今更聞けない無線と回路設計の話
2026年1月5日掲載
最後にご紹介するDPDは、昨今の携帯電話基地局装置などで主流になっている歪み補償方式です。DPDも基本的に直交帰還ループと同じフィードバック制御による非線形性補正ですが、直交帰還ループが古典制御方式のフィードバック制御であるのに対して、DPDは状態推定を用いた適応型のフィードバック制御を行う点で異なります。状態推定のアルゴリズムについては様々な方式が提唱されていますが、共通的な処理構成は図4に示す通りです。

図4 Digital Pre-Distorterの原理構成図
DPDも直交フィードバックもHPAの出力の一部を抽出して直交検波を行いI-Qの複素データとして送信側のI-Qデータと比較するところまでは、アナログ処理とデジタル処理の違いを除けば、ほぼ同じです。直交フィードバックとDPDの違いは、送信側のI-QデータとHPA出力の差分情報を直接送信信号に加えるのではなく、LUT(Look Up Table)と呼ばれるHPAの推定入出力特性を示す参照テーブルの更新に用い、送信信号にリアルタイムでフィードバックしないところにあります。LUTとは入力データの振幅に応じた入力信号の補正係数を出力する参照テーブルで、DPDは入力信号にLUTが出力する補正係数を乗算(プレディストーション)してHPA用の入力信号を生成します。LUTが出力する補正係数のイメージを図5で説明します。
図5(A)のグラフは、これまでの解説に使用してきたモデルHPAの入出力特性ですが、今回はAM-PM特性を青のプロットで追加しました。直交フィードバックループでも解説しましたが、フィードバック補正を行うときは、この位相回転成分も補正する必要が生じるので、補正はI-Qの複素信号で行います。図5の(B)は(A)をI-Qのプロットに変換したものですが、ここでは図4のI側のみに信号を入力(Q=0)して、プリディストータの乗算器は1倍固定状態でHPAを動作させ、フィードバックされた信号を直交検波する前提で変換しています。位相回転が発生するまではI信号しかフィードバックされませんが、HPAの飽和が始まって位相が回転し始めるとQ成分のレベルが上昇する様子がわかります。DPDでは(B)のグラフにおいてI信号の入出力特性が右肩上がりの直線、Q信号は0になるようにHPA入力信号を補正します。従って(C)のグラフに示すように、線形性が維持されている間はI=1,Q=0、飽和し始めるとIは+の係数で増加して振幅を大きくし、Qは-の係数で振幅が大きくなり、HPAの歪で生成されたQ成分と位相相殺がかかるような係数が出力されます。図ではI信号のみを用いて解説しましたが、実際のLUTではQ信号側、すなわち図4のQ側のみに信号を入力(I=0)したときの補正特性も必要になります。LUTでは、このように合計4つの補正データ(I信号入力に応じたI補正量、I信号入力に応じたQ補正量、Q信号入力に応じたQ補正量、Q信号入力に応じたI補正量)、入力信号の振幅に応じて生成され、I信号に乗算するデータ、Q信号に乗算するデータ毎に掛け合わされて、主信号との乗算器に入力されます。フィードバック信号から補正量を抽出する方式は、差分情報を単純にテーブルにマッピングする方式から多項式演算で周波数特性まで表現する方式まで様々で各メーカのノウハウとなっていますが、昨今ではFPGAの組み込みIPとしても供給されていますので、実用化のハードルが下がったのではないかと思います。
このようにDPDでは、フィードバック信号を直接送信信号にフィードバックするのではなく、状態推定器に相当するLUTを歪み推定部が逐次更新する制御方法を採ることで、閉ループ通過特性に発生する極(ループ共振点)と回路の遅延時間を切り離して設計することが可能になり、広帯域(比帯域で10%以上)の歪み補償を行うことが可能になります。実際に広帯域に渡って歪み補償を行うためには送信系/フィードバック系それぞれの周波数応答特異性や直交度の補正など様々な工夫が必要になり、各社が独自の技術で実装しているのが実態です。
第15話では非線形歪みを改善する代表的な技術について紹介しました。5G以降の携帯電話では適応変調の選択肢に256QAMが含まれており、送信HPAの直線性に対しては、隣接チャネル漏洩電力の要求よりも送信SNRの要求の方が厳しくなっています。それ故、HPAの歪み補償は必須の技術となっており、もっぱらDPDが適用されています。それ以外の無線通信機においてもデジタル方式になって変調方式の主流が周波数変調から位相変調(振幅変調)に変わったため、IM3成分による隣接チャネルへの干渉が問題になり、陸上移動局を中心に歪み補償が適用されています。以下第15話の要点をまとめます。
第11話から5話に渡りましたが、非線形歪みとその改善方法に関する一通りの解説がようやく完了しました。これで第8話から続いた無線通信信号の劣化要因について一通り解説したことになります。第8話が半年前の話なので、読んでいただいた皆さんも最初の話を忘れているのではないかと思います。次回は第8話から第15話までのお話を振り返りながら、無線機のレベルダイヤグラム設計についての解説に進んでいきたいと考えます。
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