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熊野古道みちくさ記

第38回 冬の陣・真田山と夏の陣・茶臼山(大阪市)

熱田親憙

真田信繁(幸村)が蟄居生活を送っていた九度山を訪ねた後、大坂城での活躍ぶりが気になり、五月晴れに誘われてJR玉造駅(大阪市)に降りた。赤い幸村の幟(のぼり)旗に誘われて、生活感のある幸村ロードをくぐって玉造筋を横切り、古くから中風除けの神として、今は冬の陣の出陣で有名になった三光神社の石段を登ると、勇ましい幸村公の銅像が迎えてくれた。

その脇には、大阪城に通じる抜け穴の鉄条扉が見え、「真田丸」の砦(とりで)の一部の役割を果たしたようだ。九度山の抜け穴とは緊張感を異にしていた。砦の拠点はこの神社と背中合わせに現存している心眼寺の跡地に、大阪城の南方の出城として、1614(慶長19)年11月の冬の陣に備えられた。幸村は鉄砲隊を配備し、背に木村重成、長宗我部盛親、大野治長を配し、家康軍の前田利常、松平忠直、伊達政宗らと戦った。真田軍は大勝し、茶臼山に陣取った家康と和議が成立。即座に偃月城と呼ばれた砦を取り壊した。この行動力は幸村公像の雄姿とだぶる。

次に夏の陣の激戦地に向かうため玉造から天王寺駅経由で、幸村最期の地と言われている安居神社を訪ねた。神社は菅原道真公の御神徳厚く、中でも大丸の業祖、下村彦右衛門は大きな御加護を賜って繁栄した事でも有名である。一心寺から国道25号線を横断して、向かいの細い参道を100メートルほど入ると、クスノキとカシの木に囲まれた本殿で幸村の慰霊祭・幸村まつりの儀式が終わったばかりであった。思えば夏の陣の1615(慶長20)年5月7日に、本殿右側にある「さなだ松」の下で、激戦の疲れで休息しているところを、越前兵(松平忠直の配下)に討ち取られたのである。傍らにある幸村公銅像の穏やかな表情を見ると、戦いの終わりを悟った幸村は、六文銭を片手に握り、はるか信州・上田の故郷を想い、閉居ながら父・昌幸とともに人間らしい生活をした九度山が懐かしく思い出しているように思えた。武将の顔ではない。

幸村が本陣を置いた茶臼山の頂上に、古戦場の説明があった。「紅の旗を群れなびかせた真田の赤備えが陣を構える茶臼山の真田幸村隊3500は7日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢1万5000と激突し、真田の赤と松平家のツマ黒が交互に入り乱れる夏の陣最大の激戦が繰り広げられた。真田隊は高い戦意と捨て身の攻撃で徳川家康の本陣目掛けて三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めたが、数にまさる越前勢の猛攻に抗し切れず、壊滅した。幸村は安居神社に逃れて休息、その隙に討ちとられた」という。一直線に敵陣に踏み込んでいく決死隊の真田軍は「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」として語り継がれ、後の世界戦争にどんな影響を与えたのだろうか。また「真田丸」のドラマで、どのように表現されるのだろうかと思いをめぐらせながら帰路につくと、足元は熊野街道だった。長い歴史の中で街道は、参詣だけでなく、戦を誘う戦略の道でもあったと思い知る一日となった。


スケッチ:幸村公銅像と抜け穴(三光神社 大阪市天王寺区玉造本町)

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