2015年1月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
世界コミュニケーション年
1983年は国連が決めた「World Communications Year - WCY世界コミュニケーション年」であった。アマチュア無線でもこれに関連した行事や活動があったと思われる。前年1982年の「国連の日」の4U37UNのQSLカード(写真1の左)にWCYのロゴマークを入れてPRしていたことは前々号(その20)でも記した通りだが、4U1ITUの1983年のQSLカードにもWCYのロゴマークが大きくデザインされていた(写真1の右)。「アマチュア無線の切手」を集めている筆者は、この年に世界中からマチュア無線に関連した切手が多数発行されるだろうと期待した。国連で制定したWCYのロゴマーク(写真2の左)は、この年に発行された各国のWCY記念切手の多くに見ることが出来たが、1月に国連で発行された4種の切手(ニューヨークの国連本部2種、ジュネーブ1種、ウィーン1種)にはそのロゴマークは使われておらず、抽象的なデザインで無線通信すら連想できないものであった(写真2の右)。日本ではWCYを記念して、9月に航空書簡が、10月に2種の切手が発行されたが、いずれも無線通信とは関係のないデザインでがっかりした(写真3)。少なくても123ケ国・地域から発行された350種に近いWCYを記念した切手の内、アマチュア無線に関係のある切手は、4月にサンマリノで発行された切手1種(写真4)と、12月にソロモン諸島で発行された切手1種(写真5)の僅か2種だけであった。一般には「コミュニケーション」というキーワードで、「アマチュア無線」を連想できる比率はこんなところであろう。
写真1. (左)WCYのPRのために、1982年の国連の日に運用した4U37UNのQSLカードと、
(右)WCYのロゴマークを大きくあしらった4U1ITUのQSLカード。
写真2. (左)WCYの公式ステッカーと、(右)国連本部1983年1月28日発行のWCY記念切手2種を貼った初日カバー。これらは国連職員であった故HB9RS, Dr. Max C. deHenselerからのプレゼントだが、カバーのカシエはスイスの画家Hans Erniの絵画を使っていて、このカバーには画家のサインが入っている。同日、同図案の切手がジュネーブとウィーンの国連機関でも1種ずつ発行された。
写真3. (左)WCYを記念して1983年9月26日に発行された日本の航空書簡。記念の航空書簡は1970年の大阪万博記念以来で13年ぶりであるが、その後1988年の文通週間を除いて発行されていない。(右)1983年10月17日発行のWCY記念切手2種を貼った初日カバー。
写真4. (左)サンマリノで1983年4月20日に発行されたWCY記念切手2種の内の1種。(右)同切手の初日カバー。
写真5. (左)ソロモン諸島で1983年12月19日に発行されたWCY記念切手4種の内の1種。(右) 同切手の初日カバー。
改めて「世界コミュニケーション年」制定の趣旨をみると、「経済や社会の進歩の大きな障害の1つは、不十分なコミュニケーション能力であることが近年明らかになってきた。不十分さはローカル、国家、地域、国際の、開発のすべてのエリアに言える」として「コミュニケーション」の重要性を再認識するためであったが、「コミュニケーション」を「通信」と訳し、通信と言えば電気通信、無線通信と飛躍して考えたのが悪かった。なるほど日本の航空書簡や切手には「世界コミュニケーション年」と書かれている。「コミュニケーション」は「通信」だけではないのだ。1983年の航空書簡が120円であり、記念切手が60円であることを改めて見ながら、国内の郵便が60円だった時代に航空書簡が2倍の120円だったのかと驚いた。現在は国内の郵便が82円で、航空書簡が90円と僅か10%の差である。
1983年 (カンボジア XU1SS, XU1KC, XU1YL)
JA1UT林義雄氏は当時の民主カンボジアにアマチュア無線局を設置した経緯を含めてアンケートでレポートしてくれた。「KPNLF(Khmer People's National Liberation Front)議長、民主カンボジア連合政府首相ソンサン氏からの依頼により、民主カンボジア内ソンサン派拠点アンピルの東京村(写真6)にアマチュア局を建設した。同時にオボック、ソクサン等にも局を建設する計画で幾つかの局が免許されたが、XU1SSの他にはXU1YLとXU1KCがQRVしたのみで終わった(写真7及び8)。後に政府閣僚のひとりチャボック氏が事務局長となり、クメ-ルラジオアマチュア連盟が結成され、外国人も申請による運用の道が開けた(写真9)が、その後のベトナム大攻勢により実現していない。XU1SSの50MHzのQRVは、この時が初運用であった。(1986年6月記)」
写真6. 民主カンボジアの東京村(1983年当時)。
写真7. (左)XU1SS林義雄氏達のQSLカード。
(右)同QSLカードの裏面。写真とともにこの局の説明が印刷されている。
写真8. (左) XU1SSの免許状。(右)XU1SSの管理運用者の指名リスト。 (クリックで拡大します)
写真9. 民主カンボジアで1984年に作られた、外国人によるアマチュア無線局の運用のルール。 (クリックで拡大します)
JA3UB三好二郎氏はJA1UT林義雄氏と行動を共にしたと思われる民主カンボジアでのアマチュア無線の技術指導とXU1SS, XU1KC, XU1YLの運用について写真やQSLカードと共に「1983年8月に指導を兼ねてクラブ局をゲスト運用した(写真10~13)。(1988年1月記)」とレポートしてくれた。
写真 10. (左)XU1KC三好二郎氏達のQSLカード。(右)XU1SS三好二郎氏達のQSLカード。
写真11. (左)XU1YL三好二郎氏達のQSLカード。(右)XU1SS局のロケーション。
写真12. 生徒たちにアマチュア無線の講義をする故JA3UB三好二郎氏。
写真13. XU1SS局で運用の実習をする生徒たち。
1983年 (中国 BY1PK, BY4AA, BY8AA)
JA1BK溝口皖司氏は中国からの運用についてアンケートを寄せてくれた。「1983年11月3日から5日まで北京でのBY1PKの運用(写真14)をはじめ、1984年3月までに中国各地から5回ほどQRVした(写真15)が、本格的な外国人運用の最初のCWとSSBの両方の運用をしている。両方のQRVとも、かなりのパイルがあった。(1986年4月記)」
写真14. 溝口皖司氏が運用したBY1PKのQSLカード。
写真15. (左)溝口皖司氏が運用したBY4AAのQSLカード。(右)溝口皖司氏が運用したBY8AAのQSLカード。
1983年 (パラオ KC6SZ)
JA6VZB森山聡之氏はパラオから、JH6SOR深堀雄蔵氏、JR6IQI近藤大輔氏と共に3人でクラブ局KC6SZの免許を得て運用した(写真16)と、アンケートを寄せてくれた。「160m及び30mの運用許可をKodep氏(現地免許担当官: KC6KR)よりサイパンのT. T. (Trust Teritory Gov.)に問い合わせて、運用許可書をもらい運用した。当時、法的に同一であったサイパンで160m及び30mが許可になっており、KC6での運用がルールブックで許可にならなかったのは、Kodep氏に言わせると、“ルールブックの書き換えをさぼっていやがった(日本語で)”ということであった。前回WARCバンドは免許になっていなかったという記事があったが、30mバンドに関しては正式の運用許可をもらっています(写真17)。1977年のJA1NRH、1979年のJA8DNZらによるオペに次ぐ3度目の日本人の運用だったが大いにもてた。 WPX SSBにもでてExpedition Plaqueをもらったが、水不足には大いに困った。Op: JA6VZB, JH6SOR, JR6IQI、Rig: TS-430 x 2, FL-2100B、Ant: DP, TA33Jr, CV48。(1994年3月記)」
写真16. (左)KC6SZ森山聡之氏達のQSLカードとその裏面。裏面にはQSO数の結果を含めた説明が印刷されている。(右)KC6SZ森山聡之氏他2名の免許状。
写真17. (右)KC6SZ森山聡之氏他2名への免許通知書。(右)KC6SZに許可された周波数一覧表。 (クリックで拡大します)
1983年 (フィジー 3D2TI)
JA1FBD池田尚氏はフィジー共和国での免許と運用につてアンケートを寄せてくれた。「日本とは相互運用協定がないために、JAの免許は役に立たない。有効なKE6DHの免許のコピーも同時に提出したので、そちらの方が認められた(写真18及び19)。現地のハム2名のRECOMENDATIONが必要で、3D2ER, Singhにハンドリングしてもらった。仕事の都合にて、毎月10日ほど滞在した。ホテルに機械を保管し、その都度ベランダにアンテナを設置し運用した。リグの持込みに対しては、ライセンスを提示するも32%の税金をとられた。(1987年5月記)」
写真18 (左)3D2TI池田尚氏のQSLカード。3D2TIに許可された電力、周波数、電波形式の一覧表。
写真19. 3D2TI池田尚氏の免許状。 (クリックで拡大します)
1983年 (ツバル T2ADX)
JR3KEG山内雪路氏はツバルでの免許と運用につてアンケートを寄せてくれた。QSLカードを拝見すると複数人で出かけ、複数のコールサインで運用したものと思われる(写真20)。「免許はツバルのFunafuti島にあるPOST & TELECOM Divisionに従免の英訳証明、パスポートの写し、申請料(オーストラリアドルA$6.00)を送りました。現地で紙免許を貰うこともできますが、あらかじめJAに郵送もしてくれます(写真21)。コールサインはサフィックス3文字が自由に選べます。パワーは1kWまでで、JAの従免の資格に関係なく許可されます。Viaku Langi Hotelは電源事情が大変よく、湯水シャワー用のヒーターを止めれば、リニア2台を同時に使ってもOK。ホテルのバーにあるラジオにBCIが入るとウルサイので気をつけて。Tuvaluへのアクセスは3D2からFiji Airを使うのが一般的ですが、この飛行機は国民の生活物資もたくさん運んでいるので、あまりたくさんの荷物を持って行くと乗せてもらえない時があります。(1987年5月記)」
写真20. (左)T2ADX山内雪路氏達のQSLカードと、(右)CQ WW DXコンテストに参加したとみられるT2YKCのQSLカード。これらのカードには大阪大学ラジオクラブJA3YKCパシフィックDXペディション1983と書かれている。
写真21. T2ADX山内雪路氏の免許状。 (クリックで拡大します)
1983年 (ケニア 5Z4JA, 5Z4NN)
JA8CDT加藤喜一氏はケニアでの5Z4JAの運用経験をアンケートで寄せてくれた。「5Z4CS局がケニアに2年間いたので遊びに行きました。その時5Z4CQ(アメリカ人)の家にて運用。5Z4NN(JI1VLV)と共に運用しました。5Z4CSに頼んで免許を貰った。約1,000局とQSO。ローカルは皆良い人で、特に5Z4MXはなぜ日本で外国人に免許をくれないのか? と言っていました。非常に良い所で、又行きたいですね(写真22の左)。(1985年6月記)」
写真22. (左)5Z1JA加藤喜一氏のQSLカード。(右)5Z1NN伊原ナナ子氏のQSLカード。
JI1VLV伊原ナナ子氏はケニアでの5Z4NNの運用体験を手紙とアンケートで寄せてくれた。「5Z4NNの免許については、友人(5Z4CS)に全ての事務をやってもらいました。ケニアでは沢山のハムを訪問しました。又、RSK(ケニアの連盟)のミーティングにも参加しました。日本人も年間、沢山ケニア旅行に行っているようですね、最近。値段的にも飛行機が22万円くらいなので、現地の宿も知人宅やYH等と頭を使えば、かなり安上がりになると思います。一度は訪れてみたい所です(写真22の右)。(1986年8月記)
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ