2015年4月号
連載記事
熊野古道みちくさ記
熱田親憙
第7回 伏拝に生かされて80年
滝尻王子から熊野本宮大社までの熊野古道中辺路ルートは約40キロあるが、本宮大社手前7キロの発心門王子あたりから徐々に薄暗い森から解放され、3キロ手前の伏拝王子の石祠のある小高い丘に立つと、熊野川と果無山脈のパノラマが広がり、解放感に包まれる。
熊野川の遠景を追うと本宮大社の旧社地大斉原の鳥居が見えるので、古の参詣者もホッとする神域拝所であったろう。丘を下りると民家があり、庭先には「星の井戸」があって、5軒の共同使用がこの集落の慣わしとか。海抜250Mの山頂だけに、その水脈に驚くばかりである。水確保の厳しい環境のもと、50年以上も自給自足の農業を営まれている榎本タダエさん宅を訪ねた。
お住まいは熊野古道より100Mほど下に歩いた北向きの農家。丁度お昼すぎで、ご当主は床下にある天然貯蔵庫「いも壺」からお芋を出していた。ご挨拶より先に咄嗟の質問が飛び出してしまった。「広い畑に囲まれて、大きな家にぽつんとひとり暮らされて、寂しくありませんか。」「それが、一日が結構忙しいので、全然寂しくないの。」「そんなに忙しいですか」「そうよ!鳥の声で目を覚ますと、きれいに咲く花壇に水をまいたり、山桃の木に我が物顔のお猿さんのご来客、前庭の畑には植えたばかりの菜の新芽が夜中の鹿に食い荒らされてやり直しを考えたり、餌を狙うカラスやキジを追い払ったりと、忙しい一日なのよ」
縁側に腰掛けて庭先の畑に山肌をなでる風が届くのを感じながら、農業について伺った。「今は独り暮らしだから、農作業は昔より減らしておられるのでしょう?」「実は3年前に胆石入院し、足も痛めたので、リハビリを兼ねて畑仕事をぼちぼちと思っているの」「収穫物はどうされているのですか」「実は孫とひ孫で10人、この地を出た友人も数人いるので、農薬を使わない野菜を食べさせたくて、せっせせっせと送っているのよ。送ると子供や孫から、『おばあちゃんの野菜おいしいよ、また送ってね』の声を聞くのが楽しみでね。」と老女は紅潮し、多弁になった。
「そうですか。お孫さんたちはどんなものが好評ですか」「完熟梅をザラメ砂糖で煮込んだ梅ジャム。酒粕タクアン、そばガラで灰汁抜きしたさしみコンニャク、天日干しの干しイモ、生筍などかな。そのため、筍の芽を猿に見つからないように植木鉢で隠す工夫をしたり、床に就いて明日の仕事の段取りを考えたり、頭の中が忙しいです。ボケたら長男長女の都会に連れて行かれるので、ボケないように住み慣れたこの地で自然を育みながら頑張りますよ。」ときっぱり宣言。こう言えるのも、近所から宮大工のご主人に嫁がれ、山を下りて買い物に行くところも少なく、厳しい自然環境のもと、自給自足のノウハウが自然に身に付いたからであろう。
お土産に頂いた透き通った梅ジャムをたべながら、家族の絆を大事にする老女の濁りなき想いと、彼女の爽やかな顔がジャムにダブるのであった。
スケッチ 田辺市本宮町伏拝 ご自宅と畑
熊野古道みちくさ記 バックナンバー
- 第31回 「黒潮の基地」だった湯浅
- 第30回 湯川王子社
- 第29回 紀の川を渡る
- 第28回 山口王子跡から山口神社
- 第27回 波太神社の秋祭り
- 第26回 大阪最後の宿場町へ
- 第25回 タオルの町・泉佐野市へ
- 第24回 和泉式部と行基の伝承地
- 第23回 木綿の産地だった泉大津市
- 第22回 備長炭の魅力
- 第21回 日高川最後の筏師
- 第20回 中将姫会式にこども菩薩
- 第19回 和泉国で街道は太く
- 第18回 住吉神社から方違神社へ
- 第17回 阪堺電車で安倍王子神社へ
- 第16回 上町台地に残る熊野街道(天満橋~天王寺)
- 第15回 淀川下って渡辺津(八軒家浜)へ
- 第14回 熊野詣の起点・城南宮
- 第13回 春一番、男の祭だ!お燈まつり
- 第12回 美味追及するみかん農家
- 第11回 大辺路の遺産登録の夢を追う
- 第10回 西日を受けて神幸船は走る
- 第9回 いい塩梅に干し上がった南高梅
- 第8回 熊野のミツバチに魅せられた男
- 第7回 伏拝に生かされて80年
- 第6回 熊野を思う森の護り人
- 第5回 那智の火祭との出会い
- 第4回 今年も那智の火祭りへ
- 第3回 湯登神事と宮渡神事に神の予感
- 第2回 まずは大斎原(おおゆのはら)へ
- 第1回 アンテナの見える丘