2013年9月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その6 大阪万博の年 1970年
万国博覧会が大阪で開幕
この年のCQ誌1月号には既に「21世紀のアマチュア無線界」として特集が組まれている。まだ21世紀まで30年あるものの、大阪万博が日本人の意識を世界に広げ、新しい世紀を意識させた。大阪の千里丘で開かれた大阪万博(日本万国博覧会)では、サンフランシスコ市館に記念局JA3XPOが設置され運用されたことは読者の知るところであるが、設置の苦労話などエピソードが「週刊BEACON」の「アマチュア無線人生いろいろ」にある「関西のハム達。島さんとその歴史。」(JA3AA島伊三治)http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/ham_life/shima/index.html に詳しく掲載されている。
筆者はこの年のCQ誌の1月号から5月号まで、各号に4ページずつ延べ20ページに「東南アジアのハムを訪ねて!」と題した記事を投稿し、1967年から1969年までの2年間の東南アジアでのアマチュア無線活動の報告とした(写真1及び2)。
写真1. CQ誌1970年1月号に掲載された、筆者の「東南アジアのハムを訪ねて! No.1」の記事。
写真2. CQ誌1970年4月号に掲載された、筆者の「東南アジアのハムを訪ねて! No.4」の記事。
1970年 (西マレーシア 9M2ON他)
JA1CMD宮盛和氏が1970年に、西マレーシアの9M2ONからゲストオペをした(写真3)とアンケートを頂いた。宮盛氏からは、当時ゲストオペが許可されていたか否か不明なため、迷惑をかける恐れがあるのでコールサインは出さないよう要求されていたが、筆者も同時期にゲストオペをしており、既に40年以上前のことでもあって、問題ないものと判断し掲載させて頂くことにした。それにしても、筆者が滞在した1967-1969年の直後から、政情が信じがたく急変したものである。
写真3. (左) JA1CMD宮盛和氏がゲストオペした9M2ONのQSLカード。 (右)ホームシャックでの宮盛和氏(1994)。
「マレーシアのKLに勤務当時(1969-71年)は、シンガポール独立(1965年8月)、人種暴動(1969年5月)、共産ゲリラ問題など物情騒然たる時代であり、普通のラジオも保有許可証が必要なくらいでした。短波のリグは免許のコピーがないと搬入は許可されず。それも関税が200%くらいかかったような記憶があります。免許は当時のテレコムのテストに合格し、地元の方の身元保証人2名を要したと思います。身元保証人に万一余計なトラブルでもあってはと考え、結局ライセンスは取得しませんでしたが、近くにおられたアマチュア局9M2ON (Mr. Ong Yen Leong) にて、たびたびゲストオペとして運用させていただきました。その他ペナンの9M2FK、KLの9M2AV局も運用させて頂きました。(1987年4月記)」
1970年 (オーストリア OE1XKW/JA0NK)
1970年に、オーストリアで運用したJA0NK井口幸一氏(写真4左)は、次のようにアンケートを寄せてくれた。「毎年6月にドイツのフリ-ドリッヒスハ-フェンにて"Ham Radio"と言うハムフェスティバルが行なわれておりますが、以前は"ボ-デンゼ-・テレフェン"(ボ-デンゼ-・ミ-ティング)と呼ばれており、現在の会場ではなく、コンスタンツと言う場所で行なわれておりました。この地域はドイツ、スイス、オ-ストリアの国境地帯であり、欧州ではこの時期から夏のバケ-ションに入り、バケ-ションにそれらの国でアマチュア局を運用したい者のために3か国の郵政省が机を並べ、臨時免許の発給をしておりました。
写真4. (左) OE1XKW/JA0NKを運用した井口幸一氏(1992)。 (右)OE1XKW/JA0NKの運用許可証。
丁度オ-ストリアにて夏休みを過ごそうと計画しておりましたので、その場で申請をしました。フェスティバルの会場と言う事で、前もって書類を準備してくる心掛けは誰もしていないだろうと先を読んでか、QSLカ-ドの提示しか要求されませんでした。許可の内容は、クラブ局OE1XKWのゲストオペと言うかたちのため、その許可の権限はオ-ストリアのアマチュア無線連盟の会長にあり、郵政省のガイドラインに添って発給していたようです。日本は許可して良いリストには記載されておりませんでしたが、"許可証を発行してはならない"とは何処にも書いていない、云々の好意的な屁理屈をいいながらOKをだしてくれました。但し、住所確認と言う事で、正式許可証は郵送されてきました(写真4右)。このように手軽に運用の許可の得られるDL、HB、OEのハムを羨ましく思ったものです。このようなシステムが発展して現在のCEPT制度になったものと考えます。
運用はHF帯のモ-ビルと言う事で、40m, SSBを中心とした数十局のロ-カルQSOにとどまりました。尚、当時ON8YA、DJ0CTのコ-ルがありましたが、どうせやるならJA0NKの方が面白いだろう、と言うOEハム連会長の勧めでそのように致しました。(1992年記)」 法が至らないところは運用でカバーするという考えで、法を犯さない範囲で臨機応変に、国際友好を優先して判断する能力は、この頃から日本人に比べて西洋人の方が優れていたと感じている。
1970年 (マダガスカル 5R8AB)
1970年にJA3DYU故太宰正昭氏は、アフリカのマダガスカルで運用した経験を、手紙で寄せてくれた。「昭和44年だったと思いますが、大阪でJA3のDX Meetingがあり、貴兄よりSingapore、Malaysiaでの開局について詳しいお話をお伺い致しました。これが非常に参考になり、日本人のほとんど居ない異郷で楽しく過ごせたのは貴兄のお蔭であると今でも感謝して居ります。昭和44年に5Z4、5H3、5R8へ行き、5R8の滞在が割合長期だったので、貴兄の話を思い出し、PTTより申請書を貰って帰国しました。翌45年、再び5R8へ行き、長期滞在と決まっていたので、書類を用意し申請したら約3ケ月で開局することが出来ました。
この申請の手順として;
イ、JAの局免、従免の写し、これを仏文または英文に訳す。
ロ、イを大使館で証明してもらう。
ハ、申請書(2通)に仏文または英文で記入し署名する。
ニ、前記書類をPTTのDivision Radioelectriqueに提出。
ホ、申請の際6ケ月以上有効なVisaと保証人(Ham)が必要。
へ、申請後、厳しい身辺調査があります。また何の意味か分かりませんでしたが、入国管理事務所へ出頭しました。
ト、約1ケ月後に許可するとの手紙が来る(写真5左)。
チ、リグの輸入(5R8は外貨事情が悪かったので、外貨割当の申請をする)。
リ、QRV OKならばPTTに連絡すると、検査の日時を指定される。
ヌ、検査は保証人(ローカル局)立会いのもとで、リグを確認するのみ。この時コールサインと税金額を知らせてくれます。この時から運用可能です。
ル、その日の午後PTTへ行き、税金6,000FMG(約8,000円)を窓口で支払い、領収書持ってDivision Radioelectriqueへ行く。そこで法規集(仏文)を貰い、「特定の相手方に対して行われる無線通信を・・・」という例の文句を守るという意味の仏文の文書2通に署名する。この署名を確認して、手書きで記入した免許状(写真5右)を手渡してくれます。
ヲ、再免許は3,500FMG(約4,500円)とのことでした(再入国した時)。
ワ、局免に有効期限が無いのが不思議ですが、帰国の際知らせてくれと言われました。私が帰国したら無効になるとの事です。現地の人達には日本の従免と同じで死ぬまで有効との事です。
写真5. (左) 太宰正昭氏宛ての許可を伝える手紙。 (右) 5R8AB太宰正昭氏の免許状。
リグは当時トリオに在籍されていたJA1AMH高田さん、JA3BVW衣川さんのご尽力で、無償提供して頂きついでにQSLカードも、トリオの宣伝に一役買うという事です(写真6及び7)。5R8の税関で申請価格100USDは安すぎる、1,000USDはすると言われ差止めを喰らい、色々手を使って2,500FMGの税金を払い、帰国の際は必ず国外に持ち出す事を宣誓して通関できました。
写真6. 5R8ABのQSLカード、表と裏。
写真7. (左) 5R8ABのQSLカード。 (右) 関ハムのDXミーティングにて在りし日の太宰正昭氏(2001)。
5R8でのCWは私1人でしたので、世界中からパイルアップを受け、特にZone 8付近にはもてました。ロングパスではW/Kの手前ですのでQSOは最も楽です。JA向けのCWは和文でやるもので、あまり好まれませんでした。著名なDXer(らしい人)に「ホンヒ ハンシンノケッカイカガデシタカ」とやったら「UR 599 PSE QSL VIA BURO 73 BK」とやられたのには全くがっかりしました。私には599より阪神の勝負の方が大事ですから。このようなDXは面白くありませんので、帰国後はDXはやめました。また、帰国後当時のローカル7Q7AA、FR7ZL、5Z4MDとラグチューしたら、DXとラグチューはケシカランと多くの方々から怒鳴られました。この事を7Q7AA、5Z4MDに伝えると、もうJAとはお断りだと言っていました。これで私もQRTです。(1987年記)」
太宰正昭氏はその後も、1999年にベトナム(3W6JD)から、そして2002年には台湾(BX2/JA3DYU)でQRVし、和文のCWで運用するなどアクティブであった。また、大阪での「関ハム」や東京での「ハムフェアー」にも積極的に参加しておられたが、今年(2013年)の「関ハム」で顔を見ないと思っていたら、JP3AZA河田至弘氏から太宰氏が亡くなられたと伺った。ご冥福をお祈りします。
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ