2016年5月号

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熊野古道みちくさ記


熱田親憙

第24回 和泉式部と行基の伝承地

信太の森葛葉稲荷神社や中辺路の伏拝王子で和泉式部の歌に触れてから、和泉式部の事が気になり、伝承地・岸和田市を訪ねた。和泉式部は978年ごろの生まれで、上東門院の侍女で、和泉守道貞と結婚、その後離婚・再婚を繰り返し、恋多き歌人で和泉式部日記の著者として名高い。

伝承地は作才、上松、下松の三が町に跨り、府道大鳥信達線(旧小栗街道)の両側に散在している。「恋の淵」「恋ざめの淵」「式部塚」「筆塚」「硯塚」などを訪ねたが、標識には表示されているものの、式部の生活が見えて来ない。夫の和泉守道貞も現地に赴任はしてないようなので、後人による後付伝説かもしれない。ここに共同洗い場があるのは、昔から地下水が豊かで大量の清水が湧き出るからで、「泉」の地名も頷ける。

下松町の隣の額原町の浄行寺、小松里町の積川神社遥拝鳥居には熊野詣での白河上皇の言い伝えがある。見晴らしのよい浄行寺建立以前の浄行寺塚には碁石を囲まれたという碁盤石、腰掛石が残っていた。また、積川神社を遙拝されて舞楽を奏されたとき、鳥居に掲げられた扁額の筆蹟がつたないのをご覧になり、自ら筆を執って「正一位積川大妙神社」の八文字を大書され、この額に代えられたと伝わっている。この額に人々は額づくという二重の言葉から額町の地名が生まれたが小松里町に吸収されて現在は使われていない。

JR久米田駅から住宅地を通って歩いていくと視界が急に明けて、行基の開発による久米田池がなみなみと水を湛えていた。池の多い泉南地区の代表格に相応しく、灌漑用のため池にしては大規模で、取り仕切った僧・行基の計画性と管理能力の優秀さが伺えた。岸辺の木陰には、久米田土地改良区集会所もあり、水門近くには大阪府ため池観測局とあり、行政の監督下にあることも伺えた。湖畔のリング道路は3km近くあり、小鳥がさえずり市民の憩いの場になっていた。なぜここにこんな立派な寺院があるのかと不思議に思いつつ、湖畔に臨む久米田寺でひと休みした。

案内板を熟読すると、「久米田寺は725年から738年にかけて、僧行基が久米田池の維持管理のために建立した隆地院に始まります。鎌倉幕府の有力者・安東蓮聖別当職が1282年、西大寺叡尊を導師に招いて、真言宗、律宗、華厳宗の謙学の寺院とした。各地から学僧があつまり、高僧も輩出。南北朝時代に、足利尊氏兄弟が利生塔を建立し、久米田寺を手厚く保護。江戸時代以降は真言宗寺院として今に至る。」(抜粋)とあり、久米田寺には池の維持管理と宗派の異なる宗教を学ぶ兼学寺院の役割があったことを知った。当時の僧侶やお寺は村、町づくりのリーダーを求められていたようだ。

僧・行基は、農業施設づくりで心の豊かさを説き、上層農民や豪族を味方に取り込んで、町づくりに貢献していたことが窺えた。毎年行なわれている岸和田市八木地区の「行基参り」のだんじり祭りには、今もって行基への敬意と久米田池への感謝が受け継がれている。


スケッチ 久米田寺と久米田池(岸和田市池尻町)

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