ぴよぴよラヂヲ@婦人部
2025年11月4日掲載
朝晩は、布団の中にいるのが心地よい時期になってきました。あの暑かった夏からの温度差で過ごしやすいとはいえ、注意の必要な時期ですね。秋は、美味しいものもたくさんあるので美味しく食べて体力、免疫力をアップして寒い冬を迎える準備です。
2008年11月2日、私の手を握り「ありがとう」の言葉を残して亡くなった母、あれから17年になりますが、つい最近のように感じたり、もう17年も経ってしまったんだとも思います。いつかこの話を何かの機会に、どこかで話したいと思っていたのですが、偶然と重なったエピソードを交えて、今日はお話してみたいと思います。
母は、がん宣告を受けてから、1年で亡くなりましたが、最後の最後まで家族の手を煩わせることなく、1年の闘病生活中に完璧な終活をしていった人です。いつか私が同じ立場になったとき、こんなにまで完璧に出来るかなと思えるほど、見事な終活でした。
闘病生活中にコツコツと終活をし、そして自分が亡くなってから私がどうしたら良いかの台本までも残してくれたのです。亡くなる少し前、私にだけ「金庫の中に缶が入ってるんだけど、私がいなくなったら開けてね」と言っていて、何が入ってるんだろうかと思っていたものの、他の用事で金庫をあけると、風呂敷に包まれて、紐でぐるぐる巻きになっているものが入っていた物を見ていました。
亡くなった日は、朝からあまり調子が良くなくて、往診の先生に来てもらったところ、先生から「今日は、もしかしたらもう一回来ることになるかもしれません」と言われて、私も覚悟は決めていたものの、母を一人にしてはいけないと家族交代で母の部屋で様子を見ていました。
16時過ぎくらいになって、早めの夕飯を作った私は、家族に先に食べてもらうように話し、母の様子みていた時、「あ~、あ~」と言い始めたのです。何か言いたいのかなと「お母さん、何か言いたいの?」と聞いても「あ~」というばかりで、困った私は、「あ」のつく言葉ってなんだろうと、色々と考えるも分からず・・・ 少しして、もしかしてと浮かんだ言葉が「もしかして、お母さん、ありがとうって言いたいの?」と聞くと、母の声は止まり、こくりとうなづいて、私の手を握ったまま、母は目を閉じて旅立って行きました。
自分の命をかけて私に色々なことを教え、経験させてくれた偉大な母でした。そんな母から産まれ、母の最期を看取れたこと、母の娘に産まれて幸せだったなと思わせてくれた瞬間でした。
亡くなって悲しかったのも束の間、そこからは、現実がいっぱい襲ってきました。午前中に往診に来てくれた先生や訪問看護の看護師さん、葬儀屋さんなどたくさんの人が家に出入りして、どんどんと事は進んで行きました。
未だコロナ前だったので、葬儀も昔の様に親戚、友達、近所の方に知らせ、準備が進んで行きましたが、途中で私は「金庫の中の母の風呂敷包」を思い出しました。
風呂敷包を開けると、闘病中に辛くて書いていた日記、それとは別に私の小さい頃の思い出ばかりを書いたノート、私や自分の兄弟姉妹に宛てた手紙と出てきました。
その中に、こんな葬儀にしてほしいと台本が用意されていました。お通夜、告別式と決まった料理に飽きているはずだから、葬儀が終わったら兄弟姉妹は、家に集まって貰い、大鍋にカレーライスを用意して、みんなに振舞って欲しい。そして手紙を渡して欲しいとの希望でした。用意も手伝ってもらう人まで指定してあり、ビックリする内容だったのです。
その後、無事に母の希望を叶えて、ノートの先を読み進めていくと、「私が花の国にいったら開けてください」と袋とじにされたページがありました。そこには、お寺の名前・・・?? なんでお寺??と思いましたが、このお寺に眠りたいんだと思った私は、お寺の名前を検索して調べると、以前、母が元気だった頃に連れて行ってもらった桜と観音様が有名で綺麗なお寺でした。
次の休みに、お寺を訪ねてみたのですが、私の家の宗派とは違う宗派のお寺で母の望みを叶えてあげることは出来ず、他の霊園に眠ることになったのです。
それから、母のいなくなった生活に心を閉ざした私は、暗い闇の中から抜け出すのに数年かかりましたが、2年前に亡くなった愛猫のまろに助けられて、趣味が出来るまでになりました。大好きな音楽活動を始め、たくさんの人に出会い、楽しんでいた中、アマチュア無線を知ることになったのです。
アマチュア無線家の人は音楽好きが多く、そんな流れで私がアマチュア無線の免許を取ることになり現在に至ったのは、この連載に書いて来たので詳細はバックナンバーをご覧くださいね。
私が2アマのeラーニングをやっていたことを知っているOMさんから連絡があり、「知り合いの人がeラーニングをやりたいんだけど、やり方を教えてもらえないだろうか」との相談の電話がありました。
どんな方ですか? と聞くと、お寺の住職さんで場所はどこどこでと聞いていくうちに、その地域に桜と観音様のお寺があるなと思っていたら、お寺の名前を聴いて鳥肌が立ちました。母の眠りたかったお寺の住職さんだったのです。そこから、ハムフェアでアイボールをして、交流が始まり、深まっていきました。
ここまでは、前の連載にも少し書いていますが、今年の9月に実は、住職さんからの依頼で、お寺で開催されるお彼岸法要で音楽をやるのはどうかと、私に是非歌って欲しいとの依頼があり、ビックリと嬉しいの両方でしたが、歌ってきました。

母の写真を持って、当日は朝8時から会場入りして準備開始。どのくらいの方が集まってくれて、どんな反応をしてくれるのだろうかと、気になりつつ本番を迎えました。来られた皆様の数は、100人を超えていたと思います。
そんなたくさんの方々に歓迎してもらい、一緒に懐かしの昭和の曲を歌い、あっという間の1時間でした。きっと、その日は、スッキリ青空の良い天気だったので、母とまろのいる空の上からも良く見えたのではないかなって思います。
母の大好きだった場所に、私の歌で母の思いを収めることが出来るなんて、夢のようです。私の心の中でもやもやしていたものもこれで少し晴れた気がして、ホッとした1日となりました。
その日が終わり、帰宅すると聴いて下さったお客様から、Xにコメントがあり、「とても良い一日を過ごせました。お母さまとの大切なお話、お寺とのご縁にウルウルしました」と嬉しいコメントをいただき、大成功に終わりました。
最近、実際のアマチュア無線の交信は、FT8を細々とやっている状況ですが、また、時期をみてコンテストにも復活してみたいし、色々な新しいことも出来たら良いなと思っています。

もう一つの趣味・音楽活動も今年は年間100本を超える開催数になりそうです。あと2カ月で今年も終わりですが、最後まで私の歌で元気が出ましたと言って下さるお年寄りの方へ癒しの歌を届けていけるように頑張ります。
そしてこの連載、今回で44回目となりましたが、最後の回となりました。初心者の拙い話をいままでお読みいただき、ありがとうございました。今回を持って、「ぴよぴよラヂヲ@婦人部」は終了とさせていただきます。
無線の無も分からなかった初心者の私にどんなことが書けるんだろうと思い、毎回執筆していましたが、時の流れによる環境の変化に伴い、最後となりました。アマチュア無線の中にもいろいろな種類があり、皆さんそれぞれ種類が違えど楽しまれている方々ばかり、全く今まで知り合うことのなかった分野の方々とお話する機会も増えて学ぶことばかりでした。
これからもマイペースで自分のアマチュア無線を楽しんで行きたいと思っています。

またいつか、何かで文章を書くことがあるかもしれません。その時は、「あのぴよぴよラヂヲ@婦人部の人ね!」と、皆様の心の片隅に記憶しておいていただけたら嬉しいです。
そして「湘南ビーチFM・Mammie&Yuckyのアマチュア無線女子トーク」「なんでも相談室」の2つの番組は、これからも継続して行きます。そちらで声を聴くことが出来ますので、番組もどうぞよろしくお願い致します。
それでは、73&88 みなさんありがとうございました。さようなら
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