ぴよぴよラヂヲ@婦人部
2024年7月1日掲載
やっと遅い梅雨に入り雨続きの日々ですが、皆さんいかがお過ごしですか。こんなに梅雨入りが遅い年も珍しく、日本の四季も年々乱れてきている感じです。今年の夏はどんな暑さが待ち受けているかと思うとちょっと怖いですね。そんなこんなでもう7月・・・ 夏本番もすぐそこです!!
私は、毎月この原稿を20日前後にまとめているのですが、6月号をまとめていたのが、5月21日のことでした。
この5月21日は、私にとって忘れられない1日となったのです。今から16年前、私の最愛の母は亡くなったのですが、当時母を亡くして、一人っ子で昔からずっと母と仲良しだった私はふさぎ込み、やる気もまったく出ず、暗い日々を過ごしていました。
そんなところに、娘が「ねこを飼いたい」と言い出し、我が家は大騒ぎとなったのです。というのも、昔から動物は大の苦手だった私、大体ペットを飼ったら、最終的に親が面倒を見るのがお決まりのコース・・・ 動物苦手の私に面倒を見させようと思ったら大間違いだ~~と言わんばかりに私は大反対したのですが、娘に懇願され里親募集をしている人のところに行くことになりました。
見てみて触れられなかったら飼えないし、私が慣れないようだったら娘もあきらめるだろうと思い、まだ生まれて1ヵ月くらいの仔猫に会いに出かけたのでした。
画像を見てこの子がかわいいと言っていた子は、もう譲渡先が決まっていて、残されていた兄弟2匹がいました。里親さんが「背中に入っている白いラインがカッコいいのでお勧めですよ」と言われ、「確かにカッコいいかも」とずっと怖かった気持ちはどこへやら、いつの間にか私も小さいフワフワした子を触れるようになっていました。
その日は直ぐに連れて帰っては来られず、こちらの身元を証明して、家族構成や住宅環境などを話してから帰宅。10日程たったころに、ボランティアさんが自宅を見がてら連れて来てくださいました。
中には話の段階では大丈夫な環境だと思っても、実際行ってみると劣悪な環境でこれでは託せないと言うところも多いそうで、きちんと生涯を過ごせるような環境の場所でないと引き渡せないということから、実際に見て送り出しているとのことでした。
動物を飼ったことが無く、何もかも初めての我が家には、ケージやトイレもなく、餌もない状態で何をどう揃えて良いかもわからなかったのですが、「すべて持っていきますので、何も用意しないでお待ち下さい」と仔猫を車にのせ、東京から横浜まで連れてきてくれました。
車には、ケージ、トイレ、餌と全て揃えて載せてあり、何も分からない私たちには、嬉しい限りだったことを思い出します。丁度、その年は、東日本大震災のあった2011年で、3月生まれの仔猫は、3人兄弟で生まれ、東京のとある警察署の隣の家の前にスーパーのレジ袋に入れられ、生まれて直ぐに捨てられたのを心優しき方に拾われ、里親ボランティアさんの元へと保護されたのでした。
あれから13年、ふさぎ込んでいた私もペットにすっかり癒され、そのおかげで今現在のようにアマチュア無線、音楽活動と本当に一生楽しめる趣味に出会いました。あの時、あの仔猫を我が家に迎えていなかったら、今のような生活は無かったかも知れません。
私が音楽活動を始めたのは、2014年、アマチュア無線を始めたのは、2019年、何かを始めようと思うときには、いつもとなりにいて、私の動きを見ていたものです。歌や楽器の練習をするときも、窓の横で、目を細めてこちらをみながらウトウト、無線のコンテストに出ているときは、膝に乗ってきて、コールサインを取るのに書き取ることを邪魔されたりと、今となっては楽しく微笑ましい思い出ばかりです。
今になって色々と整理して考えてみると、私の母は宮城県出身で震災のあったのも宮城県、そんな年に生まれた仔猫。それも母と同じ3月が誕生日で、亡くなった病気も最初に宣告されたのは、肝機能の数値が高く黄疸が出ていることでした。これは、母の病気を宣告された時の光景と全く同じで状況も一緒でした。
きっと天国から母は、自分が亡くなってから私がふさぎ込んでいることを知り、この仔猫を使者として送ろうと思って私の元に来て、すべて自分の分身のようにコントロールしていたとしか思えません。最近、私は、色々な趣味を見つけ、活動出来るようになって、それを母はきっと「これならもう大丈夫」と「使者は戻っておいで、ごくろうさま」と天国に呼び寄せたに違いないと思いました。
病気が判明して1週間の闘病生活で、本当にあっという間に亡くなってしまい、今でも夜中になると足元に寝てる様な気がして起きることがあり、そんなときに淋しく思えますが、日中は他の事で多忙にしているので考える隙間もないくらいです。でも、これも癒し効果で元気にしてくれたから今のようになったわけで、すべて我が家に1匹のねこが家族に加わった結果です。
亡くなった翌日、火葬になりましたが、翌朝見た夢にはきれいなパステルカラーの風景だけが見えました。きっと「虹の橋に到着したよ」っていう私へのメッセージだと受け止めています。いつか私がそちらに行くまで、虹の橋で待っていて欲しいのでさよならとは言いません。いままでありがとう! またねって言って、お別れしました。今頃は、私の母に13年間の良いことも悪いことも報告しているでしょう。
もう見られない幸せな時間
そんなバタバタした日を過ごしたあと、今年もオール神奈川コンテストがやってきました。これは、地元開催ですし、参加したいと思う大切なコンテストですが、一昨年に初参加し、ニューカマーの部で1位、昨年も電話部門で1位をいただくことが出来ました。
今年は、3回目の1位をかけて、参戦しましたが、昼間のHF、特にハイバンドの国内コンディションが全くダメで、これはまずい、こんなでは1位どころか入賞も危険信号点滅・・・ ジリジリしながらも、休んではいけない、とにかく継続しなくてはと、何とか進めました。
後で、あの時5分休まなかったら得点が上がったのにと後悔するのが嫌だったので、休憩無しでずっと声を出し続け、疲れたなと思うときは誰かいないかなと呼びまわりをして声が聞こえる周波数を探し、そんな状況の中、50MHzで少しずつ局数を伸ばしていきました。でも、一昨年のEスポが凄かった時と比較したら、雲泥の差、本当に大丈夫なのかと心配になって来ました。
夕方のステージ1が終わった時点で、夜に行われるステージ2で挽回するには、どうしたら良いかと思いながら、空き時間に夕飯、お風呂と家事を一通りこなし、また無線機の前に戻りました。途中に空き時間あるコンテストでは、主婦の仕事を合間に挟みながら参戦するのが当たり前の私です。
ステージ2の開始15分前から、空いている周波数を探して、430MHzでCQを出していると、一昨年、昨年とオール神奈川コンテストの表彰式の会場でアイボールした方に声を掛けられました。また今年も、表彰式の壇上でお会いしたいですねと言ったものの、とても不安な私でした。
そして、定刻となりステージ2が開始。ステージ1は、呼びまわりからスタートだったので、ステージ2はCQから始め、最初は快調にたくさんの方からのお声かけがあったのですが、少しすると波があって、全く呼ばれなくなり心の焦りが出てきます。
他の方は呼ばれているだろうな~とか、こうして待っているだけで大丈夫だろうか?? などと考えていると声がかかって、またそこで声を掛けて下さるかたが連続したり、面白いものですよね。
そんなこんなを繰り返しながら、ラストの24時までこれ以上無理というくらいにやったつもりです。結果はまだまだ先になりそうですが、楽しみに待ちたいと思います。
オール神奈川コンテストの結果
さて、来月はハムフェアもありますし、そろそろ準備を開始する時期になって来たので、今年はどんなブースになるのか、今から楽しみです。
梅雨明けには、まだ時間もかかりそうですが、上手く気分転換して、嫌なジメジメ時期を乗り越えましょう。
ぴよぴよラヂヲ@婦人部 バックナンバー
アマチュア無線関連機関/団体
各総合通信局/総合通信事務所
アマチュア無線機器メーカー(JAIA会員)
©2024 月刊FBニュース編集部 All Rights Reserved.