2016年3月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
今月(2016年3月)の6日(日)に奈良県葛城市の歴史博物館「あかねホール」で開かれる、JARL奈良県支部大会(ハムの集い)で「アマチュア無線の世界を語る」と題して講演をさせて頂く予定です。この機会に、この月刊FBニュースの「海外運用の先駆者達」についても触れさせて頂き、連載への想いを伝え、また参加者のご意見をお伺いしたいと考えています。
大学のラジオクラブが活躍
この年は大学のラジオクラブのメンバーが、グループで太平洋の島々から運用し、コンテストに参加するなど活躍した。ここではナウルとキリバスでのこれら2件の運用を含めて紹介する。
1986年 (北マリアナ諸島 JA2EZD/WH0, KH0/JA1UT)
JA2EZD米塚廣雄氏はサイパン島からJA2EZD/WH0の運用について、QSLカード(写真1)と共にアンケートを寄せてくれた。「KH0ACの所からです。私は友人W7PHO, Billの紹介で、3年前から連絡して行きました。何とかKH0にContest Stationを作ろうと思っています。でも、お金がかかるなぁ・・・。(1986年12月記)」
写真1. JA2EZD/WH0米塚廣雄氏のQSLカード。
JA1UT林義雄氏からも、1986年以前に北マリアナ諸島からKH0/JA1UTで運用し、50MHz、サテライト、1.9MHz、FAX、RTTYの初運用をしたと連絡頂いたが詳細は不明。(1986年4月記)
1986年 (ハワイ NH6GB)
JR6NWN鈴木善明氏は、ハワイからコンテストに参加したとレポートしてくれた。「通常通りV.E.によりNH6GBの免許を取得しました。井上氏(WH6W/JA5GZB)のヘルプによります。日本からだとQSTなどめったに手に入りませんのでV.E.の情報入手方法が大変に思いました。1986年のW.W. WPX PHコンテストにはWH6Wとして参加しました。(1987年5月記)」
1986年 (ナウル C21AA, C21NI)
JN1DPL中俣貴史氏はJA3YBFのメンバーとして、JF3MOK, JG3LZG, JH9GRMと共にナウルからC21NIで運用したとレポートしてくれた(写真2及び3)。「私達の場合6月頃からの手紙のやりとりで、結局ナウルに来てナウルアマチュア無線連盟に加入することによりON AIRが可能(コールはC21NI)となりました。確か1人A$20 (¥2,000位)だったと思います。しかしARCにAFA-40、14-28MHz Tri band YAGI、ローテーター等を寄附したため、私達4人は無料でした。運用した場所は空港から徒歩30分位の所で、住宅は半径500m以内に10軒もない海に近い倉庫街でした。* 7MHzでN5AUの日本人OP (2nd OP)に邪魔された。* 50MHzでビーコンを出していたが聞こえたのはバズーンばかりなり(FT-680+4ele YAGI)。* 持っていったFT-757GXのCPUがフィーバーして使えなかった。* RTTYの装置を借りて何局かとした。* 1.9MHzでカップラーを使っていたら燃えた(TL-922使用)。でも負けずに運用した。C21には全員で20局近くいたが、殆どアクティブでない。理由にすぐJAのパイルになり、わけがわからなくなるそうだ。ARCは私達が行った時は、ANTはスローピングDP、 RIGはFT-102ライン(C21KHのものと思われる)があった。でもSHACKはYASMEが作ったということで、シャワールーム、トイレ(水洗もちろん洋式)があった。冷蔵庫もあったがあまり冷えなかった。床は板張り、もちろん靴をはいたまま、そこの上で、5日間を過したらビックリしていた。やっぱり板張りは痛い。隣のインド人のファミリーと仲よくなり何度か食事に招待された。また子供達ともサッカーをして遊んでいた。TV放送は無いが日本みたいにレンタルビデオ屋がたくさんあり、多くの家にはテレビはある模様。ラジオは1局あり、殆ど1日中ミュージックが流れている。TVIは無いがラジオIが多少あったみたいです。島(1周20km)を車で観光案内されたが全く観るものがない。観光地でないので当然ですね・・・。ナウルに着いた日には、やっぱり暑さでムッとしたが、でもすぐに慣れました。だいぶ前のことなので、ちょっと忘れたところもあります。もう一度行ってみたいという気もあります。今度は誰かさんみたいに彼女と2人でね・・・ 。なぁんちやって。(1989年1月記)」そして、参加した全員がそれぞれ次のようなレポートを送ってくれた。
写真2. JN1DPL中俣貴史氏達が運用したC21NIのQSLカード。
写真3. (左)CQ誌1987年2月号に掲載されたC21NIの記事。(右)クラブ局C21NIの運用許可証明書。
JF3MOK広田晴彦氏は、「WW DX PHにC21から出ようという事で、JA3YBFのメンバーと共に参加しました。事前の準備は全てYBFでやってもらいました。C21RK, Jimに手紙を出して、現地のナウルARCのメンバーとなることにより(年会費14A$)、C21NIの運用許可を得た。リグ、ANTは全てJAより持参し、当時何も残っていなかったC21NIのクラブハウスに設備を建設し運用した。JJ1TZKなどは同じNIのCallであったが、現実には現地局での2nd op.の形態であったようだ。NIの近くにはTRITONという中華レストランしかなく、毎日中華料理を食べていた。現地では何かと不便な事が多く、C21NIのメンバーはもとより、隣に住むインド人一家にも食事に招待されたり、海水浴、ドライブ等につれて行ってもらったり、何かとお世話になった。またクレジットカードの類は全く通用しない処なので、現金を持っている事、ナウル銀行では¥→A$の換金もできます。毎日、隣人やNIメンバーの差し入れがあり、ほとんど現地ではお金を使わずに生活できた。放送等はラジオ・ナウルがあるのみ。また、クラブハウスにはトイレ、シャワー(水のみ)が完備されている。トイレは私達が訪れた際こわれていたが修理してきたので大丈夫だろう。WW PHはJAばっかりでマルチがとれず、YE0Xに負けてしまったが、Country Topとなりました。(1989年1月記)」とレポートしてくれた。
JG3LZG/JH1ORL酒井章宏氏は、「C21RK, C21KHの協力により、WW DXコンテストに大阪電気通信大学及び島根大学 無線通信技術部のメンバーと共に参加した。C21NIの運用にはナウル無線クラブのメンバーになることが条件であり、1年間オーストラリアドル20ドルとの事であった。私達はC21NIクラブ局復活の機械(アンテナ、ローテーター、同軸、その他)を寄贈した為、無料でメンバーとなれた。クラブのシャックは一戸建てでFBであるが、3.5MHzや1.9MHzのDPを建てるには努力が必要であろう。運用の際には手紙でC21BDもしくはC21RKに連絡するのが良い。(1990年5月記)」とレポートしてくれた。
JH9GRM西野雅人氏は、「1986年のワールドワイドコンテストPHに参加する為に、C21NIのマルチシングルで参加した。私たちはPEDIには女性を連れては行かなかった。又、機材はすべて日本から持ち込み、ANT等をNAURU RADIO CLUBに寄贈して来た。私たちが機材をCLUBにSETTINGして来て以降、C21NIのコールがよく聞こえるようになった。(1989年2月記)」とレポートしてくれた。
JA1UT林義雄氏からも、1986年以前にC21AA, C21NIを運用し、ナウルから50MHzの初運用をしたと連絡頂いたが、詳細は報告されていない(1986年4月記)。しかしその後この運用に参加したJG1KYL羽根田氏から、これは1980年9月13~24日に行われたもので、モービルハム誌の1980年11月号に掲載されている旨、連絡を頂いた。
1986年 (キリバス JH4RHF/T32, JA3YKC/T32, T3AZ)
JH4RHF田中純一氏は、大阪大学ラジオクラブのPacific DX-Peditionとして、東キリバスのクリスマス島からJA3YKC/T32でWPX SSB Contestに参加したと詳細なレポートを寄せてくれた(写真4)。参加したメンバーはJH4RHF以外に、JH4WER/T32, JI3ERV/T32, JK3GRR/T32であったようだ(写真5)。「* 序。Kiribatiは、DXCCのT30, T31, T32から成っています。政府、役所などは、T30(West Kiribati)のTarawa atollにあります。国内の交通手段は定期便にはなく、West KiribatiにはNauru, Guamなどから、East Kiribati (Christmas I.)にはHonoluluより飛行機が出ています。Central Kiribatiには定期的な交通手段はありません。現在のアマチュア無線のActivityは、T30が大半で、T32からも1~2人QRVしています。T31には常駐局は居ません。
*ライセンスについて。ライセンスはTarawa atollにあるTelecom Kiribatiが発給しています。郵便で問い合わせると、Application form, Schedule of Conditionなどを送ってきます。ライセンスは日本のライセンスを基に発給されています(写真6)。(筆者注: 1986年当時。- 途中省略- ) 私はコンテスト参加を目的としていたので、T32のコールサインが欲しく、途中寄ったHonoluluよりTelexで交渉しましたが駄目でした。
*旅程その他。入国については、旧英国領以外の国からはビザが必要です。ビザはキリバス共和国名誉領事室(〒100 東京都千代田区丸ノ内2-4-1 丸ビル684区)で入手できます。Christmas Islandへは、Honoluluから週1便水曜日に定期航路があります。航空会社はAir Tungaruですが、飛行機の運行はAloha Air Lineが代行しており、Honolulu空港のDomestic Gateから飛んでいます。Christmasは世界最大のサンゴ礁で、釣りのメッカとして知られています。週1便の飛行機で来る外国人(アメリカ人が殆ど)の殆どは、釣りのために来て、殆ど全員が島唯一のCaptain Cook Hotelに泊まります。ホテルの中はまるでアメリカそのもの、電源は120V、米ドルが通用します。過去のT32へのPediはすべてこのホテルから行われ、ホテル側も好意的で、好きなようにアンテナを張らせてくれます。電気は自家発電のようで、毎日夕方に停電します。入国審査はきちんと行われますが、ライセンスを見せればリグなどの持ち込みはできます。出国時にBoarding FeeをA$5払います。(1987年5月記)」
写真4. JH4RHF田中純一氏達が運用したJA3YKC/T32のQSLカード。
裏面にはコンテストの結果も印刷されている。
写真5. 裏面にJH4RHF田中純一氏達4人のコールサインが記入されたQSLカード。
写真6. (左)キリバスの免許申請書。(右)JH4RHF田中純一氏達への短期免許状。
JA1UT林義雄氏からも、1986年以前にキリバスからT3AZを運用、50MHzの初運用をしたと連絡頂いたが、詳細は報告されていない(1986年4月記)。しかしその後この運用に参加したJG1KYL羽根田氏から、これは1980年9月13~24日に行われたもので、モービルハム誌の1980年11月号に掲載されている旨、連絡を頂いた。
1986年以前 (JA3KWJ小梶和男氏によるバングラデシュ S21JAと南太平洋諸国 VR8D, VR1AK, YJ8JA 及び西アリカ諸国 JA3KWJ/A2C, JA3KWJ/6W8, TU4AR, C5ACB, 5T5JA, XT2AW)
「月刊FBニュース」2014年5月号の当コラム(その14)で、5Z4QTとして紹介したJA3KWJ小梶和夫氏は、1986年8月にその5Z4QTのレポート及びQSLカードと共に、次のような手紙を寄せてくれていた。「最近は仕事の関係もあってあまりON AIRしておらず、JA1ELY氏の59誌しか知らなかったためNewsはほとんどありませんHi。Ex: JA3KWJ/A2C, JA3KWJ/6W8, TU4AR, C5ACB, 5T5JA, YJ8JA, S21JA, VR1AK, VR8D, XT2AW(2nd-op), 5Z4QT (1986年8月記)」ここに示されたコールサインは1986年以前に運用されたものであるが、詳細が分からないのでコールサインのみの紹介にとどめておく。尚、小梶和夫氏の5Z4QTのQSLカードには、この内のVR1AK, S21JAの他、VR3AM, VR8E, VR8JAがEXとしてプリントされている(写真7)。
写真7. 過去に運用された多くのコールサインが、EXとしてプリントされた、JA3KWJ小梶和夫氏の5Z4QTのQSLカード。
1986年 (エジプト SU1ER/JF1IST)
JF1IST藤原仁氏はエジプトでの経験をアンケートで寄せてくれた。「カイロに滞在中、SU1ER局からSU1ER/JF1ISTのコールサインを用い、3.8, 7, 14, 21 MHz,CW/SSBでゲストオペをしました。エジプト内での外国人による運用は現在でもゲストオペしか認めておりませんし、今までも、何々/SUと言う免許は発行していないそうです。現に私の滞在中、GWの局がポータブルSUと言う事でQRV中、SUの局たちにクレームをつけられて、その場でQRTさせられていました。この国ではまだまだ外国人の免許については問題がありそうです。(1987年4月記)」
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ