2016年9月号
連載記事
熊野古道みちくさ記
熱田親憙
第28回 山口王子跡から山口神社
大阪府の南端、山中渓から和泉山脈の雄ノ山峠を越えれば、その先は紀伊国・和歌山県だ。県境を過ぎて間もなく峠越えの難所だった関所跡がある。視界が広がると、眼下には和歌山平野が、はるか前方の山並みを超えると熊野三山があると思うと、心が新たまる。
山口王子跡から山口神社に向かう紀州街道を歩くと、山合いの集落の墓地に、満開のコスモスに隠れて小野小町のお墓があった。小野小町といえば、平安時代の女流歌人で36歌仙の一人であり、百人一首「花の色は移りけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」とよく知られている句がある。彼女は絶世の美女として謡曲、御伽草子、浄瑠璃に伝えられ、その後、絶世の美女を小野小町と称するようになったようだ。小野小町の実像は不明だが、熊野詣の行き倒れと聞くと、山越えの厳しさに疲労が重なり、途中で挫折された無念さがこみあげてくる。
さらに街道を進み、修験道の役小角・えんのおづのの祠のある墓地の角を曲がって参道を進むと、田園の中にぽつりと立つ鳥居が奥の森に導いてくれた。本殿は熊野本宮大社を小型にした風格を持ち、祭神は戦いの神として知られ、坂上田村麻呂も蝦夷征伐の戦勝祈願をしたという。鳥居近くの小高い丘の桜の木の下で田園風景に魅せられてお弁当をとった。
徳川家の山口御殿跡が近くの山口小学校内にあると聴き、訪ねてびっくり!その校章が葵の御紋ではないか!驚きはまだ続きます。その帰り道に遍照寺の前を通ると、山口一族の菩提寺でお菊の墓があるという。泉南市のお祭りの帰途に立ち寄った法福寺はお菊の養女先の後藤家の菩提寺であり、「お菊寺」で親しまれている。ここで、またまたお菊の悲恋を知り,遺徳を偲ぶことになった。
お菊の母・こよは関白秀次の側室となったが、文禄4(1595)年、謀反の疑いで秀次が秀吉に切腹を命ぜられ、一族も処刑。幼いお菊は母の実兄・後藤六郎兵衛興義のもとに預けられた。美しく育ったお菊は元和元(1615)年、紀州山口村の代官山口喜内の嫡男・兵内に嫁いだ。
不孝にも同年、大阪夏の陣が勃発。紀州国主の浅野家は徳川に、山口一族は後藤、淡輪氏とともに豊臣につく決意をした。夫・兵内を大阪城へ送ったお菊は父・喜内から大阪城に密書を届けるよう言われ、男装で大阪へ。
無事密書を届けて返書をもったお菊は、激戦中の樫井川を泳いで渡ろうとして大事な返書を落とし、運悪く浅野側の兵に拾われ、樫井川の合戦は豊臣側の完敗となった。山口一族全員は紀ノ川の大野瀬川原で斬罪となった。後藤家に身を隠していたお菊は捕らえられたが釈放された。しかし、武士の妻とはいえ、不本意なミスで一族を斬罪に追いやった責任をとるため、お菊自ら処刑を強く願い出て、同じ大野瀬川原で処刑された。あっぱれな武士道である。二人の女性の生涯に触れ、当時の女性はままならぬ運命に流されざるを得なかったが、今日の女性は生き生きと自分の人生を楽しんでおられ幸せである。
スケッチ 山口神社(和歌山市谷)にて
熊野古道みちくさ記 バックナンバー
- 第31回 「黒潮の基地」だった湯浅
- 第30回 湯川王子社
- 第29回 紀の川を渡る
- 第28回 山口王子跡から山口神社
- 第27回 波太神社の秋祭り
- 第26回 大阪最後の宿場町へ
- 第25回 タオルの町・泉佐野市へ
- 第24回 和泉式部と行基の伝承地
- 第23回 木綿の産地だった泉大津市
- 第22回 備長炭の魅力
- 第21回 日高川最後の筏師
- 第20回 中将姫会式にこども菩薩
- 第19回 和泉国で街道は太く
- 第18回 住吉神社から方違神社へ
- 第17回 阪堺電車で安倍王子神社へ
- 第16回 上町台地に残る熊野街道(天満橋~天王寺)
- 第15回 淀川下って渡辺津(八軒家浜)へ
- 第14回 熊野詣の起点・城南宮
- 第13回 春一番、男の祭だ!お燈まつり
- 第12回 美味追及するみかん農家
- 第11回 大辺路の遺産登録の夢を追う
- 第10回 西日を受けて神幸船は走る
- 第9回 いい塩梅に干し上がった南高梅
- 第8回 熊野のミツバチに魅せられた男
- 第7回 伏拝に生かされて80年
- 第6回 熊野を思う森の護り人
- 第5回 那智の火祭との出会い
- 第4回 今年も那智の火祭りへ
- 第3回 湯登神事と宮渡神事に神の予感
- 第2回 まずは大斎原(おおゆのはら)へ
- 第1回 アンテナの見える丘