2015年4月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その25 免許状 1984年 (1)
免許状
今回から1984年を3回に分けて紹介するが、その時代の免許状と言えばどの国も紙(書類)と決まっていた。それがインターネットを含むICTの発達で、現在ではアマチュア無線免許のペーパーレス化が進んでいる。先月号でFCCの免許について述べたが、FCCは免許をペーパーレスに、即ち紙の免許状を発行しない旨の発表をした(希望者には申し出により紙の免許状も発行する旨記されている)。これにより免許や更新手続きのスピードが上がり、しかも年間$304,000(約3,500万円)の節約になるそうだ。2月号で述べたCEPT免許の1つである英国の免許は、数年前から既にペーパーレスになっている。包括免許を含む免許制度の他、免許事務制度においても、日本は欧米の後塵を拝しているのではないだろうか。
1984年 (米国 N3AMW, KB6IVM, N2EUK, KD2YH)
故JA1ANG米田治雄氏 (写真1)は電通の国際部長として、世界を飛び回っておられたが、HTでN3AMWのコールサインでNYCのレピーターにアクセスして、現地のハム達と流暢な英語で交信しておられたのを聞いた覚えがある。その時代の多忙な中、次のようなアンケートを寄せてくれた。「FCCへ歩きこみ、ブッツケ本番、Extraに落ち、Advencedに合格!! NYCには凡そ2ケ月に1回、Washington, D. C.へは年に2回、LAへは凡そ3ケ月に1回、あとはヨーロッパ各地ですが、4U1ITUで時折運用する以外、ヨーロッパでは運用しません。(1986年1月記)」 そして、「相変わらず、年に8~10回の海外出張に明け暮れています! N3AMWのコールサインが聞こえたらコールしてください。4月24日にDaytonに着きます。Hamventionで、JAS-1衛星のプレゼンテーションをします。5月7日からNYCにしばらくいる予定。146.67/07-W2FWG/R Repeaterを常時ワッチします。(1987年追記)」 とAMSAT及びJAMSATのメンバーとしてもお忙しい方であった。
写真1. (左)ニューヨークにて筆者とN3AMW米田治雄氏(1979)。
(右)大阪にて筆者とN3AMW米田治雄氏(2002)
JE1NWL丸山俊一氏は1984年6月以降、米国からKB6IVMでQRVしていると、滞在先のドイツからアンケートを寄せてくれた。「毎年数回ロスアンジェルスの従兄弟宅よりHFにQRV。また、JAARSのリピ-タ-(2m)で日系の友人と、SCJHCのリピ-タ-(1.2G)では、LAに住む日本人のハムとコンタクトしています。(1992年2月記)」
JA3DO塩崎章氏は1983年2月からニューヨークに滞在し、JANETクラブの一員としてN2EUKを運用しておられ、その頃の写真とQSLカードを頂いていた(写真2)ので、その頃の様子を伺った。1995年の阪神淡路大震災で総ての資料を失い記憶も定かでないとしながら、メールでその頃の思い出を知らせてくれた。「なにしろNY滞在中の記録はなにも残っておりませんで、CQ誌のジャネットニュースの切り抜きが頼りだったのですが、それも残っておりません。駐在2回目の1973年から77年は、クイーンズ区のElmhurstに居りました。この時期無線は全く無縁でした。NY駐在1回目は1966年から1968年でしたが、ハムの知り合いは全く無く、Lafayetteでしたか、ダウンタウンのハムショップに遊びに行く程度でした。駐在3回目の1983年以降、CQ誌で塚本さんのFCC受験の記事を読んで、日本人でもFCC受験が出来ることを知り、相互協定が出来た頃に2mのハンディ機で、同じQueensのFlushingに居られた塚本さんと無線で初コンタクト(たぶん、JA3DO/W2)、受験方法を教えて頂いて、マンハッタンダウンタウンの汚いFCC Office?で最初の試験を受けました。N2EUKがGeneral級。時期は全く覚えていませんが、KD2YHはLong Islandのフリーマーケット?でAdvance級を取ったと思います(写真3)。CWテストは、Extraまで行ったのですが、学科で落ちましたHi。Extraは日本に帰国してから、荒川さんとご一緒に岡山の放送局で受験し取得したものです。余談ですが、1983年から89年の間は、荒川さんのNJのお宅に伺って、ラジオのコレクションを見せていただいたり、NJのゴルフ場Forsegateでジャネットメンバーとゴルフをしながら、はるか彼方のNJのK2VZさんと2mハンディ機でQSOしたり、楽しい思い出でいっぱいです。この時期、荒川さんとかJA3ILI (KD2HA)林さんと衛星通信したのが印象に残っています。(2015年1月記)」と、相互運用協定による免許は1985年11月からだから、多少時代錯誤がある。記録を亡くして記憶に頼ってであるから仕方ないが、アマチュア無線の楽しかった経験を思い出して頂いた。
写真2. (左)N2EUK塩崎章氏。 (右)N2EUK塩崎章氏のQSLカード。
写真3. (左)JA3DO/W2塩崎章氏のQSLカード。 (右)KD2YH塩崎章氏のQSLカード。
1984年 (アラスカ KL7YR)
KL7YR大竹武氏 (写真4)には、極地の沈まぬ太陽、オーロラ、スターダストなどの珍しい写真を見せてもらった記憶があるが、アラスカ大学の気象学の教授で極地での研究もしていると伺っていた。1988年にアラスカのハム事情を含めて次のようなアンケートを頂いた。「アラスカはアメリカ合衆国第49番目の州で、アマチュア無線局の運用はアメリカの他の州と同じでFCCの試験によって免許が与えられます(写真5)。各地域に州立アラスカ大学の分校の形でコミュニティーカレッジがあり、ライセンスを取るための学級が、毎学期開かれ、週1回3時間6週間の講習の中で講師(ボランティア試験官)による試験で初級のライセンスが発行されます。上級のライセンスの試験は1~2ケ月毎に開かれますが、詳しくは地元のハムクラブから発表されます。アラスカの人口は少ないので、日本人、日系人も少なく、アマチュア無線のライセンスを持った人は私の知る限りでは、KL7AM, Bob Hisamoto、KL7JCQ, Ken-ichi Akasofu、KL7YR, Takeshi Ohtake、KL7T, Shinji Sakemura、JK1BKB, Norio Ogawaぐらいです(写真6)。KL7AMは80歳のOMで英語のほうがはるかに達者で、1926年、時の首相を説得して日本人にもアマチュア無線免許を与えるようになった。JARLの創始者の一人で、日本アマチュアの父であると主張しています。KL7YRは毎週JANETにチェックイン、近くグレードアップを予定しています。KL7JCQは22歳の新進、現在アメリカ中部で勉学中、無線活動は将来が楽しみです。アラスカはJAと北米東海岸を結ぶ中間にあるので、距離的にQSOしやすくみえますが、オーロラ帯にあって電離層の変動が複雑で電波伝播に長周期短周期の波が多いようです。(1988年4月記)」
写真4. (左)KL7YR大竹武氏のQSLカード。 (右)KL7YR大竹武氏とご家族。
写真5. KL7YR大竹武氏の免許状、旧住所(上)と新住所(下)の2種。
写真6. (左) KL7AM, Bob Hisamoto氏のQSLカードと、 (右)NL7T酒村伸二氏のQSLカード。
1984年 (パナマ共和国 HP1XKR, HP1XKT)
JA7ARW瀬上功一氏 (写真7 & 8)はパナマでHP1XKRとして免許された状況をアンケートで詳細に知らせてくれた。尚、瀬上功一氏のXYL, JA7HLO瀬上昭子氏も同時期にHP1XKTとして免許された。「当初HPへ赴任する際、日本に於いて、パナマ大使館、JARL等へ免許取得の可能性について問い合わせたが確答は得られなかった。その頃HP1NFが日本へ研修に来ていた。彼はパナマの電波行政を司る内務司法省の職員で、その際コール付与に関して努力する旨の約束を得た。Panamaへの着任後、仕事の関係で内務司法省とつながりが出来、ハムの免許が可能かどうか問い合わせたところ、即断は出来ないがとにかく規定の申請書を提出しておいた方がベターだろうという事だった。これが1984年7月の初旬。そして8月27日付で免許がOKになった旨の電話連絡がついたのが9月初め。この当時3名が申請し、3名とも同日付でBクラス(オールバンド/モード500W出力)が与えられた(写真9 & 10の左)。内務司法省内でも初の日本人からの申請ということで、かなり慎重に審査された様であるが、"国際親善"と"相互理解"の立場からOKになったものと判断している。この後、1985年に入って新たに7名が免許され、計10名のJA'sがHPのコールを持った。内務司法省の職員であるHP1HFとHP1LKの助力が大きかった。パナマ人にとってハムの国家試験はかなり難しく、ハイレベルなものである。上記の免許状況からみていかにパナマ政府の好意で我々が開局しているかよく判る。当初免許可能性の調査段階では、① パナマ-日本間で相互運用協定がある。② 日本国内でパナマ人がハムを開局している事実がある。この2点の内1点があればOKとされていた。この両方が無い現在、10名ものJA'sがこの半年間に免許を受ける事が出来た事実は、PANAMAのハムに対する理解 (JAに対する理解か?) が大きいと判断する。最近Mexicoの事情をXE在住のJAハムが知らせてきたが、とても免許される状況にはないという事であった。(1985年3月記)」 また瀬上氏は、当時現地で親しくしていたHP1AC, Camさんの写真が出てきて、2012年7月ADXA(秋田のDXクラブ)の機関紙に投稿したとその原稿(写真11)と、1985年11月9日にパナマで実施したミーティング時の寄せ書きを送ってくれた(写真10の右)。
写真7. (左)HP1XKR瀬上功一、HP1XKT瀬上昭子ご夫妻のシャックと、
(右)4U1UNを運用するHP1XKR瀬上功一氏(1986年)。
写真8. HP1XKR瀬上功一、HP1XKT瀬上昭子ご夫妻のQSLカード2種。
写真9. HP1XKR瀬上功一氏の免許状。
写真10. (左)HP1XKR瀬上功一氏の携帯用免許状。(右)HP1XKR・HP1XKTのシャックにHP1AC, Camさんを招いて集まったパナマ在住日本人ハムの寄せ書き(1985年)。
写真11. JA7ARW (HP1XKR)瀬上功一氏が、2012年7月に秋田のADXAの機関紙に投稿された記事の一部。
1984年 (英領バージン諸島及び米領バージン諸島 JH1JGX/VP2V、N6DHF/KV4)
JH1JGX田中哲夫氏 (写真12)は英領バージン諸島でJH1JGX/VP2Vを、そして米領バージン諸島でN6DHF/KV4を同時期に運用したとアンケートを寄せてくれた。「W0DX, BobをJA1BK氏より紹介されVP2Vへ行きました。2アマ以上の資格があれば、JAのライセンスで資格をくれます(写真13 & 14)。Officer はVP2VAというハムでした。私の場合、運用はW0DX/VP2VIの所有するHotel(山の中腹にあり、JA方面以外はなかなかのロケ-ションでした)より運用しました。遊ぶ方が忙しく、QSOは300局程度でした。毎週火曜日にKV4のClubのミ-テイングが昼食を食べながら行なわれ、それに参加しました(1st JAといっていました)。また、KV4へも船でわたりN6DHF/KV4のコ-ルで、リピ-タ-を使いKV4FZ, CI, KP4sとQSOをしました。(1986年2月記)」
写真12. (左)JH1JGX/VP2田中哲夫氏。
(右)JH1JGX/VP2田中哲夫氏のVirgin Islands Amateur Radio Clubのミーティングへの参加証。
写真13. JH1JGX/VP2田中哲夫氏が得たVP2の免許情報。
写真14. JH1JGX/VP2田中哲夫氏の免許状。
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ