2016年12月号

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熊野古道みちくさ記


熱田親憙

第31回 「黒潮の基地」だった湯浅

郷土史に詳しい湯浅町教育長、垣内貞さんに漁業の町・湯浅を案内していただいた。江戸時代、イワシ漁場を求めて千葉・房総半島への出稼ぎ漁業の起点となったのが湯浅だったという。

まず、湯浅湾を見下ろせる白方山・勝楽寺へ。本堂には見上げるほどの大きさの地蔵尊、薬師如来、阿弥陀如来、釈迦像が鎮座しており、歴史が感じられた。これらは平安時代から鎌倉初期の制作で、湯浅氏の菩提寺として繁栄したという。それにしては本堂が質素なので、その訳を尋ねると、豊臣秀吉が花見の宴を豪華にするため、当時最も立派な本堂が湯浅にあると聞き、旧来の仏像と本堂を京都の醍醐寺に運ばせたという。権力者らしい逸話である。

次に栖原湾を望む白上山の中腹に立つ。鎌倉時代、この山中でひたすら修行した明恵上人の人柄や業績がしのばれた。前方の栖原湾に浮かぶ刈藻島、鷹島からは明恵上人のインド・釈尊への思いが伝わってきた。足元のスロープには、ミカン畑と、明恵上創建の施無畏寺のお墓が山裾まで伸びていた。

栖原の漁業のルーツは、戦国時代にここまで生き延びてきた武士たちが、漁業に専念。海賊に遭遇したが、これを制圧して紀伊水道の制海権を獲得し、黒潮に乗って房総海岸にまで達した。この海域で大量のイワシを漁獲し、干鰯(ほしか)として大阪に運搬。菜種、綿花などの増産のため肥料として重宝された。

施無畏寺の墓地の中に、関東の漁場を開拓して江戸一の書籍業を営み、「解体新書」などを出版して、医学の進歩に貢献した須原屋茂兵衛の墓もある。書籍店の支店の一つを営んでいた須原屋佐助は紙を扱い、「榛原」の屋号を取得。「榛原の和紙」の評価を世界的なものに押し上げて今日に至っている。

栖原屋太郎兵衛家の墓もあった。九州から河内垣内村経由で紀州栖原に一族郎党を連れて移住し、菊池から垣内と改姓する。須原屋茂兵衛、北村(栖原)角兵衛と共に漁場開拓を行った後、栖原屋は干鰯商から江戸一の砂糖商に成長。その主人だった垣内保定は後の菊池海荘。全国的に有名な漢詩人で、天保の飢饉には難民救済、黒船来航時は自費で大砲4門を海岸に設置した大人物だ。その末裔は現在、学者として活躍中とのこと。

施無畏寺の門前には栖原角兵衛の顕彰碑もある。現在の伊丹市出身で1619(元和5)年、湯浅に移住し、代々角兵衛を名乗る。千葉・上総を拠点に漁業を主業とし、江戸で薪炭、木材の問屋も営む大実業家となった。第5代角兵衛重勝から第10代角兵衛寧幹まで、北方海域の漁場開拓と北海道、北方領土の公共事業に尽くしたという。

最後に顕国神社鳥居前の手水台「湛水」の前へ案内していただいた。「寛延元歳(1748年)年九月吉日 在関東上総国 御宿 岩和田 岩船浦」等と刻まれており、黒潮による房州と紀州との深い絆を感じさせられた。

湯浅を去るにあたり、垣内さんは「江戸時代、江戸方面で活躍された人々は天災や飢饉に際し、自分の築いた財産を惜しみなく難民救済に当てた。これは隣の広川町の「稲むらの火」で有名な浜口梧陵に通じるものがある」と語られた。


スケッチ 施無畏寺から見た栖原港 (有田郡湯浅町栖原)

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