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熊野古道みちくさ記

第34回 紀州の原点を探して

熱田親憙

昨年の秋、JR和歌山駅と海南駅で劇団公演「なぐさとべ」「なぐさ姫」のポスターを見て、紀州の古代に思い巡らしていた。古代の名草王国の存在を信奉している中言神社の世話人の山本善丈(77)さんを名草山山麓(和歌山市吉原)の境内に訪ねた。

「名草山は隆起山で、西側の暴風を遮り、東側は平地で太陽の光に恵まれ、山からの清い水は、3本の川で山の恵みを大地に運び、肥沃(ひよく)な土地を育んだ。豊かな木々、薬草、小鳥やイノシシなどに囲まれた名草邑(わら)の民たちは、神に守られ、選ばれし巫女(みこ)の名草戸畔に導かれて楽園を作っていた」と、旧約聖書のエデンの園そのもので、古代小国家の誕生を地理学的にご説明いただいた。

3世紀半ばの邪馬台国・卑弥呼の先駆けかなと思いながら、名草戸畔の伝説のある宇賀部神社(海南市小野田)を訪ねた。神武天皇の東征軍と戦った名草戸畔の最期を見届けた邑人が泣く泣く頭部は当神社に、腹部は杉尾神社(海南市坂井)、脚部は千種神社(海南市重根)に祭ったと宮司のご説明。人目や皇軍をはばかっての処置だったのだろうか。

岩出町史には「戸畔の死後、神武天皇は服従した天道根命(あまのみちねのみこと)を紀伊の国造(くにのみやつこ)(知事)に任じて、庶民は国造の元で永く平和な暮らしを営んだ」とある。名草邑から名草王国に発展していった様子がうかがえる。天道根命は名草戸畔の子または孫であり、戸畔の祖は紀直(きのあたい)(官僚)の流れだと町史には記されている。

一方、初詣でにぎわう日前宮が名草山や天道根命と深い関わりがあることを知り、「たま電車」で有名な貴志川線に乗り、日前宮を訪ねた。橋を渡って奥の参道を進むと一つの境内に二つの神宮、日前神宮と、國懸神宮があり、不思議に思って社務所に尋ねた。日本で最も古い神社の一つといわれる日前宮は二つの神宮の総称。神武天皇2年に国造・天道根命(紀氏の祖神)によって、日前神宮の御神体に日像鏡(ひがたのかがみ)、國懸神宮の御神体に日矛鏡(ひぼこのかがみ)を、 石凝姥命(いしこりどめのみこと)に鋳造させて祭られたと日本書紀、社伝にある。以来、天道根命の末裔(まつえい)である紀氏が現在まで祭祀(さいし)を受け継いで、日前宮の神事にも天道根命一族の神山であった名草山の榊を使っているという。現在の宮司、禰宜(ねぎ)も「紀」の姓を名乗られている。

こうして名草王国に格式の高い神宮が育まれたのである。中世には熊野詣でにぎわい、天正13(1585)年に秀吉の紀州攻めで社領没収にあったが、初代紀州藩主・徳川頼宣によって再興され、紀州の中心地となった。2度の訪問を振り返ると、紀州の古代は名草戸畔による名草邑の豪族社会から始まり、その一族の天道根命の国造の手腕で名草王国が誕生し、紀氏に引き継がれた日前宮が一族と村人の心の原点として、地理的にも精神的にも紀州の中心になり、紀州の呼称に繋がっていったと思われる。県庁所在地が県の北端に位置するのも理解できる。その背景には水田耕地が紀北に集中していることも偶然ではなさそうだ。


スケッチ;夕陽の名草山と中言神社(和歌山市吉原)

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次号は 12月 1日(木) に公開予定

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