2016年11月号

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熊野古道みちくさ記


熱田親憙

第30回 湯川王子社

田辺市中辺路町の国道311号北側に位置する湯川王子は、湯川一族のルーツであると聞いた。日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士との関係も予感しつつ、湯川王子まつりの昨年11月23日、湯川王子社を訪ねた。

311号から168号に出て北上。西に折れて発心門王子から林道に入り、熊野古道の三越峠に着く。あいにくの小雨の中、落差180mの湯川王子に向かい、約800mの下り坂を歩き始める。杉林の中、丸太の階段や橋で滑らないよう慎重に歩いて約40分、午前10時20分に湯川王子社前に到着した。

すでに雨の中、10人ほどの方が頭を垂れ、修験者風の白衣装の僧がお経をあげていた。小作りの簡素な鳥居は、新しいしめ縄がかけられていた。

まつりは湯川家末裔、湯川一也さんの世話で執り行われていた。約30分の式典は僧のホラ貝で終了。恒例ならその場で直会となるが、雨天のため、311号沿いにある野中の上地集会所で開かれた。

傍らには、現皇太子殿下行啓の記念碑、湯川氏発祥の地の碑、湯川氏のお墓の看板。川向うには石垣が見え、村集落の跡だったことがうかがえる。案内板には、1109年から1210年ごろにかけて上皇、女院、貴族などの熊野詣での宿泊、休憩所になり、村あげての接待をしたとある。道湯川村はにぎわったのである。

しかし、時代とともに熊野詣が少なくなり、昭和39年(1964)に廃村。最後の住人が湯川正彦さん一家であった。

上地集会所での直会は、すでに餅がまかれ、子供たちに菓子袋が配られていた。私たちは里芋がたくさん入った豚汁をいただき、濡れた体が温まったところで、正彦さんの孫で世話人の一也さんに湯川氏と秀樹博士との関係をうかがった。

秀樹博士は旧姓小川秀樹。大阪で開業した湯川胃腸病院の湯川玄洋の次女・湯川スミさんと結婚し、養子となった。湯川家は江戸時代から紀州日高で代々医家の家柄だった。秀樹博士の父は学者で日本地質構造の権威、小川琢治博士。5人の男子は全て学者となった。中でも次兄の中国史学者、貝塚茂樹博士の言葉が心に残る。「秀樹の物理理論は荘子の哲学から深く影響を受けている。これも漢学者だった祖父の教授による」。血筋の尊さと専門に偏らず学問の極めたたまものか。短歌を詠む奥様の影響の大きさもうかがわれた。

湯川氏の遠祖は武田三郎忠長。山梨・甲斐武田家の一族である。1301(正安3)年、忠長24歳のとき道湯川に住みつき、若様として歓迎された。その後、西牟婁郡の芳養に館を築き、湯川庄司の娘をめとって湯川三郎忠長を名乗る。以降、現在の御坊市の湯川町丸山に亀山城、湯川神社付近に小松原館を築き、紀南随一の豪族になった。しかし12代目直春は、1585(天正13)年、秀吉の紀州征伐に遭った。交戦しながら近露、道湯川に逃れ、粉河東家の川上城で最期を迎えたとか。難を逃れて道湯川近くで余生を送ったという説もある。

一族は離散しながらも今日まで血をつなぎ、湯川王子祭りも続いている。湯川王子を通して血族の結束の強さ、大切さを学んだ一日であった。


スケッチ 施無畏寺から見た栖原港 (有田郡湯浅町栖原)

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