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今月のハム

JK6SEW 久保博亮さん

鹿児島県薩摩川内市にお住まいのコンテスターJK6SEW 久保博亮(ひろあき)さん。小学生の頃からラジオに興味をもった久保さんは、小学4年生の頃、雑誌に載っていたラジオの通信教育を申し込んでみた。まもなく自宅に教材が送られてきたが、小4の久保さんにとっては読めない漢字が多すぎて、「返品するしかありませんでした」と話す。

中学校に進学すると、自転車通学となったが、その頃流行の自転車には、電子式の方向指示器(フラッシャー)やスピードメーターなど豪華な装置が実装されており、久保さんの自転車にはラジオが付いていた。そのラジオを通学中に聞くことで、どんどん受信が楽しくなっていき、久保さんはついにBCLラジオ(クーガ)を購入し、ますます受信に熱中していった。

その頃、久保さんの回りには同じように放送受信(BCL)を趣味とする友人が何人かおり、その友人らと共に「市比野(いちひの)電波クラブ」を結成、受信目的で近くの阿久根大島に移動運用に行ったことを覚えている。わざわざ島にまで移動した理由は、島ならノイズが少なく良く聞こえるだろうというものであった。中学2年になるとアマチュア無線を開局、運用している同級生がおり、彼に影響されて久保さんは無線通信に興味を持った。その頃には電子工作もはじめており、「市比野電波クラブ」のメンバー4名でワイヤレスマイクを製作し、夜な夜なラグチューを楽しんだという。

高校に入ると久保さんはすぐに物理部(JA6YYJ)に入部した。入部後すぐ4月のオールJAコンテストで先輩達が活躍しているのを見て、大きな刺激を受けた。これが、久保さんがコンテストに興味を持つ原点となった。

その年の10月、久保さんは電話級と電信級のアマチュア無線技士国家試験を受験、両資格とも合格した。しかし、電信級の合格通知が電話級より少し遅れて届いたため、電話級だけを受験した同級生と比べると開局が1ヶ月ほど遅くなってしまったという。高校2年になった1978年5月、ついにJR6QDLの免許が到着したが、すでに無線機もアンテナも準備万全で、無線局免許状の到着を首を長くして待っている状態だった。

久保さんはさっそく21MHz CWでCQを出した。免許が届くまでにすでに電信をマスターしておいたため、電信の運用に抵抗は全くなかったという。パドルの操作も十分に練習しておき、左手でパドルを操作した。そのCQに対して、JAのMM局からコールがあり、これが久保さんの1st QSOとなった。久保さんは「その時はMMとは何だろうと思いました」、と話す。

毎日、学校から帰ると無線機に向かい主に21MHz CWを運用、海外局とも積極的にQSOした。もちろんDXペディション局もコールしたが、外部VFOを持っていなかったため、スプリットには手回しで対応したという。すなわち、相手が受信に入ったら、ダイヤルを回してすばやく送信周波数セットしてコールし、コールを終えると、再びダイヤルを相手の送信周波数に戻す、という対応である。

特に強い局には、この方法ではなく、トランシーバーで送信しながら、BCLラジオで受信するという方法で対応した。受信アンテナはBCLラジオの内蔵ホイップだった。当時、この運用方法でQSOでき、特に記憶に残っている局が、豪領メリッシュリーフのDXペディション局VK9ZRだった。

一方、学校のJA6YYJからはコンテストをメインに運用した。その頃は女子部員も含め10人くらいでコンテストを戦っていたという。高校3年になっても相変わらず無線運用に熱中し、なかなか受験勉強に集中できなかったが、それでも受験直前の3ヶ月ほどはQRTし、久保さんは沖縄県の琉球大学に入学した。

大学入学後は、すぐに無線部(JR6YAH)に入部した。このJR6YAHは、しばらく活動が途切れていたが、1級上の先輩等がコールサインを復活したところだった。そんな状態だったので、当時は部室もなかった。しばらくすると、各クラブの部室として使用されていたプレハブの1室がたまたま空いたので、無線部が部室を確保することができた。その頃、琉球大の校舎は守礼門の近くにあった旧キャンパスから西原町の新キャンパスに徐々に移りつつある時期で、このプレハプ部室は、旧キャンパス内にあった。久保さんは2年生までそこの部室から運用した。

当時久保さんは、学生寮に住んでいたが、この学生寮からも個人コールJR6QDL/6
で運用していた。しかし移動運用だと最大出力が50Wしか出せないため、移動しない局に変更して100Wの免許を受けることにした。さっそく変更申請書を提出し、変更許可が下りたものの、なかなか工事落成届を提出しなかったところ、総通局(当時は沖縄郵政管理事務所)から、「まだですか」と連絡が来て、慌てて落成検査を受けた。

学生寮は4人部屋で、久保さんの隣は、農学部の先輩で部屋の中で鶏を飼育していた。後ろは、サイクリング部員で自転車を置いていたし、もう1人はエレキギターのアンプを置き、久保さんが無線機を設置するなど、何しろ部屋が狭かった。それでも久保さんは、学生寮の屋上に3.5~28MHzの各バンドのアンテナを設置し、特に21MHzは4エレモノバンド八木を設置するなど力を入れた。実はこのアンテナは学校の許可を受けていなかったが、寮長は黙認だったという。その後、無事に100Wの変更検査に合格。コールサインも沖縄県のJR6VNCに変わった。

コールサインを変更する前にはJR6QDL/6でコンテストに出場し、特に1981年のオールJAコンテストでは電信部門21MHz種目にエントリーし、レコードスコアで優勝した。この時のスコアは、40年近く経過した今でもまだ破られていない。変更検査に合格し、100Wに増力した後は、JR6VNCでコンテストにエントリーするようになる。「オールJAの電信電話部門に出ると21MHzのシングルバンドでも1700局もできます。沖縄からコンテストにエントリーすると、本土では決して出せない様なスコアが出せることを知った上で、大学を選んだようなものですよ」、と久保さんは笑って話す。

出力は100Wとなったが、その頃運悪く、学生寮でボヤが発生した。現場を見に来た学生部の職員にアンテナが見つかってしまい、撤去命令が出た。しかし、大学が西原町に移設中だったことも幸いし、新しい敷地内で、部室も専用のプレハブ部屋がもらえた。久保さんは、学校から許可を得てアンテナを設置した。その時は自分のアンテナを全部持って行き、またJR6AG高良氏、JR6GV平良氏を始め沖縄のOM達から、無償で多くの資材の提供を受けた。後に書くRTTY運用を始めた際のメカニカルマシーンも、高良氏から提供してもらった物だった。

その後久保さんは1アマを取得、JR6YAHも変更検査を受けて500Wに増力した。増力後はコンテストをメインに運用、21MHzは6エレのモノバンド八木を使用し「なにしろ良く飛びました」と話す。増力後のコンテストの成果として、大学3年の頃、米国の73マガジンが主催するRTTYコンテストにJR6YAHのシングルオペレーターでエントリーし、21MHz部門で世界2位となったことだ。このときはRTTY装置としてシータ7000を使ったが、部室にあったテレビは解像度がもうひとつで字がよく見えなかったため、途中で部員のテレビを借りて戦った成果だった。

「学生時代は無線だけをやったという感じですね」、と話す久保さんは、大学卒業後、鹿児島にUターンして建築会社に就職した。久保さんは長男だったこともあり、これは入学時から決めていたことだった。ただし、開局時の旧コールJR6QDLは変更して無くなっていため、当初はJR6VNC/6で運用していたが、87年に自宅に自立タワーを建てたのをきっかけに、その後九州本土のコールJK6SEWに変更した。このタワー上には、7/14/21MHzのトライバンド八木714Xと、28MHzの3エレ八木、それに3.5MHzはスローパーアンテナを乗せた。

鹿児島には毎年複数の台風が上陸したり接近したりするため、タワー建設当時は、台風の度に久保さんはアンテナを下ろし、これを年に平均2、3回はやっていた。その頃はDXCCハンティングにも熱を入れ、トータルで300エンティティー以上とQSOしたが、交信すること自体が面白くQSLカードの収集にはあまり熱心ではなかったという。同じ志のローカル局とは430MHzで連絡を取り合い、珍局QRV等の情報交換を行っていた。

しかし、年々アンテナを下ろす体力、気力が低下すると同時に、それを行う暇も無くなっていき、ついにはアンテナが放置状態となってしまった。そのため、メインのトライバンド八木は過去に2回破壊されている。特に2015年の台風では再起不能な状態まで大破してしまった。「無線さえやっていなければ、こんな気苦労もないのに」、と思うこともあったという。

1998年、久保さんは思い立って自宅から車で5分程度の小高い丘の上に別宅シャックを作った。鉄塔はタワーとパンザマストを合わせて4本建設し、以後はマルチオペレーター部門にアクティブにエントリーするようになった。特に2000-2002年頃が一番アクティブで2003年まで運用した。その頃の最大の成果として、2003年のオールJAコンテスト電信電話部門マルチオペ2波種目に挑み優勝したスコアは、今もって破られていない。

その後はサイクル23の終盤に向かって再度アクティビティが低下し、モービルからたまに出る程度となった。そして2007年に結婚。その年に長女も誕生した。結婚資金捻出のため、久保さんは無線機やアンプを一旦処分してしまったが、数年経つと再び無線好きの虫が騒ぎだして2010年頃から少しずつ復活、設備の再構築を始めた。故障していたローテーターも交換して、タワー上で5年間回らなかったアンテナが回るようになった。2015年台風によりアンテナが大破したのを機会に、タワーにエレベーターを設置して、台風が接近した際には楽にアンテナを下ろせるようにした。


2017年4月現在のアンテナ群
上から50MHz 7エレ八木、7MHzロータリーダイポール、14/21MHz 5エレ八木、3.5MHzワイヤーダイポール

久保さんは現在敷地内に自宅の新築を計画中で、もちろん無線用のシャックも図面に入れてある。そのシャックでは、コンテスト用に設備構築を行う予定で、特にSO2R(Single Operator 2 Radio)体制を確立するために機材も少しずつ揃えている。さらに、マルチオペ2波での参戦も視野に入れて準備している。

話を戻し、久保さんは大学時代に学校を休学してまで熱を入れたイベントがある。木製の電柱を組み合わせて作った筏での漂流実験への参加である。これは沖縄から鹿児島まで、日本人のルーツを探るという目的に沿ってその筏で航海する実験で、琉球大学の探検部、ワンダーフォーゲル部、ダイビング部が主体となり、アマチュア無線部がサポートを行うことになった。出発前には新聞の取材もあり、「男のロマン」と掲載されるなど注目された。

筏には6人のクルーが乗り、サポーターの久保さんは伴走船に乗ることになった。しかし出発当日になったが、天気が悪くて出航できなかった。翌日もNGだった。3日目なって強行出航したものの低気圧の接近により、筏が本島に押し流されてきた。「座礁するから危ない」、という判断となり、久保さんは伴走船から緊急通信を行った。その結果、海上保安庁から巡視艇とヘリコプターが救助に来た。結果的には、けが人も死者も出なかったが、新聞には「無謀な冒険」と掲載されて終了となった。

しかし、それで諦めるわけにはいかず、この冒険企画は、翌年に再度トライすることになった。もちろん久保さんも参加したが、2回目は伴走船には乗船せず、陸側でのサポート要員となった。この2回目は16日間かかって筏が鹿児島に到着、成功裏に終了した。スポンサー企業による祝賀会まで開催されたという。

久保さんは、アマチュア無線を始めて良かったこととして、元々人と話をするのが苦手だったのがアマチュア無線の運用を始めてからは、普通に話せるようになったことを挙げる。さらに英語で会話を行う度胸も付いた。これは特に沖縄時代に、外国人のクラブであるRSO(Radio Society of Okinawa)の会合などに出たことで、英語を話せばならない状況におかれたことが要因です、と説明する。

久保さんが一番好きなバンドは、昔も今も21MHzで、「沖縄時代はDXと良くラグチューしました。CQを出せばアフリカからしょっちゅう呼ばれました。沖縄では本土とは伝搬がかなり異なります」、と話す。さらに、「今後は、新居のシャックが完成したら、コンテストに全力で復帰し、世界の頂点を目指したいです」、と将来の夢を話す。

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