2015年7月号

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熊野古道みちくさ記


熱田親憙

第14回 熊野詣の起点・城南宮

これまで、熊野三山のお祭を中心に霊山に集う観光客に交じって、普段味わえない雰囲気の中で祭を体感してきた。蟻の熊野詣と言われた昔も、文化遺産となった今もなお、観光客や参詣者が後を絶たない現実を思うと、熊野詣のルーツが気になった。

歴史をたどると、熊野詣は987年花山法皇の熊野御幸からはじまり、本格化したのは白河上皇の院政となった1090年ごろからである。白河上皇は熊野御幸に出立することになると、鳥羽離宮内に斎屋を作って精進の行に入り、5日間も毎日祓禊を続けたという。出立式の再現イベントをみると、神聖な白装束で城南宮の脇を流れる鴨川の下鳥羽辺りから乗船し、大阪・八軒家に向かっている。上皇にとっては1か月近くの旅を決意することは決死の覚悟であったようだ。白装束でもって旅の道中の安全を祈ったのであろう。

上皇の安全祈願に肖って、今では方除、家内安全などを祈る城南宮になっている。鳥羽離宮内にあった鎮守の城南宮の鳥居をくぐり、赤い正門を通って、巫女さんに迎えられて祈祷殿前に進む。建築様式から平安時代後期の重みを感じ、神職に尋ねると、昔の離宮は、測量地形で東西1.5キロ南北2キロあったという。神苑に入ると離宮の築山と伝えられている「春の山」には源氏物語に因んだ草木が植えら、丁度「しだれ梅と椿まつり」の最中で花の天国にいるようだった。

「平安の庭」に入ると、程よい曲線の流れをもつ小川が現れ、毎年催される「曲水の宴」の案内板が立てられていた。書道のお手本で有名な書聖・王義之の別荘・蘭亭で開催された曲水の宴(353年3月3日)は中国古代から有名であった。41名の名士を招き、祓禊の礼を行った後、曲水の流れのふちに座を設け、詩酒に興じている有名なシーンがある。流れてくる盃が自分の前を過ぎるまでに詩歌を詠み上げるのはスリル満点だ。この詩歌は別途披露され、漢詩集として後世に残されている。風流を詠む宴にも穢れを祓う儀式が行われる古代中国と、熊野参詣の出立式に穢れ無き白装束で禊を行う中世日本とに繋がりを感じ、昔も今も変わらぬ人間のこころの原点を感じた。

歴史の世界から現実に戻って「室町の庭」に出ると、芝生の庭に石組みを置いた枯山水に心が癒され、回遊式の池に垂れる生き生きとした赤松に元気をもらい、離宮の散策を楽しんだ。離宮周辺の面影を追って下鳥羽周辺に立つと、当時は大沼池が隣接していて鴨川に続いていたようだ。幕末には大激戦地であったとは驚き。

家路に着くと、春一番を告げたテレビが36000人参加の東京マラソンを映し出し、カメラを引いたその俯瞰図は蟻の熊野詣を髣髴させた。マラソンを完走したランナーの達成感のある顔は、難行のうえ熊野詣を無事踏破した古人の達成感とダブった。苦労を重ねて勝ち得た喜びと達成感は、再度参詣意欲を高めたのではないだろうか。私自身もこれから古道を辿りながら古人の参詣スピリットを学びたいと思う。


スケッチ 城南宮神苑「春の山」(京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7)

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