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熊野古道みちくさ記

第36回 幸村雌伏の地・九度山

熱田親憙

九度山は高野山の「登山道入口」という印象しかない町だったが、大河ドラマ「真田丸」で真田信繁(幸村)雌伏の地だったことを知り、あの武将がどんな幽閉生活を送ったのだろうかと興味が湧き、南海高野線に乗った。九度山駅は高野山系の中腹にあり、前方に紀ノ川がゆっくりと流れ、その支流の丹生川が足元まで流れ込む。九度山町中心部は二つの川に挟まれた丘陵地で、特産の干し柿に使う柿の畑が随所にみられた。

九度山の地名の由来は、高野山の開祖・空海が月に九度、山麓にあるこの地に住む母親を訪ねたことからだという。

旧道沿いの「真田のまち」は、どの家の玄関も、九度山と書かれた幟(のぼり)や色紙で折られた兜(かぶと)、提灯(ちょうちん)が軒先をにぎわしていた。まもなく、幸村が父と離れて草庵を結んだといわれる松山宅に着く。住宅の裏に白壁の土蔵があり、ここから幸村が住むための賃貸契約書が出てきたと話してくれたのは、ご主人の松山さん。庭の草むしりの手を休めて話が続いた。土蔵前の垣根近くに、幸村が大坂へ出陣する際の抜け穴だったという伝説がある「雷封じの井戸」がある。庭先には丹生川が流れ、幸村が戦いの準備のため、謹慎の身ながらも馬と共に武術の稽古(けいこ)に励んでいたという。庭に咲く赤いしだれ梅の木元にフキノトウがたくさん自生しているのを見つけ、「幸村も食べていたでしょうね」といいながら分けていただいた。幸村が父・昌幸と一緒に住まなかったのも智将らしい。今日、会社幹部が出張する場合でも、同時に同じ交通機関は使用しないよう心掛けているのと似ている。

二つ目の抜け穴伝説のある「真田古墳」を左にみて、200メートルほど離れたところに、昌幸、幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺、善名称院・真田庵に出る。正門の西門から入ると扉には真田家の家紋・結び雁金と真田軍旗の六文銭が彫られ、屋根を仰ぐと菊の紋の入った瓦がどっしりと幾重にも重なり、築城のような構えで尼寺とは思えない風格である。これも幸村父子の遺徳を世に伝えたい大安上人の思いからであろう。軍旗の六文銭は、死者が三途の川を渡るときの用意にと、お棺に納める六道銭から転化したもので、武士の必死の覚悟を表したものという。説明板をみると、質素ながらも充実した武士としての生活ぶりがうかがえた。

この地で幸村は生涯で一番長い14年間を家族、家来と共に過ごした。生活は決して楽でなく、国許の兄・信之の援助などに頼っていたらしい。家来は徳川の目を避けるため、幸村から離れて住み、昼は野菜づくりや真田紐の行商などで生計を立てていた。夜は抜け穴に集まり、諸国情報収集、兵術、天文学を学んだ。この家来たちが大阪夏の陣で勇敢な戦いを展開した十勇士である。子供時代、絵本やメンコの挿絵に登場した霧陰才蔵、猿飛佐助、根津甚八、筧十蔵などの勇士に憧れたのを懐かしく思い出した。九度山は幸村を人間らしく成長させた第二の故郷であり、大坂城出陣までの期間、静かな充電基地でもあったのだろう。

スケッチ;真田庵 (伊都郡九度山町九度山)

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