2016年2月号

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連載記事

熊野古道みちくさ記


熱田親憙

第21回 日高川最後の筏師

国道424号線に沿って熊野三山に向かう途中、日高川沿岸に椿山ダムがある。その湖畔に筏流し記念碑が建てられており、筏師の存在を知った。日高町お住まいの文士・杉村邦雄さんの計らいで、日高川交流センターの一室で、最後の筏師と言われている石本幸也(83)さんの体験談を伺う手筈を整えて下さった。

彼は16歳の時、日高川上流の龍神・小又川の筏師の師匠に弟子入りしたのが昭和23年(1948)のことである。そこで筏師としての3年間の見習いが始まった。

早朝から弁当を持って筏を組む集材所・鉄砲堰に行き、火を焚いて先輩を待つ。編筏の見習いは、杉、檜、他の木材を組み合わせて、長さ4m、幅2mの組を15組連結して長さ60mとし、その上に乗木30本ほど載せて1枚となる。先頭の組に梶棒を付けて出来上がり。三人で1日かかる仕事量である。1年半経ってやっと、筏に乗って筏師に習う。筏に3人で乗り1年の修行を積む。修得が早ければ、1年で親方からひとり乗りの許可が出る。その夜は祝いの酒宴となり、その時に「いよー、いよー、えー、今日はうれしや鼻のり祝い よーい、よーい」の日高川筏流し唄が歌われる。石本さんが町おこしのイベントで歌われた流し唄を傍のスクリーンで再現して頂いた。辛かった冬の寒さや、初めて一人前になった嬉しさが思い出されてか、83歳の艶のあるお顔に、一粒の涙が走っていた。

一人前の筏師の仕事は大水害のあった昭和28年(1953)の21歳までの3年間で終わった。当時の筏の流れは龍神~柳瀬(筏宿泊)~船津(船頭交代)~御坊の行程を丸2日間で遂行するというから、今のトラック便に負けない効率のよい輸送手段である。

当時の筏師を少年時代にみていた70代の男性は、「男らしく恰好よく憧れの的だった。当時ハイカラな帽子をかぶり、しゃれた装身具を付けた姿は、女性にもてていた」と述懐しておられた。

筏の流し方は、岸壁、岩礁に当てないように捌くことがポイント。御坊まで難所が5瀧あり、中でも「佐井の鳴滝」は最も難所であったという。お話の後、鳴滝の難所を見にいくと、あちらこちらにごつごつした岩場があり、通り抜けるのに命がけの仕事であったことが窺えた。

昭和28年の大水害で筏師の仕事がなくなり、山出し、植林、下草刈りなど、県有林の山の保全に傾注してこられた。それだけに荒れ放題の現在の山林を見て、一日も早く間伐をして木元に日が当たるようにしなければならないと、山男の静かな叫びを聞いた。また、ある粋人は日高川の美味な「鮎」を生む岩場の苔を気にして居られた。石本さんは現在「筏流し唄保存会」に属して歌手として筏流しの唄を歌って居られる。後世の人が木を愛し必ず森を生き返らせてくれると信じて唄い続けて居るとのことだ。

孫々の世代まで自然豊かな木の国・和歌山を保つために、県民それぞれが、自分の出来る自然づくりから着手し、県あげての自然保護に努めなければならないと強く感じた。


スケッチ 佐井の鳴滝(日高郡日高川町大字高津尾)

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