2013年10月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
SEANETコンベンション2013 in 横浜がいよいよ開催
1971年は、マレーシアのペナンで初めてのSEANETコンベンションが開催された年であることは、既に7月号(その4)で紹介した通りであるが、今月(10月)5日から3日間、横浜のナビオス・ホテルを中心に、第41回SEANETコンベンションが開催される。都合で開催されなかった年が2回あり、今年が41回目である。海外から参加されるアマチュア無線家とその家族たちが、よい日本の印象を持って帰ってくれることを願っている。
1971年 (カナダ VE3BKI)
カナダに移住したJA1JTN松井昇一氏が、カナダからレポートを寄せてくれた。「カナダに移住したのが1967年の5月で、生活の落ち着いた1970年より免許を取りたく、昔習ったトンツ-を始めて1971年7月に合格し(写真1)、当地での初交信をしたのが1971年9月21日夜でした。最初の2~3年良くやりましたが、仕事の関係上多忙にて、今は2mだけやっております。これからはDXを試すつもりで、その準備をすすめております。(1986年記 )」。彼の合格証(写真1)の日付は1973年6月31日となっているので、レポートにある1971年は1973年の思い違いか、この合格証は上級で他に1971年の合格証があるのかも知れない。
写真1. VE3BKI松井昇一氏の合格証(1973)
1971年 (ドイツ JA3DWT/DL)
CQ誌1988年6月号の記事を見たと、JA3DWT沢井奉典氏が、レポートを送ってくれた。「私、1971年7月1日から9月30日までハイデルベルグにてJA3DWT/DLを運用しました。ポ-タブルDL (/DL)では1st JAと思っています。相互運用協定の夜明け前にてDLよりライセンスを頂きました(写真2)。(1988年6月記)」。このことはCQ誌1972年2月号に掲載されているが、この頃から相互運用協定が話題になり出したと思う。
写真2. JA3DWT/DL沢井奉典氏の免許状(1971)
1971年 (国際電気通信連合 4U1ITU)
上記JA3DWT沢井奉典氏が、同時期に4U1ITUの運用経験をレポートしてくれた。「ハイデルベルグ大学の夏季講座の休日に、1人でスイスとフランス(モンブラン、シャモニー)へ旅行の時、ジュネーブで4U1ITUを訪問した。受付は英語が通じなかった。フランス語であった。受付のガードマンの連絡で、日本の郵政省から派遣された堀江氏の案内でITU局へ行った。イタリア人のハムが4U1ITU局を管理しており、彼の運用許可にて3日間運用した(写真3)。堀江氏によると、JAのハムでこんなに多数局とQSOしたのは例がないとのことであった。QSLカードはJAに帰国後総て発行した。JAは273局、合計25カントリーで367局であった。(1988年7月記)」
写真3. (左)4U1ITUを運用するJA3DWT沢井奉典氏と、(右)4U1ITUのQSLカード(1971)
1971年 (カンボジア XU1AA)
日本のDXerとして知られたJA1BK溝口皖司氏から、カンボジアからQRVしたと、次のように簡単なレポートが寄せられた。「Technical University Students Association Radio Clubから1971年度のCQ WWコンテストに出た(写真4)。(1986年4月記)」 溝口氏の海外での活躍は有名であり説明の必要はないと思うが、筆者が初めて溝口氏にお目にかかったのは、1967年頃の香港であった。当時JARLの理事を務めておられ、会長のJA1FG梶井謙一氏と共に国際会議に出席した帰途だと、筆者が駐在していた早川電機の香港事務所に訪ねて来られた。
写真4. (左) XU1AAのQSLカードと、(右)XU1AAを運用したJA1BK溝口皖司氏(2012)
1971年 (ラオス XW8DQ)
JA1HIN/JG1ILX亀井弘充氏は、青年海外協力隊員としてラオスに派遣された当時の事をレポートしてくれた。「ラオス国の郵政省にあたるT.P.P.に日本のライセンスを付け申請、許可までに3ヶ月以上要したと思います。私は日本青年海外協力隊の一メンバーとしてラオス国営放送局の一つであるVientiane放送局に2ヶ年派遣された時On Airしました。日本人で当時、私の他に2名の方がライセンスを取りOn Airしていました。はじめ私の局は放送局内にあり、現地人スタッフにアマチュア無線の紹介という形を取りましたが、スタジオアイ(混信)が出た為、自宅に移動してやっておりました。日本の局とは500局ぐらいQSOしたでしょう(写真5)。(1987年5月記)」
写真5. XW8DQのQSLカード
1971年 (タイ HS1AEY, HS1AFY)
教育者としてタイに滞在され、1971年からタイでQRVされたJA1BAR西野文雄氏、JH1GMZ西野章代氏ご夫妻から、当時のタイの様子をレポート頂いた。「50局に限られて、特別に許可され運用したが、使用言語は英語とタイ語に制限された。JA局とは日本語で受け、英語で応答するという運用方法であった。毎月一度のRASTのミーティングに出席し、オン・エアすると日本からのパイルアップに会い、遠くからWなども聞こえてくるという状況でした(写真6)。1972年1月から半年間、RASTの会報のエディターでした(写真7)。(1987年5月記)」同時に頂いた当時の会報や会則は、当時のタイのアマチュア無線の事情を物語っている(写真8)。
写真6. HS1AEYのアンテナとQSLカード
写真7. RASTの会報(1972年2月発行) (クリックで拡大します)
写真8. 1972年頃のRASTの会則 (クリックで拡大します)
西野文雄氏は、その後もタイで活躍されたと、西野章代氏から次のような手紙を頂いた。「JA1BARの方は、1984.4から1986.8まで、Asian Institute of Technologyの副学長として勤務いたしました。この時は多忙でハムの方はやりませんでしたが、日本のユニセフのペディションが1984年に初めて行われた時、AITでするようにタイ政府から要請があり、お世話申し上げたのがきっかけで、その後RASTのメンバーがon the airする時はここで行われているようです(その都度許可がいるようですが)。私たちもこれを機会にまたRASTのライフメンバーにして下さり、会報も送られてくるようになりました。(1987年5月記)」
タイのアマチュア無線の歴史
現在タイの団体はRAST(Radio Amateur Society of Thailand)であるが、筆者がタイに駐在していた頃(1967–1969)はSTAR (Society of Thai Amateur Radio)であった。前項の西野ご夫妻のQSLカードもSTARになっている。1972年の会報(写真7)を見るとRASTに変わっていて、記事にその旨の事が書かれているので、この時期に名称の変更が行われたものと思われる。QSLビュローでもある「P.O.Box.2008, Bangkok」は変わっていない。外国人にも配慮した規則(Regulation)が制定され(写真8)、タイでの1970年代は変化の激しい時代であったようだ。比較の為、筆者がメンバーだった1960年後半のSTARの会報の一部を示す(写真9~11)が、この時期のメンバーは、ほとんど外国人であった。今後、回を重ねると多くの方々のレポートからその後の変遷も見えてくると思う。
写真9. STARの会報の一部(1968年4月発行) (クリックで拡大します)
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ