2013年4月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その1 プロローグ
筆者の初めての海外渡航とその背景
先に述べた通り、筆者の初めての海外渡航は1967年であり29歳の時で、勤務していた早川電機株式会社(現シャープ株式会社)の東南アジア技術駐在員としての赴任であった。当時社長の早川徳次名の辞令(写真1)には、「貿易本部第2営業部バンコック駐在」とあり、駐在手当は月額$385とある(注:この時代の為替レートは $ 1 = \ 360)。パスポートには「渡航費用に関する証明」という欄があり、Cash $ 100.00, TC $1,900.00と記され富士銀行の証明印が押されている(写真2)。当時、外貨の乏しかった日本から持ち出せる外貨はこれが限度だったと思うが、駐在手当の半年分を持って出たことになる。任地はバンコックであったが担当する地域は香港、タイ、マレーシア、シンガポールであった。しかし、会社が準備してくれたパスポートには、これ以外に台湾、フィリピン、インドネシア、ベトナム、カンボジア、ビルマ、インド、パキスタンなどが渡航先として記されており、必要があればこれらの国々へも出かけねばならない立場にあって、現に1969年の8月にはパキスタンへ出張した。
(写真1)バンコック駐在の辞令
(写真2)パスポートの渡航費用に関する証明欄
1967年8月26日に伊丹空港から出国し香港に到着した。この当時は香港でもビザが必要であった(写真3)。ここには代理店ROXY社があり、早川電機は別の場所に事務所を構えていた(写真4)。そこで11月末まで仕事をすることになり、赴任地バンコックへは12月1日になってしまった。日本で取ったタイのビザは期限切れで、香港のタイ領事館で再度ビザを取っての入国であった。ビザについていえば、当時はどの国へ行くにもビザが必要で、在任中の2年余りで約50回移動したため、入国する度に次の移動先のビザを取りに走ったことを覚えている。バンコックには代理店BTC : Bangkok Trading Companyがあり、早川電機は別の場所に事務所を構えていた(写真5)。この代理店は1930年代に創業者早川徳次が開拓した初期の海外代理店の一つである。
(写真3)香港入国の為のビザ
(写真4)香港事務所の名刺
(写真5)バンコック事務所の名刺
マレーシアやシンガポールには事務所がなく、代理店ROXY社へ出張する形であったが、詳細については後のアマチュア無線局の運用の項で述べることにする。日本からの出国時にパスポート以外に自動車の国際運転免許証を持って出たが、くしくもこの当時の大阪府の公安委員長は早川徳次が勤めていたのでTokuji Hayakawaと署名された国際運転免許証であった(写真6)。また、当時は天然痘の他、コレラの予防接種が必要だったのか、証明書には出国前の日本での接種以外に、香港とタイでも予防接種を受けた証明が残っている(写真7)。
(写真6)国際運転免許証の表紙
(写真7)国際ワクチン証明書のコレラ・ワクチンの欄
いささかシャープのPRになってしまって恐縮であるが、筆者が初期に海外運用をすることが出来た背景と、時代の一端を最初に知っておいて頂こうとあえて記したものである。
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参照
週刊BEACON :http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/ham_life/arakawa/index.html
シャープ100年史 : http://www.sharp.co.jp/100th/history/
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ