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特別寄稿

JANETクラブメンバーからFBニュース100号に寄せて

JH1HRJ・WR6Y・ZL3JP 大家万明

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この度はFBニュース100号の発行、誠におめでとうございます。JANETロールコールのメンバーに紹介したところ、沢山の方からお祝いや近況報告などの記事をお送り頂きました。創設初期から関わっておられたN2JA他OM諸氏や最近のネット運用で活躍されているW6OPQ他のメンバーからも、JANETについての熱い思いが寄せられました。今回はFBニュース100号記念へJANETメンバーからのお祝いのメッセージという形で、皆さんから頂いた記事を纏めて寄稿させて頂きます。

私自身もJANETの皆さんにはロールコールや飲み会などのオンサイトミーテイングで大変お世話になっており、毎回FBニュースでも皆さんの近況を読ませて頂くことを楽しみにしています。100回続けるということは大変な努力のたまものであり、これからもハムへの情報提供のメディアとしてぜひ継続されることを期待しております。30年ほど前に平塚の丘の上に自宅と念願のタワーを持つことができ、海外出張でお会いしたJANETの方々とオンエアでお会いするのを楽しみにしてきました。北米方面に開けたロケーションのお陰で、毎週日曜の朝のJANETネットワークでコンディションが不安定な時などは、コントローラのW6OPQ丸さんのオペレーションを、JA1PIG臼井さん、JR2PAU永山さん、JH4IFF右遠さんなどと一緒にJAサイドでのサポートもさせて頂くようになりました。また、どこに居てもJANETに参加できるように、千葉の実家にもセカンドシャックを作ってアンテナを設置したり、移動運用のために無線中継車のお下がりを手に入れて、移動先からもHFのアンテナを上げられる設備を用意しました。無線で繋がらない場合もネットに参加できるようにWebミーティングの仕掛けを利用するなど、時代のお陰でいろいろな楽しみ方が可能です。これからも、皆さんとJANETを楽しみ、またFBニュースにも新しい情報を提供できればと考えています。


写真1. (左上)JH1HRJ平塚市自宅のシャック。(右上)JH1HRJ平塚市自宅のアンテナ。(左下)JH1HRJ千葉県いすみ市のセカンドシャックのアンテナ。(右下)JH1HRJの移動用無線車。

以下、寄稿頂いた皆さんの記事を順番に紹介させて頂きます。初めに、米国Santa Cruz Mountainから毎週JANETロールコールのネットコントロールを担当されているW6OPQ丸英之氏から、またKN6RJ坂本正彦氏、JR2PAU永山智士氏、JR4PMW河野俊一氏、JA3DO塩崎章氏からも、FBニュース100号に対するお祝いとJANETへの感謝の言葉が寄せられました。また、JA1BRK米村太刀夫氏、JA1PIG臼井五郎氏、JE1BQE根日屋英之氏からは、海外運用やJANETの思い出について、さらにJG1GWL杉本賢治氏、JK1PZZ嶋田和人氏、JH3OII中村千代賢氏、JA7AUM石戸谷正晴氏からは、JANET創設時の思い出やJANET NEWSなどの情報が寄せられ、N2JA塚本葵氏からも創設当時の思いや経緯など当時の関係者しか知らない情報含めて貴重な内容を頂きました。以下、順に皆様からの寄稿をご紹介させて頂き、最後に「海外運用の先駆者達」の筆者JA3AER荒川泰藏氏に締め括って頂きます。

1. W6OPQ・JG1OPQ丸英之氏

FBニュース100号、おめでとうございます。私自身は、1974年、中学3年のときに「電話級」のライセンスで東京都練馬区にて開局、はじめて21MHzでWと英語でQSOできた時の興奮は今でも忘れられません。その後高校の時に世田谷区に引っ越し、念願のタワー・キット(10mH)を自分で起ち上げ、QSOを楽しんでいました。その後の引っ越しでアンテナも上げられず、ごくたまに2mのハンディー機でQRVする程度、局免は更新したのですが、ほぼQRT状態で、自然廃局になっていました。仕事で1993年からフィリピン、1994年からはアメリカにいるのですが、アマチュア無線の運用には到達しませんでした。2013年にベイエリアの日本人無線クラブを発見、米国のライセンスを取得して開局、日本のコールサインも復活することができました。JANETにも参加させていただき、日本・ヨーロッパと安定したQSOがしたい・・・とタワーが建てられる山の中の場所に引っ越し、その後ロールコールのNCもさせて頂いています。


写真2. (左)W6OPQのシャックから、JANETのネットコントロールをする丸英之氏と、(右)そのアンテナ。

FBニュースで最近の情報を楽しく読むことはもちろんですが、「海外運用の先駆者達」の記事で、OM諸氏のご活躍・ご苦労話を読むたびに、「なぜ、あの時に無線をつづけていなかったのか・・」と後悔するばかりです。JANETを通じて知ることができたOM諸氏の当時のお話しを、毎月まるで自分がその場にいるような気持ちで、わくわくしながら拝読させて頂いています。これは今後の後輩諸氏のためにも、とても貴重な資料になると思っています。まだ、再開局してから、たったの8年目ですが、今回は長い付き合いになっていくだろうなと感じています。何事も続けていくことが大切であり、また、難しいことでもあると思うのですが、FBニュースも月刊で100号、8年以上になる訳で、今後とも長く続いていくことを切望いたします。


写真3.  (左)米国にて、左からW6OPQ丸英之氏、NW6UP賀川正人氏、W6DHH高橋輝夫氏、KN6RJ坂本正彦氏(2014年)。(右)電通大OBと東京にて、左からJH1HRJ大家万明氏、JH1BSJ芝山仁氏、JA1CIN三木哲也氏、W6OPQ丸英之氏、JR7GDU高橋真之氏(2019年)。

2. KN6RJ・JR6MTY坂本正彦氏

荒川さん、そしてFB News関係者の皆様、FB News100号記念、おめでとうございます。FB Newsの「今月のハム」や「海外運用の先駆者達」ではお世話になりました。毎号のFB Newsの記事はいつも楽しく読ませて頂いております。アマチュア無線をやってきて良かったことは何と言っても人との出会いです。無線をやっていると日本中、世界中、何処ででもすぐに友達の輪がひろがります。この友達の輪はプライベート、ビジネスを問いません。一口にアマチュア無線家と言っても、その楽しみ方は多岐にわたり、また職業、年齢も千差万別、そして、このハムのネットワークは直接の利害関係を持たないため永く継続することができます。携帯電話など無かった学生の頃、単純に車同士で連絡が取れるようになれば旅も楽しくなるだろうと思って取得したアマチュア無線、当時 アメリカくんだりまで来て無線をやっているなどとは想像だにしたこともありませんでしたが、無線が人生を変え、その楽しみも倍、いやそれ以上の人との出会いと喜びを与えてくれた事に感謝しています。


写真4. (左)ホームシャックでのKN6RJ坂本正彦氏と、(右)モバイルシャックでのKN6RJ坂本正彦氏。

3. JR2PAU・VR2AN永山智士氏

FBニュース100号おめでとうございます。記念記事にあたって、私のハム半世紀の中でVR2AN香港での思い出の中から一つ書いてみたいと思います。香港では日本人クラブ文化部のアマチュア無線クラブVR2JCに所属していました。毎月一回クラブに集まり、香港駐在の日本人無線家とクラブステーションを運用していました。その他の活動として、ローカルハムクラブ局HARTSとの交流、ジャンボリーの通信訓練の手伝い、子供たちにラジオ製作教室を開き、科学への興味をもってもらう事など活動していました。その中でも忘れ難い思い出に、非常通信訓練があります。毎年一回、中波AMの周波数をOFTA(香港特別行政区通信事務管理局)に申請、許可をもらい、一般のラジオで受信レポートをもらっていました。クラブ員の各無線局が自分の家で受信しているほかに、小学校などにも協力をお願いしておりました。当然、香港市民の方々の中でもラジオを聞いている人もいて、その中で、ある香港市民の方から、日本のアマチュア無線家が香港市民の為にこのような活動をしていることは素晴らしい事だと、匿名で今後の活動に生かしてほしいと多額の寄付を頂いたことにクラブ員一同感激したものでした。アマチュア無線家が今後も市民の為に無線を通じて貢献できれば嬉しいです。


写真5. (左)ホームシャックにてJR2PAU永山智士氏。(右)香港時代のVR2AN永山智士氏の釣り竿アンテナ。

4. JR4PMW・9M2KE河野俊一氏

-JANETクラブのご紹介-
先ずFBニュース100号おめでとうございます。私のマレーシアでの9M2KEの運用や、オーストラリアでのVK6BHKの運用は「海外運用の先駆者達」で紹介して頂いた事がありますし、毎月の発行を楽しみに拝見しています。

さて、携帯電話やインターネットなどいろんな媒体が目まぐるしく発達して、私達はその恩恵を沢山受け便利な社会になってきたのは事実ですが、自ら発する電波で国内外の見知らぬ仲間とお喋りしたりデータ通信するのも、小さい頃にラジオを夢中で聞いた時のようにまた楽しいものです。中でも海外の仲間と交信する事は、まるでその国へ行った気分になったわくわく感さえ覚え、更に手を伸ばし、海外から直接運用して交信する事はまさにワンランクアップの気分ですが、これは経験した者にしか味わえない不思議な魅力でしかありません。

JANETクラブはこの海外運用経験者の集まりで、お互い運用した国々・地域を超えたグローバルな情報交換を行っている集まりです。そして最も大事な目的は、その経験を同じ趣味を持つハムの仲間とも共有し、多くの皆さんにもそれを味わって頂き、アマチュア無線の発展に寄与することです。ですから決して閉鎖的な限られたクラブではありませんので、海外で運用計画のある方、やってみたい方、更にはちょっとだけでも話を聞いてみたい方、どなたでも構いませんのでお気軽にメンバーへ声をかけてみて下さい。きっとその先には新しいアマチュア無線の楽しみ方や、ワールドワイドな世界が広がって人生を豊かにしてくれると思います。


写真6. (左)JR4PMWのシャックにて河野俊一氏。(右)9M2KEのシャックにて河野俊一氏(1999年)。

5. JA3DO・N2EUK・KD2YH塩崎章氏

-アメリカ駐在時のアマチュア無線の思い出-
この度はFBニュース100号おめでとうございます。私のアメリカ駐在時のN2EUKやKD2YHでの運用については「海外運用の先駆者達」その25に紹介して頂きましたが、それ以外のアメリカでの思い出をここに紹介させて頂きます。

アメリカはニューヨーク駐在員として、1966年を皮切りに3回、ニューヨーク市で11年間勤務しておりました。考えてみると、高い年齢での海外駐在でしたので、JANETクラブに参加させていただいたときは、すでにメンバー中の最高齢でした。無線と関係ありませんが、1966年当時は、ベトナム戦争の真っ最中で、E-1ビザでの駐在員でも、徴兵制度に登録が要求され、セレクティブサービスオフィスに出頭して、アメリカ国旗の下で、徴兵カードに書き込みさせられたのは、忘れることが出来ません。ランクは5Aの最低でしたが、顔はイエローと付記。

駐在中は、ライセンスを取得出来るようになったのが1973年ごろからですから、アンテナを上げて無線をやりだしたのは1983年頃からでした。一番の思い出はN2JA塚本さんやJA3AER荒川さんに、バーミューダのライセンスの取り方を教えていただき、KD2YH/VP9のライセンスを取って、Hamilton海岸で運用した事です。ポータブル機は持っていなかったので、JA1PIG臼井さんからお借りした単一乾電池8個内蔵のポータブル機で、ミニパワーながらビーチに立てたワイヤーDPで、アメリカ本土とQSO出来たものです。


写真7. (左)KD2YH塩崎章氏と、(中央)そのQSLカード。(右)塩崎氏のバーミューダの免許状。(クリックで拡大します)

6. JA1BRK・W1BRK・DU1ZV米村太刀夫氏

この歳となると記憶はまばらになり、つい数時間まえのことを思い出すのに苦労したりします。最近、高校の後輩でアマチュア無線の弟子であった人物が、アメリカ・サンディエゴから夫婦共々日本に帰国しました。彼は昔のことを良く覚えていて、それを話すのでびっくりしています。楽しい思い出話は尽きません。昔のお話をいたします。それは私が1957年に旧2アマ試験に合格してJA1BRK局を開局した前年か前々年だったと記憶します。私の義兄は当時日立製作所戸塚工場の研究所に勤務しており、無線関係で様々な指導を受けました。あるとき義兄に連れられて秋葉原に行った時です。私も当時しばしば秋葉原には電子部品やシャシー等の工作に必要なアルミ材料を購入に行っておりました。JR(当時は国電)高架下にあるラジオデパート一階にジャンク屋があり、主にアメリカの軍用無線機の部品を商う店がありました。ここにはアメリカ軍放出の新品部品が完全な防湿の袋に入ったまま売られていました。それから、何かの軍用無線機を解体した部品とか、我々にとってなじみのBC-610の終段コイルは対応周波数帯に分かれて様々あり、はしごフィーダーのアンテナ・カプラーを製作したものです。義兄はそのジャンク屋となじみがあるようで、店の主人は「弟様でございますか、何か欲しいモノがありますか?」そこで私は両端にM型(USではどう言うわけかUHFと呼ばれる)コネクターが取り付いている長さ約10mのRG-8Uケーブルが入った密閉防湿袋を指さしますと「どうぞお持ち下さい。お兄様にはいつもお世話になっていますので代金は無用です」とのこと。これは後で分かったのですが、当時、日立はBC-1000の国産化を防衛関係から命じられており、想像するにBC-1000の実機を入手したかったのでしょう。BC-1000は40~48メガのFM送受信機で、歩兵用マンパックラジオでした。これに使われていた小型の多連バリコンが、ジャンクパーツとして出回ってもおりました。防衛関係を経由してアメリカから渡された資料が日立に届いていたのでしょうが、実物はあっても実機をもとに図面に落とすには分解、切断が必要だったのでしょう。そこで、そのジャンク屋さんのルートで何台かのBC-1000を入手したようです。闇ルートだったのでしょう。私は以前、コリンズが初めてアマチュア用受信機にメカニカル・フィルターを装着した75A-3を所有したことがありました。1メガ幅をカバーするPTOの周波数直線性が劣化していましたが、そのジャンク屋に新品があり、交換しました。また内部にナローバンドFM受信用のサブシャーシーが挿せる場所があり、これをプロダクト検波に改造してSSBが快適に受信できておりました。この新品未開封のFMアダプターもここで入手したと記憶します。義兄は長浜良三、日立電子の社長在任中にガンでSKとなりました。BC-1000の件をローカルの故JA1GV岸OMに話しますと、某電気メーカーはF-86戦闘機に搭載されていた「敵味方識別装置」の入手に奔走していたというエピソードを教えてくれました。遠い昔のお話しです。


写真8. (左)JA1BRKのオフィス兼無線室にて米村太刀夫氏と、(右)そのQSLカード。

7. JA1PIG・W2HS臼井五郎氏

小学生の時NHKテレビでJA1CYA須藤典子さんの番組を見てアマチュア無線を志し、電信級免許をとった高校生から約60年間アマチュア無線を続けています。この間、埼玉県の独身寮を振り出しに、南米スリナム、ニューヨーク2回、パナマなど13回の引越しをしました。社宅がほとんどでしたが、どんな場所でもアンテナを建て無線を続けました。この中で1976年から5年間の南米スリナムが、仕事もアマチュア無線も最もアクティブで醍醐味を知った時期で、駐在の終わるころに偶然ニューヨークで産声を上げたばかりのJANETの信号を聞き、その後思いもよらないニューヨーク駐在となってJANETの皆さんとEYEBALLやJANETのオンエアーミーティングにも毎週参加できました。JANETメンバーは国連のクラブ局4U1UNにも自由に入れる特権も得て、週末はよく4U1UNに集まって運用したり、国連ビル近くのタイレストランでEYEBALL QSOを楽しみました。その後、私のアマチュア無線はJANET中心となっています。JANETのメンバーと楽にQSOが出来る様にと、現在は横須賀観音崎の丘の上に、遠隔無線機を設置して、皆さんと毎週末楽しくQSOしています。N2JAから始まり現在のW6OPQまで歴代ネットコントロール局は、個性的で味のある素晴らしい人達にたすきが渡され続けています。日本語が母語であることや、日本語を話し外国と関係ある人達の集まりであるJANET、日本語でQSO出来ることは楽しいばかりでなく、逆境にあっても勇気がもらえます。今は太陽活動が低迷期ですが、かつての様に一度に世界の各地のJANETメンバーが聞こえる日も来るに違いありません。これからも私のハムライフはJANET中心でしょう。


写真9. (左)臼井五郎氏のスリナム生まれの子供さんが描いたJANET NEWS 8号の表紙。(中央)国連本部の屋上にて左から、JS1DLC荒川謙一郎氏、JA1PIG臼井五郎氏、N2ATF小林巌氏。(右)国連本部局4U1UNの無線設備をメンテナンス中のJA1PIG臼井五郎氏。

8. JE1BQE・JD1BOO根日屋英之氏

私は生まれも育ちも、東京・秋葉原なので、アマチュア無線をやるべくして生まれてきたのではと感じることもあります。自宅の近所には、土地柄からか、父の友人にもラヂオを組み立てることが好きだというOMが多く、まず最初に感じたことは、ラヂオが好きな人たちは、年齢や職業などは関係なく、人と人とが同じ興味で話し合える、居心地の良い場所だと子供心に感じ、1971年にアマチュア無線局JE1BQEを開局しました。私は46歳から、会社での仕事と別に大学の非常勤講師として、無線工学やアンテナ工学を教えるようになりましたが、これも父が「神田の電機大(東京電機大学)・・・」とよく言っていたことが頭に残っていたのか、その神田の電機大で講義を始めました。最近でも、私が講義をしていた大学(東京電機大学、東京大学、日本大学、韓国の忠南国立大学)での講義以外の時間は、教師と生徒の関係を忘れ、いろいろ話し合える若いアマチュア無線仲間がいる環境も、アマチュア無線を続けていて良かったと思える経験の一つです。

2021年で、私もJE1BQEを開局して、ちょうど50年が経ちました。半世紀の長い間アマチュア無線を続けていてよかったことは、海外に駐在しておられた、いろいろな職業のアマチュア無線家がメンバーになられているJANETに、早い時期(1980年代始め)から仲間に入れていただいたことです。私の最初の海外からのアマチュア無線の運用は、1976年の西ドイツからJE1BQE/DLでした。ここでも年齢を超え、また、その方々が社会的に地位の高い方でも、友人として対等に接して下さいました。いつも東京のビル群の中から、弱い電波を出して参加しているJANETのロールコールも、海外からJANETメンバーが来られると開催される飲み会JANNETも、私の人生の中での大きな楽しみです。

家族では、妻(JS1HNM)と実弟(JF1LVQ)がアマチュア無線を楽しんでいます。JANETメンバー以外で、海外の親しいハムの友人は、アメリカ合衆国に多いのですが、その他、ドイツのDF5FJ, Bernhard Thiem さんhttp://je1bqe.web.fc2.com/page08dl.htmlと、韓国のHL1LUA, Jinho Kimさんhttp://je1bqe.web.fc2.com/page08hl.htmlも家族ぐるみの友人です。今後もJANETのメンバーとして、皆様と末永くお付き合いが続くことを願っています。


写真10. (左)JE1BQEのシャックにて根日屋英之氏と、(右)根日屋氏のJANETクラブ・創立メンバーの証。

9. JG1GWL・KE6QX・VE3KSJ杉本賢治氏

N2JA塚本さんのご尽力でJANETクラブが始まったのは確かですが、私にとっては、塚本さんはアマチュア無線を始めるきっかけを下さった恩人でもあります。初めてNYでお目に懸かったのは仕事のためでしたが、そのときにハムの楽しさを教えていただき、帰ってただちに勉強を始め免許をとりました。日本の免許の次はアメリカの免許をとってJANETに加えてもらいたいと考えたころ、これも出張先でKW6A大井さんにロングビーチのFCCで試験があると教わり、大井さんに会場に連れて行ってもらいました。頼りにしたのは塚本さんが書かれた「FCC受験ガイド」と大井さんにお借りした問題集でしたが、運よくKE6QXをもらうことができました。KD6IH, Zenさんこと山本さんやKB8VA, Sumikoさんによるネットにも当時はよくチェックインして、ぞんぶんにJANETライフを楽しませてもらいました。人生をとても豊かにしてくださったJANETの皆さまに心から感謝申し上げます。

JANET NEWSも忘れられない記録です。N2JA塚本さんのXYL, Kaoruさんが描かれた表紙と文中の挿絵が実に可愛くて、味わい深い会報でした。N2ATF小林さんによる会員名簿だけがコンピュータによる制作で、会員の報告はすべて手書きで両面印刷という、編集がさぞかし大変だろうと想像できる力作集でした。無線では聞けない各地からの便りを読むのが楽しくて、届くたびにわくわくして読んだものです。N2ATT荒川さんがCQ誌に連載を始められたJANET NEWSのコラムが数か月分まとめて会報で読めるようになったのも、CQ誌が届かない方々には嬉しい読み物ではなかったでしょうか。その頃のことをご存じない方もいらっしゃると思いますので、いくつかの表紙を紹介します。JANETがいつまでも続くことを願うと共に、100号を迎えたFBニュースもいつまでも続くことを願っています。


写真11. (左)東京ハムフェアー2018のJANETブースにてJG1GWL杉本賢治氏(左端)。 (右)JANET NEWS 2号と3号の表紙。

10. JK1PZZ・KG2O嶋田和人氏

-引っ越し人生終了-
1980年にN2JA塚本さんのFlushing, NYCのお宅にお邪魔し、マンハッタンのFCC事務所で受験してKG2Oを貰いました。塚本さんのFCC情報は雑誌に載っていて、「そのうちライセンス取りたいなあ」と思っていました。そしたらクラブ局JR1ZTTに社会人修士でいらした故小林正和さんが通産省からNYCに駐在された際にex. EIAJ@NYCの代表だった塚本さんと親しいと分かり、塚本さんの自宅へお邪魔していろいろ伺いKG2Oが取れました。学生だったので引き続き広島さんのPY2ZTHシャックも訪問。行けるか塚本さんに電話して頂いたら「その日は出張だけど訪問ぜひどうぞ」ということでリグだけ拝見しました。

この文を書くのに、懐かしいネコのイラスト表紙の古いJANET News #5を見たら自分の寄稿があり、すっかり忘れていた事も書いてあってびっくり。1986年に再度塚本さん宅にお邪魔したら「息子がいじらないように危険なDrakeリグは収納中」でした。私の下宿の庭に置いたルーフタワーではJANET参加がぎりぎりでしたが、その後は引っ越し三昧でHFは無理でeye-ballのみの会員でした。仕事でせっかくHouston, TXのNASA Johnson Space Center ARC、W5RRRに入れたのですが、1995年はあまりに忙しくてネットに出られたのが一回だけ。広い芝生に建った80feetタワーの14MHzフルサイズ4エレ八木で、とても強くJAに入っていたそうです。2006-2010の滞在ではQRVを楽しみにしていたのにNASA職員のレクリエーション用の建物自体の建て直しでシャックが消滅。これまた一回しかJANET QRVができてなく残念でした。でも、ボーイスカウトのJamboree-on-the-Airを手伝えたのが楽しかったです。日本に帰る直前にシャックが再建され、アンテナも寄付されたTH-7DXにリグはHF用3卓(タワー60ftと80ft)、V/UHF用2卓でもちろんARISS衛星通信対応の陣容です。このところ宇宙飛行士になる前からハムだった人がいなくなってしまい、その他職員のアクティブな人は自宅でQRVするのでクラブ局に行くと誰もいないことが多かったです。非職員の会員が一番アクティブでした。

私は、本職は定年にして、つくば市に自宅とささやかなタワーを建て、2014年からようやく電波でJANETにまた参加できるようになりました。ネットは14.310MHzがまあまあ、21.370MHzはまだ底辺コンディションですが、7.130MHzの丸さんW6OPQが安定して強くてFBです。丸さんの所に一度お邪魔しましたが、高級住宅地ではあるものの、山のてっぺんで、道路が日本の山道なみに細く、夜なら怖いでしょう。シリコンバレーを見下ろしちゃうのでQRN、YBと開ける時刻でQRM、と40mの受信は大変そうです。訪問した時もLogger、メール、メンバーリスト、伝搬サイトと4画面を駆使されていて驚きましたが、今はこれらに加えてChat、Zoomですね。夕方と早朝から毎週NC有難うございます。


写真12. (左)NASAのW5RRRを運用する嶋田和人氏、(右)N2JA塚本葵氏を東京に迎えての歓迎会(2013年)。

11. JH3OII・AJ1A・VE2GCO, Chuck中村氏

JANETに深くかかわった私のハム歴を、時系列で紹介させて頂きます。
1972: VE2に渡航、Japan Radio Centreというオーディオ店で、街唯一のパーツ屋Payette Radioのことを聞き、そこでカナダライセンスマニュアルを買う。日本の免許の翻訳証明を日本国領事館でとり、カナダ通信局に行くも運用許可ならず。1974: 地元の無線クラブミーティングに出席、会長のVE2ASが通信局の責任者は融通きかない人だとコメント、つまり柔軟化の可能性もあると認識した。1975: カレッジのカウンセリング部に有名なDXer(VE2DCW)が就任。大学のクラブ局VE2UNの免許人ということで通信局宛にRecommendationを書いてくれる。1976: そのレターを持って通信局へいくと、若い職員が日本と相互運用協定が存在すると勘違いして当該クラブ局の運用を即刻許可、CJ2UN運用開始。後日あれは誤認だったとして暫定許可に変更。塚本さんがアメリカでWB2ZRQ免許取得されたことをCQ誌で知り、Conditional級(当時あった遠隔地で受験できるGeneral級相当)の受験をFCCに申し込むが、当該等級は直前に廃止になったと却下される。1977: ボストンに飛びGeneral級を受験。帰りにNYCのGrand Central RadioでDrake TR-2(トリオTR2200G相当)とTouchtoneマイクを買いautopatchを堪能。FCC免許が郵送されてきてカナダ通信局に相互運用許可を申請、その場で許可。ローカルのHam festで中古Drake TR-3を買い、オンボロアパートの屋上に洗濯物用ワイヤーでマルチバンドダイポールをあげる。WB1EZI/VE2運用開始。1978: リグをAtlas210Xに買い替え ZF2BX, WB1EZI/KP2運用。VE2FRG/FRF高部さんと初対面、ご馳走になる。1979: 塚本さんN2JAが出張でVE2に来られ初対面(投宿されたホテルからウチまで歩いて5分以内)。日曜日だったので、当時始まっていた21.360のJANETがVE2ではスキップして入感しないことを当シャックで確認された。よって21MHzネットのすぐ後に7MHz東海岸JANETを作って頂き毎週check-inできるようになる。JANET創設前に名簿が配送され、その後ライセンスマニュアルというか、どの虎の巻が一番良いかの情報を頂く。それにより1980年1月2日、ワシントンDCを観光したついでにExtraを受験。合格したInterim Licenseを持ってスミソニアンの特別局NN3SIを運用。コールはAJ1Aに。一方、カナダでも外国人が受験できるようになったので受験し、VE2GCOを開局(この局免は今も終身有効)。1980: 夏、帰国の旅路でN2JA宅に泊めてもらい、次の日一緒にJANET NEWS(1号?)を印刷した。また、JL-005便をアンカレジで降り、酒村さん(KL7GX/NL7T)宅で、前日釣ってきたという豪勢なサーモンステーキを頂く。その折運用させて頂きAJ1A/KL7でN2JAとQSO。1981-83: 毎年夏、晴海のJANETブースで皆さんとお会いできた。1983: VE2を再訪する際またN2JA宅に泊めてもらいN2CAO服部さんと出会う。N2JA first harmonicsがキーボードを叩いていてsecond harmonics出現が間近であった。


写真13. (左)WB1EZI/VE2のシャックにてChuck中村氏(1977年)。 (右)New Yorkの日本料理店にて、左からN2ATT荒川氏、N2JA塚本氏、N2CWO吉原氏、N2AIR岩倉氏、AJ1A, Chuck中村氏、N2CAO服部氏(1983年)。

12. JA7AUM・W2YT石戸谷正晴氏

-JANETの思い出-
JANETのメンバーになって良かったのは、いろいろな人と出会えたという事であった。アメリカに滞在中は、仕事がない時は無線をやっているかゴルフをしているかであり、その中での思い出として2枚の写真を紹介します。1枚目はRidgewood, NJの私の家の裏庭にルーフタワーを立てた時、カリフォルニアからNJに来られていたKD6IHの善さんが、N2ATFの小林さんやJANETの皆さんと一緒に手伝いに来てくれた時の写真で、これが私のDXの始まりであった。2枚目はK2VZの岩瀬さんのお宅で、JANETの皆さんとバーベキューパーティをした時の写真で、今見ると皆さん若いですね。子どもさん達も大勢来ていたが、今では皆さん立派な大人になっているでしょう。当時JANETアイボールミーティングが何度かあった。そのうちの一つのミーティング用として皆さんから短信をもらい、一冊の冊子にしようという話があった。それをN2ATF小林さんが集め校正した。そのプリントを私が担当した。集まったものを小林さんから受け取り、毎日仕事が終わったあとコピーをし、それを小林さん宅へ届けそれを冊子にして、ミーティングの時に小林さんが皆さんに配ったと思う。


写真14. (左)JA7AUMのシャックにて石戸谷正晴氏。(中央)W2YT石戸谷氏の裏庭に、ルーフタワーを立てるため手伝いに駆けつけたJANETのメンバー達。(右)K2VZ岩瀬氏のバックヤードでBBQを楽しんだJANETのメンバーとその家族達(1988年)。

VE3PXD福間さんには和文CWでお世話になった。毎週JANETの前後和文CWの練習の相手をしてもらった。お陰様で一級に合格する事が出来た。又、福間さんとVE3TKW金子さんとNY州のRochesterのハムフェストでアイボールをした。雨降りの中でのハムフェストで寒かったが、夕食を一緒にして楽しいひと時を過ごすことが出来た。その時、コンピュータ用のマイクを何百円かで買ったのを、今でもまだ使っている。まだまだ懐かしい思い出が沢山ありますが、いつか又皆さんとお会い出来ることを願っております。

13. N2JA・JA1ANE塚本葵氏

-JANETと私-
JANETは海外で生活をしている日本人ハムグループ。海外に飛び出しそこで無線をやっている仲間たちというのが原則です。留学や駐在、活躍の場を海外に求めて免許を取得した人もいるし、外国人と結婚して海外での生活をした人、日系人もいます。遠洋航路や世界をヨットで航海したりした人もいて、みな海外で活躍し日本との強い結びつきを持つというのが共通で仲間になっていったと言えましょう。日本に帰国されたメンバーも多いが、海外で苦労した経験から仲間の繋がりとなって今につながっているのでしょう。地域や社会環境は違っても外国で暮らしているというのは緊張を伴うものです。そんな中で、趣味を同じくする仲間の声が聞けるのは癒しになるものです。日本人だぞ、負けないぞと悩んだ経験もあったりして、説明しなくてもわかるよと聞いてくれる仲間でもあります。通じ合う何かがあるのですね。会えて良かったと思える友人も少なくありません。JANETはそんな出会いでもありました。JANETに出会えたのは何にも変えられない大切な宝です。JANETはただの無線クラブではないと思っています。JANETは生活の一部なのですね。

人間が無線を使い出してそれほど経つ訳ではありません。無線はどの国でもその国の免許事項となっています。スマホのように誰でも使える時代が来るかも知れないが、少なくともアマチュア無線の世界では免許取得が必要です。私が渡米したのは1969年ですが、スターのSR700を唯一の引っ越し荷物として、シアトルのW7UDH, Dickのお宅に一泊したのが最初。NYに着き、ペンキの剥がれたアパートの窓にアンテナの架線を垂らしW2が入ったのに感激。免許が下りるメドは立たず、ヒースキットを組み立てたりしていました。数年経ちWB2AQC, George Patakiと知り合ったのは何かの縁かもしれません。ルーマニアからの移民でCBSのエンジニア。市民権を取得しアクティブにオンエアしていて、同じように免許の取れない若い外国人を招待してくれました。後の八重洲USAの丸山さんもその一員でした。Georgeは外国人がライセンスを取れない状況に、ハムで大物議員のBarry Goldwaterと連携し、積極的に実現の為奔走してくれました。彼は2014年に他界したが、その弔文に記されています。Goldwater上院議員は、外国からの航空機の通信士が外国性排除の為に免許が取れないのは不都合ということで、FCC受験の条件となっていた外国性排除の状況を撤廃しました。ARRLのブリテンで速報が流され、当時は毎週FCCの事務所で試験が行われていたので即時受験しました。FCCの事務所ではそのことを知らず最初拒否されましたが、本省と交渉してもらい受験が認められました。WB2ZRQの誕生、渡米から5年が経過、1975年の事でした。後のN2ATF小林OMとはハムフェストでお会いしていたが、免許を取られたのは後ほどで、最初の在米日本人とのQSOはK2VZ岩瀬OMで半年ぐらい経過していました。


写真15. (左)George Pataki氏の弔文(2014年)。(右)JANET NEWS第1号の表紙(1981年)。(クリックで拡大します)

その後NYを中心に日本人ハムが増え、ローカルでのパーテイなどEye ball QSOが頻繁に行われ、JANETクラブ誕生のきっかけになりました。JANETの創立は1979年3月にJA1ANG米田OMがニューヨークに来られ、音頭をとって頂いた時となっていますが、実際の活動は同時進行しており、各自がやりたいことを実施していったところにJANETらしさがあると言えましょう。米田OMはAMSATの活躍などで国際的にも知られた著名なハムであるとともに、帰国子女の大先輩でもあり国際的に活躍する日本人の有るべき姿を示してくれました。OMに無線クラブの設立について悩んでいると相談したところ、任せておいてと言って頂きJANETの設立につなげることができました。といってもJANETを作って行ったのは個々のメンバーであることには変りありません。米国において初めての日本人ハムと言っても、それぞれの経験もローカルのクラブで活躍していたベテランも居れば日本での経験も多様です。日本の駐在員もいれば独立して起業された方、米企業のベテラン社員と多様でしたが、皆意気に燃えていたと思います。アマチュア無線の良いところは人の心を一つにするという効果もあります。兎に角できる事からしようということで、だれかがアンテナを上げるといえば手伝ったり、家族ぐるみでホームパーテイのように場が広がっていきました。オンエアのミーティングを開き、暇さえあれば顔を揃えていました。私は日本人のハムを見つけると連絡を取り合い、ローカルのミーティングに参加、メンバーが増えてきました。小林OMのような実力派は技術面、運用面でのハムとしての活動に力をいれ、新人へのアドバイスなど個々のメンバーの援助などが広がり、交際の輪は家族同士の輪に広がり、家族同士の仲間に広がっていきました。今でも当時の仲間のXYLさんに聞くと、当時のメンバーのことを良く覚えておられます。集まったメンバーは本業も多様でそれぞれの分野で貴重な経験をされた方も少なくなく、他人に命令されて動くのを良しとせず、自分で行動するというのが多かったかもしれません。それと共に成果を挙げるには何が必要かということを知った人たちが揃っていたように思います。その特徴をもっとも良く発揮できたのは4U1UNプロジェクトだったと思いますが、それについては既に紹介済みと思われますのでそちらを参照してください。JANETは誰か一人が動かしたのではなく多様な人材が多様な活動をしたユニークなチームだったと思います。JANETの活動を知らしめた功績者を忘れてはいけません。そのお一人が一貫して広報を担当されたJA3AER荒川OMです。JANETもそうですが海外で活躍するハムの紹介シリーズは今に続き、FBニュースでも「海外運用の先駆者達」と題した連載記事を掲載してくれていて、我々の励みになっています。感謝です。


写真16. (左)JA1ANG 米田治雄氏をNYに迎えてN2JA塚本葵氏(前列中央)邸での会合(1979年)。(右)歓談中のN2ATT荒川泰蔵氏とJA1ANG米田治雄氏(1979年)。

当時手書きで発行したJANET NEWSも同じノリで文字通りの手作りで、メンバーが手書きで送ってくるのを貼り付け、XYLが表紙絵を書き、集まれるメンバーが作業場に集まってコピーから発送までやりました。これもチームワークがあって初めてできたと言えそうです。FCC受験ガイドも同じノリで、FCCの試験は日本でやっていれば容易に答えられるレベルで、モールスコードに実際のコールが出てきたのにびっくり。法規だけは若干のポイントがあったと思えたので、これを読んでおいてくれれば合格するとの内容にしました。合格したという人から連絡をもらい常に新しい内容になるようアップデート、同じ内容のものはなかったと思います。JANET NEWSもそうですが、手書きとカットはXYLに頼みました。その各ページは各自の思いが込められていますが、そのお一人EP2TY矢井OMからも寄稿を頂いていました。


写真17. (左)FCC受験ガイドに掲載されたJK1PZZ嶋田和人氏の「FCC exam 体験記」の記事。(右)JANET NEWS第3号(1982年)に掲載されたEP2TY(JA3AEV)矢井俊雄氏の「オペレーション・イラン」の記事。(クリックで拡大します)

名簿作りも当初は私の手作りで、コンピュータの専門家でもあった小林OMが、JANET独特のスタイルでオリジナルのプログラムを書いてくれ、それを私が下手なホームページjanetclub.comに張り付けていきました。小さなことですがセキュリテイ問題が話題になっており、OMの的確な指導のおかげでトラブルを回避できました。名簿は言ってみればクラブの基幹であり、その後もなんとか維持することができました。JANETの活動の基本はメンバー間の連絡ですが、それだけではありません。海上移動、特にヨットでの長距離航海は、今はサテライト依存でしょうが、ハムの役割も多く、思い出に残る人も少なくありません。家族ぐるみでヨット航海を試みた内海家族JH2PTRのパル号はNYに着いた時、JANETのメンバーで沿岸からおにぎりを渡しました。後に清水でアイボールを果たした時の写真ですhttp://www.mamoru.us/shimizu.html。もっとも中心的に活動をされたのはW6ZEN/KD6IH山本OMです。特にJR3JJE堀江OMのマーメイド号が座礁し、カナダコーストガードと緊急連絡を取った時は、サンノゼの山本OMを訪問中であったので忘れることができません。


写真18. (左)西宮ヨットハーバーで新しいマーメイド号を背景に、左からJR3JJE堀江謙一氏、JF3EPU中川務氏、JA3AER荒川泰蔵氏、JA3DO塩崎章氏、JA3GMI竹原浩二氏(2002年)。(右)東京ハムフェアーで講演後JANET/JAIGのブースに立ち寄られたJR3JJE堀江謙一氏(前列中央)、その右はJARL会長JA1AN原昌三氏(2004年)。

海外での運用について、米国での運用はLegalになりましたが、JANETの運用は日本語ということもあり、クレームがつかないよう最新の注意を払いました。JANETは特定の国に属しないとの立場であるが、ARRLとも問題はないか打ち合わせをおこない、FCCにも確認しました。その結果FCC規則に抵触しない内容であれば日本語でも問題ない、ただしIDは英語で行うことということで、現在もIDはもちろん必要に応じ日本語のネットであることを理解してもらうよう気配りをしています。FCC免許から外国性排除の条項はなくなったが、第三国での運用はその市民が属する国の政府が交渉して運用できるようにするのが筋というもの、国の政府はその市民が差別に合わないように守る義務が有ります。外国にいても日本国市民であり、日本の相互協定が限定的なのは納得がいきません。米国の免許で他国の免許をとるのがいまだに習慣化されていますが、日本政府に頑張ってほしいものです。望ましいのは国際的に統一化した免許制度でしょう。日米相互運用協定の時は、交渉は国務省と外務省で、実務面では電波管理の政府組織で、日本はそこに実際の受益組織であるTIARAが介入しました。そこで非公式に、アマチュア無線の実務の専門家ということで、立ち合わせてもらいました。

JANETのネットは海外に散在するメンバーをつなげる重要なプロジェクトであり、特に日本へ帰国するメンバーが増えグローバルなネットをどう維持するかが大きな課題になりました。最初はNYからN2JAがNCを勤めましたが、KD6IH(後にW6ZEN)山本OMが、東海岸で面白いことをやっているのがいる。やらせて欲しいとの希望があり、山本OMのNCが始まりました。OMはネットのある土曜日は家族も外出はあきらめるほどで、JANET流NCの基盤を作り上げました。その後KB8VAスナイダー・スミコさんもツーソンから親しみやすい性格でJANETを牽引、西海岸がJANETの重要な基地となりました。N2JAからKD6IH、KB8VA、JR1CNO、W6ZEN、そしてW6OPQが歴代のNCを努めています。コンディションの良い時は6大陸同時QSOというのが有ったと思います。広域の場合はNCプラス別地域のサポートが入り、連携プレーまでこなしました。コンディションが低下し、ライフスタイルが変化してビッグステーションが減少、その対応が課題になってきています。今はコロナ感染で世界のグローバル化にブレーキがかかっているようですが、こんな時こそ各地にいる日本のハートを持った人が連携し合う意味があるのではと思っています。ハードルは高いですが、アマチュアスピリットで乗り越えられないかと思っています。

14. JA3AER・N2ATT・GW0RTA荒川泰蔵

-エピローグ-
JH1HRJ大家万明氏がメンバーに呼びかけて、応募のあった原稿を編集して寄稿されたこの記事を、最後までご覧頂きまして有難うございました。JANETについて良く知らなかった方にも、JANETの国際色豊かな多様性を感じ取って頂けたことと思います。今回ご応募頂いたJANETクラブの皆さん、そしてそれを編集して寄稿下さったJH1HRJ大家万明氏、終盤の重要な時期に編集にご協力頂き的確なアドバイスを頂いたJG1GWL杉本賢治氏にお礼申し上げます。

フォロワーとして毎月「FBニュース」をご覧頂いている皆さん、ご愛読有難うございます。今回で第100号を迎えましたが、創刊号からの連載記事「海外運用の先駆者達」も、読者の皆様方に支えられ100回目を迎えました。去る5月に読者から寄せられたメッセージの一部を紹介させて頂きます。

JJ3PRT: FBニュースの情報有難うございます。HB0/HE9LEYを運用されたJA1LZR岩倉さんは1967年以来の知り合いです。HB0/HE9LEYでは多くのJAが貴重なHB0をゲットすることができました。
JA3USA: JARLから今日届いたQSLカードにXU7AKJ木村さんのカードがあり、その直後に拝見した記事に1995年にトルコでの木村さんの記事があって、その偶然に驚きました。世の中は狭いですね。
DF2CW: 今回ご紹介いただいたJA1LZRの岩倉さんがHB9に滞在中にQSOしたことが有り大変懐かしく思いました。もう26年も前の話になりますね。荒川さんのご努力で昔の友に再会できてうれしく思います。今回も貴重な私達の歴史を蘇らせていただき有難うございました。
JG1GWL: 今月もOM,YL皆さまの各地でのご活躍を知ることができました。現役の皆さまが仕事のかたわら、それぞれの土地で大いなる努力をされて免許を得てQRVされている事がよくわかります。
W6OPQ: 1995年と言いますと、私はフィリピンから米国・アリゾナ州に移動した頃で、当時の自分のテリトリが、日本と韓国を除く全世界でしたので、自社製品を担いで、米国各州、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、ポルトガル、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、スイスの他、イスラエル、南アフリカなどにも出張したのですが、その頃はHAM運用が頭になかったことが、今にして思えば残念です。
JO3LZG: 1995年のJA3IG 葭谷さんの記事を拝読しました。阪神・淡路大震災の年ですね。私は大阪ドームへの出向2年目で基礎工事中でしたが、各社からの出向社員の安全確認に追われました。葭谷さんと荒川さん同年代の方が、同じ頃、同じ方面でご活躍だったのですね。
JE1BQE: 今回のヨーロッパ編を拝読し、過去のCQ誌の荒川さんの「レクサム便り」を思い出していました。JR1KWR大久保さんは1970年の夏に東京都中央区で開局されたとのこと、私は1971年5月の開局で、ほぼ同時期に歩いて行きあえる距離におられたことを知りました。FBニュース100年記念号も楽しみにしております。

この連載記事はJANETクラブのメンバーを含む、海外で運用された多くの方々からの寄稿や情報提供により成り立っており、そのご寄稿や情報提供を頂きました皆様方にも、この機会に改めてお礼を申し上げます。また一方、その記事を掲載する為、貴重なスペースを提供頂き、サポート下さっている稲葉編集長はじめ、編集部のスタッフの方々には、FBニュース第100号のお祝いを申し上げますと共に、日頃のサポートにお礼申し上げます。

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次号は 12月 1日(木) に公開予定

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