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今月のハム

JA3ULS 木村千良さん

木村千良(きむらかずよし)さんは、正月の松の内も明けない本年(2020年)1月8日、赴任先のカンボジア、プノンペンから帰任された。新型コロナウイルスの問題は、まだ国内ではほとんど報道されていなかったときで、海外から帰国しても空港で足止めされることもなく、すんなりと帰国できたそうだ。本来2年の任期に加えて赴任先からの要請で3か月の延長後の帰国であったが、「今から思えば早く帰ってきてよかった。これが一か月あとになるとたいへんだった。」と振り返り、「ラッキーだった。」とおっしゃる木村さん。カンボジアでの生活ということで海外特派員や駐在員によく見るワイルドな人物を想像していたが、実におだやかな人だった。しゃべり方、そのしぐさ、どれをとってもカンボジアに2年間? と聞き返すほどだった。

今は、大阪府守口市にお住まいで、窓を開けると淀川の雄大な流れを一望できる。窓の正面はちょうど西、つまり270度。この270度を挟んで南南東の210度から北北東の60度あたりまでワイドオープンのロケーションだ。朝の北米から夕方のアフリカ、ヨーロッパに掛けて、ビームアンテナを振ると、これは飛ぶなと実感できる。

(1) アマチュア無線で知り合った友人

うなずきながらお話を聞いていると、その大半が人との出会いのお話しだった。聞いていても楽しい。それもアマチュア無線を通して知り合った世界各国の人たちで、これでもかというほど出てくる。まるで友達を入れたおもちゃ箱をひっくり返したような感じだ。また、お話の中に登場する人物の名前や性格を実によく覚えておられるのには驚くばかりだった。

ある日木村さんは、トルコのTA1ALと交信した。21MHz、SSBだったと記憶しているそうだ。QSOでは少し長話しをしたせいか、後日その局からトルコの音楽テープが送られてきた。彼は石川さゆりの歌が好きだというので、こちらからも石川さゆりのカセットテープを送ったことを覚えているとのこと。このような交流がきっかけで、1995年に夫婦でトルコ旅行をすることになったとのことである。このとき現地でTA1AL・ムスタファとアイボールQSOを果たした。「交信した外国の局と実際に会えるなんて感無量であった。」とお話しされている。アマチュア無線家にはこの上ない話である。モンゴルや米国に行った時のお話もしていただいた。工業技術英語の研修としてニュージーランドに行かれた時には、現地でアマチュア無線の試験も受け、アマチュア局を開局されている。その時のコールサインはZL3HH。訂正符号を打っているようなコールサインだと笑っておられた。


左: アマチュア無線の交信で知り合ったトルコのアマチュア無線家たちと現地でアイボールQSO。TA1ZGは木村さん、TA1ZHがご夫人 (1995年)
右: モンゴルで開局したときのコールサイン (1994年)


左: ネパールに行ったときに取得したコールサイン 9N1ULが木村さん、9N1GOがご夫人。
右: カリフォルニアの友人宅を訪問した時

(2) 別宅ハムシャック

無線で知り合った海外のハム友達の話も楽しいが、現実的なアマチュア無線の話がなかなか出てこない。気になるシャックは? 何エンティティぐらいコンファームか? どんな無線機をお使いなのか? と思いを巡らせていると木村さんから「それでは別宅にシャックを見に行きますか」とのお誘いがありホッとした。あいにくその日は梅雨どきの停滞前線の影響で外は雨。これから別宅まで車での移動かと思っていたところ、実は隣の家だった。

隣の家に入ると、いたるところにアマチュア無線のアンテナや部品などが所狭しと置いてある。なんだ、これは? 家一軒全体がハムシャックかと思うほど。クロゼットのドアを開けると一応クロゼットの役目を果たすかのように体裁程度に二、三枚のシャツが掛けてある。とはいえ、実質このクロゼットは部品の倉庫棚だ。作りかけのエレキーユニットもある。喉から手が出そうになるレアモノの部品もいっぱいあるのには驚いた。全部真空管でSSBトランシーバーや外付けVFOが作れるのではないかと思えるほど凄い。これは凄いですねというと、「実はまだあるんです」といってロフトを見せてくださった。そこにもアンテナ関係の資材がいっぱいだった。


左: アンテナや部品の山 右:部品の倉庫棚と化したクロゼット

(3) アマチュア無線を始めたころ

木村さんは少年のころからボーイスカウトに入っており、何かしら理科、物理が好きだったようだ。中学の頃は初歩のラジオの折り込みに入っていた「ハムになろう」といった広告によく目が留まった。ハムになれば外国と交信できるし、外国の友達もできる。ある日ボーイスカウトの隊長がモールス信号を教えてくれた。これもきっかけのひとつで無線の世界にあこがれるようになった。

1968年、高校に入学した。クラブは無線部に入った。その年の7月に電話級(現4アマ)に合格し、その年の12月にトリオ(現JVCケンウッド)のTX-88A、9R-59で開局した。当初はHF帯にはあまり出ず、もっぱら井上電機(現アイコム)のFDAM-3※1で友人とよくラグチューをしていたそうだ。当時はサイクル20の絶頂期にあり、短波帯ではDXはよくできたそうだ。ある日、50MHzの上の方の周波数を聞いているとオーストラリアのテレビの放送が入ってきた。ローカルQSOしかできないと思っていた50MHzで海外の局が入ってきたことで感激したことを今でもよく覚えているそうだ。


左: 開局当時のQSLカード 右: 電話級の無線従事者免許証

入部した無線部の先輩もよくできた人だった。部員数名を連れてよく大阪の電気街日本橋に連れて行ってくれたそうだ。日本橋の中野無線で部品を買い、0-V-2※2を製作した。初めて自分で作った受信機にビニール線のアンテナを接続すると実に信号がよく入り感動したそうだ。

1970年、「人類の進歩と調和」をテーマに大阪で万国博覧会が開催された。高3のときだった。JARLの記念局JA3XPOが設置されたサンフランシスコ館にも行き、今は亡きJA3AA島OMにもお会いしたとおっしゃっていた。

高3となれば受験勉強に集中するときである。近所の方からご両親に「おたくの息子さん、夜遅くまで勉強されていますね」と言われ、木村さんは近所では勤勉な高校生として評判であったようだ。ご両親はさぞ鼻高々であったようだが、実は当の本人、アマチュア無線に夜な夜なふけっていたと、笑いを込めて当時を振り返っておられた。よくある話だ。

(4) 大学から会社勤め、そして教員に

大学受験のときにもよい人に巡り合っている。無線通信が好きならこの大学を、と勧めてくれた先生がいた。生徒がみんな尊敬していた物理の先生だった。大学受験では、アマチュア無線に夜な夜なふけってはいたものの、その先生が推薦してくれた東京の希望の大学にも入ることができてうれしかった。入学後もアマチュア無線は続けており、当時製作した測定器や周辺機器が今もシャックに残っている。


左: 自作HFアンテナチューナー 右: 自作ディップメーターを手に持つ木村さん

卒業後は大阪に戻り、民間の会社で研究職としてガス検知器を開発していたが、仕事で使う定電圧電源などは先輩に教わりながら自分で作っていた。その結果、知らぬ間に回路の知識はついていった。ある日木村さんの上司から「他部署への異動と課長昇進の辞令が出ることになった。」と言われたが、開発現場を離れたくなかったため断ったところ、辞令は取り消され、研究開発職から営業職へ、さらに他の職場への異動となった。このころから朝起きると腹痛になり、会社に出勤できなくなった。要は、学生の不登校と同じような症状の出勤拒否だ。そこで、仕事は定時に終わり、家の近くの大学の2部に通い始めた。教員免許を取得するためだ。あとから思うと、このときが一つのターニングポイントでもあった。これを転機に14年弱の会社勤めに終止符を打ち、工業高校で24年間教鞭をとったあと、カンボジアに行くことに。

(5) 60歳定年

学校の先生として60歳定年後も4年間工業高校で非常勤講師の仕事に就いていた。それと並行してJICAの“草の根技術プロジェクト”といった途上国の方々をサポートするプロジェクトのメンバーとして携わることにもなった。そのJICAの仕事は通っていた学校の元校長先生からの紹介だった。このときも素晴らしい人がそこにいた。人生の転機にやはり人がいる。

JICAの草の根プロジェクトの仕事で日本とベトナムを何回か行き来してその仕事は終わったが、それがきっかけとなり、JICAのシニアボランティアに興味を持ち応募することにした。木村さんご自身は、シニアボランティアで海外に赴任するのであれば行先は特に考えなかったが、ご夫人帯同で赴任したい気持ちはあったことから行先は安全を考えると自ずと絞られた。行先のリストの中にカンボジアの大学課程の先生たちに無線通信を教える仕事があった。60歳を超えているということからカンボジアであれば、同じアジアの国々で価値観を共有できるのではないかとの思いもあり、また、何回か行ったことのあるベトナムのとなりでもあるとのことで応募した。応募するもう一つのきっかけは、学校を紹介する記事の中の写真にトライバンダーのようなアマチュア無線のアンテナが写っていたことだそうだ。やっぱりどこかでアマチュア無線とつながっている。


バックにそのアンテナタワーとトライバンダーが(2018年8月)

(6) そしてカンボジアへ

2017年10月、JICAのシニアボランティアとしてご夫人帯同で、アンコールワットで有名なカンボジアに赴任することになった。木村さんのご夫人も実は1アマだ。ご夫人は、昭和58年(1983年)の電話級を皮切りに電信級、2アマ、そして平成10年(1998年)に1アマと順に取得しておられる。現役中は、中学校の社会科の先生で理系女子ではない。学生時代は決して理科や物理は好きではなかったが、ご主人からアマチュア無線を勧められて「それなら取ってやろう」との思いで取得したそうだ。

カンボジアでは、NPIC(National Polytechnic Institute of Cambodia)で先生たちに無線通信を教える仕事に就いた。学校には立派なアンテナとNPICが設立された当時設置されたIC-756PROⅢが無線室に置かれていた。ところが、長引く内戦と復興の中で国の法体系、制度など国の根幹をなすほとんどのものが壊されたことで、自国民のアマチュア無線取得の道まではなかなか開けていなかったようだ。よって自国民のアマチュア無線家がいないのだ。そんな中、木村さんもカンボジア国民への免許発給に奔走した結果、2019年カンボジア郵政通信省が一定の基準を定め自国民3名にアマチュア無線の免許を与えた。これで今後のアマチュア無線への道が開けた。その後、NPICにはIC-7610も導入され、自国民による電波も発射されることになる。

木村さんご自身は日本の免許からカンボジアの免許を取得した。コールサインは、木村さんがXU7AKJ、ご夫人がXU7AKKだ。下に掲載したのがその免許状であるが、申請には日本の免許のコピーに加え、無線機の仕様、アンテナのスペックや同軸ケーブルのロスまで問われて、なかなかたいへんだったようである。お住まいではベランダから突き出した釣り竿アンテナと日本から持参したIC-706MKIIGを使ってFT8でよくQRVしたそうだ。JA局のパイルアップを受け、FT8の画面は常に真っ赤になっていたそうだ。


左: XU7AKJ(木村さん) 右: U7AKK(ご夫人)
カンボジア政府から発給された免許


左:木村さんとNPICの先生たち 右:NPICの学食で先生たちとランチ

(7) 現在

別宅シャックには、4畳半ぐらいのルーフバルコニーがある。ここにアンテナを立ててくださいと言わんばかりのスペースだ。すでに木村さんはそこにアンテナの設置を始められていた。地上高45m、0度を挟んで210度から60度までワイドオープン。これ以上の眺望とロケーションは都会ではそうそうない。まずは、アンテナ設置と計画を披露していただいた。


お二人とも1アマのオシドリハムだ。(ご夫人: JL3GOI)

(8) そしてこれから

木村さんのこれまでの生活のコアの部分には必ずどこかにアマチュア無線の存在があり、素晴らしい人たちがいる。半世紀以上のアマチュア無線の中で集めたというか、溜まったというか、多くの部品に囲まれ、この部品であれを作ろう、これを作ろうと夢が膨らむ。

とうとうと流れる淀川の流れを見ながらご夫人の作ったフルーツケーキとダージリンの紅茶の香りを楽しみながら世界各国の人たちと交信をするのだ。アマチュア無線を通してもっともっと友達を作りたい。アマチュア無線は、生涯の趣味であり、生活の一部となっている。「アマチュア無線を通して多くの友人ができたことで、今の自分がある。」と語っておられる。

これからもご活躍を。GL



※1: FDAM-3とは井上電機製作所(現アイコム)が1967年に開発した50MHz AM/FMポータブルトランシーバー。送受信に50~54MHzをカバーするVFOを初搭載。受信用のVFOで相手局を探し、送信用VFOで受信周波数とのキャリブレーションを取ってから応答するという使い方であるにもかかわらず、50MHz帯のどこでも電波が出せて、デザインや操作性に優れていたことから人気を呼びました。(hamlife.jpより引用)

※2: 0-V-2とは、高周波増幅回路なし(0)、入ってきた信号を検波し、低周波増幅回路2段(2)で構成された受信機のこと。

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次号は 12月1日(火) に公開予定

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