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熊野古道みちくさ記

第48回 世界遺産になった闘鶏神社(田辺市)

熱田親憙

世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年登録)に、中辺路の4つの峠、大辺路の三つの坂などと共に闘鶏神社(田辺市湊)が昨年10月、追加登録された。紀伊田辺駅で下車し、再度訪ねた。

闘鶏神社はこれまで「弁慶まつり」の起点としての印象が強かった。3年ほど前、田辺観光ボランテイアガイドの会代表だった故畑上守世さんに弁慶まつりと市街地観光の案内をしていただいた事を思い出す。弁慶まつりは源平合戦の治承・寿永の乱に因んだ祭りかと思いきや、田辺市商工会議所がまちづくりのために企画した催事とのこと。メインの「よさこい踊り」は各地から参加した52チームが、闘鶏神社を出発して海岸までアオイ通りを踊り歩く、ストリートダンスだった。そのあふれるエネルギーを観光客ももらい、興奮のひと時を過ごした。夕刻は地元の人たちによる「ゲタ踊り」があり、「踊り一色」の祭りという印象が強かった。

今回の訪問で闘鶏神社の印象は変わった。

当初、田辺宮と称された神社は三十六歌仙の一人、藤原実方の子孫・湛快が熊野別当のとき新熊野宮と称し、熊野本宮大社の別宮的存在となる。湛快の子・湛増が熊野別当の時、源平の壇の浦の戦いで、いずれに味方すべきか決めかね、神意を占うため、神前で紅白の鶏を戦わせ決めることにした。社地の鶏を7羽ずつ紅白にわけて闘わせ、赤が勝ったら平家に、白が勝ったら源氏に味方することを決めていた。湛増は白の勝ちを見届けて、弁慶(湛増の子と言われている)を先頭に、総勢2000人、200艘余の熊野水軍を率いて壇の浦に出陣、源氏の勝利に貢献したという。

以降、勝運の神様としても信仰され、闘鶏神社と呼ばれるようになった。戦に参加する際に神意を問う湛増の精神性も興味深い。

白河法皇の時、熊野三山の祭神を祭るようになり、参詣者は道中の安全を祈願したり、三山参詣に代えて引き返す人もあったという。そんな役割を担ってきたと思うと、風格のある社殿に熊野本宮大社の重みを感じた。

田辺の市街地エリアは熊野の入り口・口熊野と呼ばれ、中辺路の参詣道に入る前に、海岸で潮垢離(いおごり)をせねばならない。潮垢離浜跡記念碑のそばの説明板には「この付近一帯は出立浜と呼ばれ、熊野参詣人が潮垢離をとった浜として知られている。潮垢離は海水を浴び、けがれを祓(はら)う儀式のことである。建仁元(1201)年、後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した歌人藤原定家は、前日から体調を崩していたにも関わらず、先達たちの強い指示で潮垢離をとった。」とある。

垢離について地元の人に聞くと、「胸まで浸かる」というから、他国の宗教的な沐浴に通ずるものがある。近くに出立王子跡があるのもうなずける。

闘鶏神社と出立王子が相まって、熊野詣での巡礼文化が高まり、弁慶まつりと違ったにぎわいを取戻せば、町づくりの志半ばで亡くなった畑上さんも喜ばれるだろうと思った。

幸い、四国にも巡礼の道がある。癒しを求めて熊野を訪れる人が増え、和歌山でも巡礼文化がよみがえることを願わずにはおれない。

(記:2017年)


スケッチ;湛増と弁慶の像、弁慶まつり、闘鶏神社参道入り口

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次号は 12月 1日(木) に公開予定

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