年2月より1984年2月までの3年間在タイ日本国大使館に勤務し、1982年の1年間のみHS1ANQを運用する事ができました(写真13)。当時私を除いて日本人の方でこちらでコールを取得し運用していた方は、郵政省より大使館に出向しておりました稲村書記官がHS1ANLのコールで時々運用していたのみです。その12月には、タイのすべてのアマチュア無線局が停波を命ぜられがっかりしました。停波後はRASTのクラブ局のHS0AIT、HS0A及びHS0B並びにJA8ATG原OMのグル-プによるHS0Cが正式に許可され(HS0C の場合は常時ではなく申請毎に審査を受け)、何とかタイよりの電波は途絶えることなく出ているようです。結局タイにいた3年間に私が使用したコールサインはHS1ANQ、HS0HS、HS0AIT、HS0SEA、HS0A(HS0Aは1982年CQ WWコンテストCWのM.M.部門でアジア第1位となりました)の5つでした。(1990年9月記)」 その後1984年2月から1986年6月までハノイ勤務、1987年11月から1990年3月まではウランバートル勤務の後、再度タイに戻られた旨手紙にあり、その後のタイの様子を知らせてくれているが、ここでは省略する。
写真13. HS1ANQ森岡隆氏のQSLカード。
1982年 (ネパール 9N1MM, 9N1VLV, 9N38)
故JH3GAH後藤太栄氏はネパールからの2回にわたる運用についてレポートを寄せてくれていた。「1982年2月に偶然QSOしたJA8IMX伊藤氏より、9Nの情報をお聞きした。1982年2月より4月にかけてネパールを訪問するにあたり、同国よりQRVの経験を持つJA8BMK福多、JA8MWC阿部両氏より、9N1MMモラン神父を紹介して頂いた(写真14)。運用は、9N1MMモラン神父のシャックを借用したが、カトマンズ郊外に位置するため、電源事情が悪く度々停電した。バッテリー、発電機等もあるが、24時間のQRVは無理であった。その後、1986年8月2日から3日まで、ユニセフクラブのメンバーと訪問し、14MHz~28MHz, CW, RTTY, SSBにQRVした。(1987年5月記)」
写真14. (左)9N1MMのシャックにてJH3GAH後藤太栄氏とモラン神父。(右)9N1RNKのシャックでMr. KhatryとRadio Nepal in Kathmanduの職員達 (JH3GAH太栄氏撮影1986)
JI1VLV伊原ナナ子氏は9N1VLV、9N38の運用についてアンケートを寄せてくれた。「免許はWB4NFO(9N1NFO)が手続きをしてくれました。ネパールには「ハムの免許」と言うハッキリした「決まり」が無い様子です。受付によって(時期によって)言う事、やる事が違うようです。DXの運用は特別な9N38と言うコールサインで、アメリカ人、ネパール人、日本人と国際的でFBでした。3ケ所から同時にオン・エア(9N1MMのお世話にもなりました)。特記すべきは、後にも先にもRTTYのオン・エアがあったのはこの時のみ。(1987年4月記)」
1982年 (グアム AJ1A/NH2)
JH3OII中村千代賢氏はグアムからの運用について、次のようにアンケートを寄せてくれた。「DX-pedi用に開発したアタシュケ-ス入りのリグとアンテナ、私はまるでJames Bond気取りで南洋へ飛びました。 グアムの旅はやはり冬に限ります。天気は良いしJAギャルは居るしHi。ホテルの窓から釣竿を出し、そこからぶら下げたダイポ-ルはいささか良く飛び、5大陸と問題なくQSOができました(写真15)。さて、技術革新著しい今日、せめてハンディーで10WくらいのHF機か弁当箱くらいで電源内蔵機が出るのを待っています。グアムはFCC管轄下ですが、米国本土と周波数割り当てが違うので要注意。(1991年9月記)」
写真15. (左)AJ1A/NH2を運用したロケーション。(右)AJ1A/NH2中村千代賢氏のQSLカード。
1982年 (北マリアナ N7DUU/NH0, KE6RD/KH0)
JF3PLF杉浦雅人氏は、北マリアナ・サイパン島からの運用の経験をレポートしてくれた。「1982年10月8日から17日まで、サイパン島からオールバンド・オールモードの運用を楽しみました(写真16)。このときはじめてアメリカのコールサインN7DUU/NH0を使いました。KE6RD中田君と一緒のペディ(写真17)で、JA1UT林OMたちがバックアップしてくれました。リグはFT-102, FT-101ZD, FL-2100Z, IC-551など。アンテナはHF用にダイポール、GPと3エレ。50MHzには6エレ、そして、サテライト用にGPをあげました。特記すべきはFirst everのFAX。他のモードも含めた総交信局数は、KE6RDと合わせて約9,600局でした。(1985年11月記)
写真16. (左)N7DUU/NH0を運用する杉浦雅人氏と、(右)そのロケーション。
その後、1999年7月29日から8月2日にかけてJARL京都クラブ(JA3YAQ)のDXペディションに参加、K7IL/KH0を運用した。(1999年9月追記)」
JE3AVS中田克己氏は、KE6RD/KH0の運用について、当時滞在中のイタリアから、記憶をたどって次のようにアンケートを寄せてくれた。「JH3KPB, JA1UT OMのご発案、ご援助にてサイパンにDXペディ、All Band/Modeで約1万局(1週間)とQSO(Wkd Over 100 DXCC Countries of 6 Continent)。1st everは、KH0-JAの50MHz RTTY 2 WayとHF(14-28) Faxでした。Rigは、Yaesu FT-101、FL-2100Bで、Antは、3ele Tri Bander(14-28)、ダイポール(1.9-7)、GP(144 サテライト)、6ele Yagi(50MHz)で、Panafax 1000、ロボット?x RTTY、VHFのRigはICOMだったと思います。JF3PLF/N7DUU杉浦君が詳しいリポートをしていると思います(写真17)。手許に今資料がなく正確にリポートできません。(1986年9月記)」
写真17. KE6RD/KH0とN7DUU/NH0の共同QSLカード。裏面に詳細なデーターがある。
1982年 (ミクロネシア KC6SX)
故JA3UB三好二郎氏は、ミクロネシアのポナペ島で、ユニセフの活動としてKC6SXを運用したとQSLカードを送ってくれた(写真18)。(1988年1月)
写真18. KC6SXのQSLカード。
1982年 (西サモア 5W1DS)
JH6GIN福満昭一氏は西サモアで5W1DSの免許を得たと、免許状のコピーを送ってくれた(写真19)。(1988年1月)
写真19. 5W1DS福満昭一氏へのレターと免許状。 (クリックで拡大します)
1982年 (オーストラリア VK1GD, VK1TA, VK3BWD, VK3ASR, VK4LC, VK5YM)
JJ3WWS青木小夜子氏は1982年12月下旬から翌年1月にかけて、VK1からVK5までのオーストラリア各地を巡訪したと、アンケートで寄せてくれた(写真20)。「特筆すべきことは、VK3BWDの庭でバーベキューを楽しんでいて、21MHzポータブルミニワット0.3W ミズホのピコ15を回していたら、JI3VAWのCQが聞こえた。呼んだがVKの強い局がQSOした。VKビクトリアタイム18:45, 1982年12月26日。ハムがとりもつ縁でVKに来たことを、チャンネル8で5分間インタビューされた。日本でいえば7時のニュースのようなもの。ニュースのない平和な、のどかな国だと思った。(1989年12月記)」
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ