2016年9月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
相互運用協定の恩恵
1987年頃には我が国も、米国、西ドイツ、カナダ、オーストラリア、フランスと順次相互運用協定が結ばれ、モービルハム誌にJA1VDJ金平茂夫氏が「海外からの運用の手引き」を紹介され(写真1)、JARLが「外国での無線運用の手引き」wを発行するなど(写真2)、海外運用が身近な時代になってきた。相互運用協定を利用し、これらの国々やその属領で運用するなど恩恵を受ける人も増えた時代であった。
写真1. モービルハム誌1987年12月号に掲載された「海外からの運用手引き」の記事の一部。
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写真2. JARLが1987年から1989年頃発行した「外国での無線局運用手引き」。
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1987年 (カナダ VE7UBC, JM1CAX/VE7, JE2SOY/VE7, JA3AER/VE1)
JM1CAX田原光児氏はカナダに留学時に運用した経験をレポートしてくれた。「申請書と言うものは、私が申請した段階では存在しませんでした。送付したものは(1)日本の従免、局免と自分でした英訳。(2)到着日と滞在日数。(3)カナダ国内の住所。(4)ビザ(学生として入国したため)。(5)設備内容(VE7UBCのものを共用すると書いた)。それに、(6)パスポートのコピー。申請料は無料でした。カナダにはUniv. of B. C.に学生としてやって来ました。日本のクラブ(JA1YWX)でVE7UBCと数回QSOしていたので快く迎えてくれ、早速WPX-PHコンテストに参加しました。VEでは市民権がないとコ-ルを貰えないので、JM1CAX/VE7で1年間運用する事になります(写真3の左)。ただ日本ではQRVできない7MHzの上の方や1.9MHzのSSBもこのコ-ルのままQRVできると通信省から確認を取りましたので貴重な経験ができそうです。カナダと言っても太平洋岸なのでかなり暖かく、セ-タ-はもう必要ありません。現在バンク-バ-の総合病院の看護婦寮に間借りしています。ダウンタウンに近いと言っても大変静かな所で、人々の生活は随分ゆっくりしている様に思えます。先日(1987年)のWPXコンテストではVE7UBCから7MHz, 14MHzを中心に1,000局程のJAとQSOしました。ただ、VE6OU/3に負けたようでとても残念です。今度のWPX-CWにはJM1CAX/VE7でSingle op.をしてみよう思っています(写真4)。(1987年4月記)」
写真3. (左)JM1CAX/VE7田原光児氏の運用許可証。(中)JE2SOY/VE7成瀬有二氏の運用許可証。(右)JA3AER/VE1筆者の運用許可証。(クリックで拡大します)
写真4. JM1CAX/VE7田原光児氏のQSLカード。
JE2SOY成瀬有二氏はJE2SOY/VE7でバンクーバーから運用したらしく、短期免許状のコピーを添えてアンケートを寄せてくれた。「各電監へ90日前までに申請すると、約3週間後に無料で運用許可がもらえる(写真3の中)。(1987年6月記)」
JA3AER筆者はXYL(JG3FAR)と共に、当時NJ在住のJG2DHV秦登喜男氏を誘ってサンピエール島に出かける途中、カナダ東海岸のプリンス・エドワード島とノバスコシアに立ち寄ってJA3AER/VE1を運用した記録を残していた(写真5)。「アメリカに滞在中の1986年に、日本とカナダとの相互運用協定が結ばれたので、アメリカ(FCC)の免許(N2ATT)でも運用は可能であったが、日本の免許をベースに臨時運用許可を申請し、レター形式の許可証を得た(写真3の右)。1987年8月から9月にかけて、ニュージャージーに滞在中のJG2DHV/N2GKL秦さんを誘ってFP(サンピエ-ル島)に出かける途中、カナダの東海岸ノバスコシアのホテルからHFバンドにQRVした。しかし、室内アンテナを余儀なくされ、ロ-カルの局としかQSOできなかったのは残念であった。(1987年10月記)」
写真5. (左)JA3AER/VE1筆者のQSLカード。
(右)プリンス・エドワード島にある「赤毛のアン」のグリーン・ゲーブルにて筆者とXYL。
1987年 (サンピエール・ミクロン FP/N2ATT)
JA3AER筆者はXYLと共に、当時NJ在住のJG2DHV秦登喜男氏を誘ってサンピエール島へ出かけた時のことを記録していた。「フランスとの相互運用協定でFP/N2ATTの短期運用許可が得られたので(写真6の左)、サンピエール・ミクロン(FP)へ出かける決心をしたのは1987年7月末であった。早速日系旅行会社に飛行機とホテルの手配を依頼したが、全く情報を持っておらず、K2RW, Rich (ex. FP8AA)から情報を得、またW2LZX, Jackが紹介してくれたK1RH, RalphとW1CCN, Elmer (両氏は6月に同島よりQRV)に手紙を出し、詳細な情報を得ると共に、彼らが残してきたアンテナまで借りる約束が出来た。準備がほぼ完了したところで、N2GKL秦さんが同行することになり、急いで運用許可の申請をパリに送ったが、出発までに間に合わなかったのは残念であった。現地で郵便局(POSTES)を見つけ(写真6の中)、フランス本国に問い合わせを依頼してみたが成功せず、結局N2GKL秦さんと2人でFP/N2ATTを運用し、9月9日から11日までの実質2日間でJA約50局を含む約350局と交信した。シャックとして運用していたホテルに、ローカルのFP8HL, Henriさんが友人と共に訪ねてこられ、アイボールQSOをすることも出来た(写真7及び8)。この年、フランスからミッテラン大統領が訪問したらしく、郵便局ではその記念切手が売られていた(写真6の右)。(1987年10月記)」
写真6. (左)FP/N2ATT筆者の短期免許状。(中)サンピエール島の郵便局。(右)フランスのミッテラン来訪記念切手(1987年)。
写真7. (左)FP/N2ATT筆者のQSLカード。
(右)ホテル内のFP/N2ATTのシャックに来訪したFP8HL, Henri氏とその友人との記念写真。左からFP8HL, Henri Lafitte氏、N2GKL秦登喜男氏、N2ATT筆者、FP8HLの友人。
写真8. アイボールQSOしたFP8HL, Henri Lafitte氏のQSLカード。裏にメッセージを書いてくれた。
JG2DHV秦登喜男氏は、筆者に同行したときのことをアンケートで寄せてくれた。「免許取得のため、N2ATT局よりApplicationを頂き、教えてもらった申請料金の手違い(ドルとフラン)により、運用の日までにFP/N2GKLの免許を受け取れず、3ケ月後F/N2GKLの免許を受け取ったが、相手のMistakeによりフランス本土の免許が来た。仕方なくFP/N2ATTのゲストオペで運用した。無線機の持ち込みだけで、アンテナは既に設置済みのため問題なし。運用場所もホテルの中とFB。コンディションに恵まれなかったが、JAともQSO出来た(写真9)。(1987年10月記)」
写真9. (左)宿泊しFP/N2ATTを運用したHotel Robertの前でポーズをとるN2GKL秦登喜男氏。 (右)FP/N2ATTの運用を終え、カナダへのAir Saint-Pierreのプロペラ機に乗り込むN2ATT筆者とN2GKL秦登喜男氏。
1987年 (アルーバ P4/N1CIX, P4/NX1L, P40P, P4/WR6M, P40M)
JH1VRQ秋山直樹氏は、アルーバで多回にわたって運用した記録をアンケートでレポートしてくれた。P4/N1CIXについては、「(1回目:1987年10月1-6日) 免許人の国籍を問わないので、外交権をゆだねるオランダと合衆国との間の相互運用協定にもとづいて申請。ローカルのみとQSO(写真10)。(1987年11月記)」、「(2回目:1988年6月15-22日) 1回目と同じ。(1988年7月記)」、「(3回目:1989年5月8-18日) 1回目と同じ。(1989年8月記)」「(4回目:1989年10月14-18日) 1回目と同じ。(1989年11月記)」と、そして並行して運用されたP40Pについては、P4/NX1Lが元免許の特別コールとして(写真11~13)、「(1回目:1987年10月1-6日) P4/WR6Mと共にCWのみにQRV(SSBではP40Mを使用)。JAとは7MHzで42局、14MHzで32局とQSO。リグとしてはTS-440S/TS-430SとHF6V-X/G5RVを使用した。(1987年11月記)」、「(2回目:1988年6月15-22日) TS-440SとHF6V-Xを使用して、89カントリーの1,907局とQSO。JAとは3.5-21MHz(10MHzをふくむ、18MHzを除く)の5バンドで151局。(1988年7月記)」、「(3回目:1989年5月8-18日) TS-440SとHF6V-Xを使用して、99カントリーの1,588局とQSO。JAとは7-28MHzの4バンドで117局。(1989年8月記)」、「(4回目:1989年10月14-18日) 毎午後に2時間半ずつ程度、21MHzと28MHzのみにQRV。JAとのQSO数は440。なお、5回の運用はローカル3局(P43AS、P43IDP、P43WLP)の既設のアンテナを利用して行なった。(1989年11月記)」、「(5回目:1991年10月31日-11月5日)昼から夕方にかけて、毎日数時間ずつ、P43ASのシャックからQRV。JAとのQSOは14MHzのRTTYで9局、18MHzのCW/SSBで59局、24MHzのCW/SSBで77局の計145。(1992年2月記)」、「(6回目:1992年9月6-9日) キュラーソへ出張した帰りに3泊だけ立ち寄り、P49VとP43ASのシャックからQRVした。コンディション、特にハイバンドの伝播が非常に悪く、交信局数がのびなかった。JAとは3.8MHzのSSBで12、7MHzのCWで9、7MHzのSSBで17の、計38QSOのみ。(1993年10月記)」、「(7回目:1992年12月11-15日) 30mの運用と10mコンテストの参加を目的としたトリップであった。JAとのQSOは10MHzのCWで20局、14/21MHzのRTTYで18局、28MHzのSSBで2局の、計40。(1993年10月記)」、「(8回目:1993年3月25-30日) WPXコンテストのSSB部門を含んで、オールバンド・オールモードの運用を楽しみ、かつ可能な限り多数のJA局にアルーバとのQSOの機会を与えることを目的とした。結果は720局のJAをログに記録した。(1993年10月記)」、「(9回目:1993年8月4-11日) P43ASのシャックからAO-13、AO-10、RS-1、RS-10の4つの衛星を計12時間あまりに渡って使用した。QSO数は359で、JAはその内の46。HFは気晴しに運用した123交信のみ。(1993年10月記)」、「(10回目:1994年11月)これまでに10回の運用を行った。日本とのQSOは、3.5-28MHzのCW/SSB、14-21MHzのRTTY、オスカー10/13号で、計1883。(1995年3月記)」とレポートしてくれた。
写真10. (左)P4/N1CIX秋山直樹氏の運用許可証と、(右)その免許状。(クリックで拡大します)
写真11. (左)P4/NX1L秋山直樹氏の免許状と、(右)それをベースにしたP40Pの運用許可証。
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写真12. (左)P40Pを運用する秋山直樹氏。(右)P40MとP40Pの共用QSLカード。
写真13. P40P秋山直樹氏のQSLカード4種。
JA1IST名黒和史氏はアルーバで運用許可を得て、1987年10月1日から6日まで運用したとレポートを寄せてくれた。「アルーバでは免許人の国籍を問わないので、外交権をゆだねるオランダと合衆国との間の相互運用協定にもとづいて申請。P4/WR6Mの運用許可を得てローカル局とQSO。DXについては別途特別コールで運用した。(1994年2月記)」、「P40MはP4/WR6Mが元免許の特別コール。NX1L(当時N1CIX)の秋山氏と運用。P40MをSSB用に、秋山氏のP40PをCW用に運用。特別コール取得はUSAとオランダとの相互運用協定による許可(1年間有効)をベースとしている。 持ち込み機材が多い場合、入国時税関との折衝に手間がかかる可能性あり(写真14及び15)。(1994年2月記)」
写真14. (左)P4/WR6M名黒和史氏の運用許可証と、(右)それをベースにしたP40Mの運用許可証。
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写真15. P40MとP40Pの共用QSLカードの裏表。
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ