2013年12月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その9 変動為替相場制に移行 1973年
変動為替相場制
この年、日本の為替は変動為替相場制に移行し、1ドル308円の固定相場が年末には280円程度になった。円高は日本の輸出企業には不利ではあるが、アマチュア無線家がDXペディションなどで海外に出かけるには有利になる。また、第4次中東戦争の影響で、石油価格が高騰する石油ショックで日本経済は打撃を受けた年でもあった。今回紹介する方々のレポートから、この当時はゲストオペとして簡単に運用を許可される国がある一方、免許を得るには永住許可や移住が必要な国もあったことがうかがえる。
1973年 (ドイツ DK0IFA)
ドイツでのゲストオペについて、JA1BNW 廣島孝之氏(写真1の右)がレポートを寄せてくれた。「ベルリンエレクトロニクスショーの会場に設置してあったDARC Berlinのブースで、日本の免許証を提示、そこに置いてあるノートにJAのコール、氏名を記入するだけで、その場で運用させてくれた。世界で有名なコンテストマンのSP9PTと共に運用したこともあり、ドイツの機関誌CQ DL誌の1973年10月号に掲載された(写真1の左)。交信局数はJAとの30局程度、その他ヨーロッパ100局程度でした。東西のハムが同時に運用したことで、ドイツで話題になりました。(1985年4月記)」
写真1. (左)CQ DL誌の1973年10月号に掲載されたDK0IFAを運用する廣島孝之氏の記事、(右)JA1BNW廣島孝之氏(1983年)。
1973年 (グアム KG6JFQ)
米国在住のex. JR6CA 湖城哲夫氏は米国の好意による免許を得たとレポートを寄せてくれた。「私は少年の頃からハムが好きで、沖縄で初めてハムのライセンスを取りました。当時は日本政府に変わる琉球政府なるものがありましたが、1965年に米国政府の好意による米国のコ-ルKR8CAをもらいました。日本市民でありながらそのライセンスで1971年まで運用し、その後Guam, U.S.A.でKG6JFQを米国より許可を得て1977年まで運用しました。その間日本政府よりJR6CAの許可の件を知りましたが、残念ながらそのコ-ルで一回も交信のチャンスを得ませんでした。1977年からはカリフォルニアでKE6CUのコ-ルの許可を得て運用しています。現在も私は日本市民ですが、外国人に対する差別もなくここの市民同様にアマチュア無線の恩恵を外国の米国で受けています。今日では日本市民は各国に進出して活躍していますので、先進国の日本政府も日本に来ている外国人に対するアマチュア無線に関する許可を全世界の先進国として考慮する、はっきりした態度を示す機を逃してはいけません。(1985年5月記)」
1973年 (ブラジル PY2GNS)
JA0BW 飯島哲夫氏はブラジルに移民しての経験を寄せてくれた。「1954年の5月、横浜港出発の移民船アフリカ丸で、2,500人の移民の中の一人として私 JA0BW と JA0BX 酒井君がこの地に来ました。ブラジルでは酒井君が電気関係の仕事、私は農業に就いてそれぞれ落ち着きました。10年後約10ヘクタールの土地を買うことが出来、生活が落ち着き、結婚、子供の誕生があり、次に落ち着くところがアマチュアラジオとなり、近くに友達も出来、その中でポルトガル系のマノエル君とアントニオ君と知り合い、時々私がハムの話をしてやっていました。この2人と私の3人がいよいよハムの試験を受けてみようとの事になりましたが、私は移民であるが外国人であるので、先ずこちらに帰化手続きのための帰化の試験がありこれに合格し、これで1972年3月この町(アチバイア市)から60キロ先のサンパウロ市に行きました。この前3ヶ月間は私の帰化のために3人でモールスの練習をしました。試験ではマノエル君、アントニオ君は見事にパスとなり、私は電波法規だけパスせずとなりました。3ヶ月後、次の試験の日になり、2人はA級に、私は始めのB級にパスとなり、めでたしとなりました。
私としてはこのB級でがまんするかと思っていましたが、同じ町に住むカルロスという弁護士(Dr.)が私の家を訪ねて来て市民バンドを1年やったが私でもハムの試験をパスするだろうか?との事でしたので、2人でまたサンパウロに出かけようとなり、この弁護士が申込用紙全部、私の分までそろえてくれての出発でした。この時はもうB級で1年間の運用がありA級試験は自信がありました。(忘れましたが先のマノエル君はPY2ATTとなり、アントニオ君はPY2FJHとなりました。共にA級) 試験はABC級全体で200人ぐらい、試験官は10名ぐらいでした。始め何か質問があるかとの事ですので、私は辞典を使用しても良いですかと聞いてみました。すると4, 5名で話し合っていましたが、答えはノンでした。この時カルロス君はB級に私はA級になり、私はこれで試験は全て終わりとなりました(写真2)。
写真2. PY2GNS飯島哲夫氏の免許状。
運用中のトピックスはB級の運用開始は1973年10月10日のQSOとなっています。私が生まれた郡の局とQSOした時、特に世界中の局が聞こえず、この上田市の3局だけが21MHzにてこの南米まで強力に聞こえた時の嬉しさ、毎年1年に1回のチャンスがあるようです。次にハムの試験の時、後ろにいたブラジル人(これは私を二世と見間違えたと思う)とQSOで合い、あの時のメガネだ思い出すか、と先方から語って来た時。第1回移民船の船長は私のおじいさんだったと言われた時。これは北米ではメイフラワーと言われますが、ブラジル日系移民船は笠戸丸と言われています。この人はJA3PFZ河合様と言う方で、いろいろとこの笠戸丸の件の古い書類を送って貰いました。以上ですがまだいろいろあります。次に交信局数ですが2,400局、この数はブラジルに来てからで、日本では360局とQSO しています。こちらでの2,400局の内、日本とのQSOは1,850局となっています。1982年の1月から現在まで、3つの郡のビューローのプレシデンテをしています(アチバイア市、ピラカイア市、ペルドンエス市)。QSLカードの取り扱いといろいろのQTCが主な仕事です。カルロス弁護士(PY2CAR)はサンパウロ市本部のジレトルに今年の選挙できまりました。(1985年4月記)」
1973年 (フィリピン DU50BSP)
ボーイスカウト活動にもアクティブなJA4HCK 馬場秀雄氏(写真3の左)は、ジャンボリーでの経験を寄せてくれた。「フィリピンボーイスカウト50周年記念ジャンボリーに参加、PARAが監督するジャンボリー実行委員会特設局をゲストオペさせて頂きました(写真4)が、私にとって初の外国での運用でした。日本語禁止、ものすごいJAのパイルでした。後で確認したら、日本人のほとんどがQSLカードを受け取っていない。日本のスカウトHQ局のJA1YSSもカードを受け取っていなかった。幻のQSLカードです(写真3の右)。(1987年6月記)」
写真3. (左)関ハムにて筆者と一緒のJA4HCK馬場秀雄氏(2007年)、(右)DU50BSPのQSLカード。
写真4. JA4HCK馬場秀雄氏が運用したDU50BSPの運用証明書。
1973年 (ナイジェリア 5N2AAJ)
先に4U1ITUの運用などで紹介したJA1DCY神山堅志郎氏は、アフリカのナイジェリアでQRVしたと、アンケートを寄せてくれた。「1973年にナイジェリアで通信プロジェクトが始まり、ナイジェリア通信省の仕事で滞在中、事前にContactをとっておいた5N2AAJ, Adebayo Joe Browne氏とアイボールし、オンエアーさせてくれたもの(写真5)。1973年から1974年にかけて、ナイジェリアには4回ほど出かけている。後日JAとのScheduleを設定し、Browne氏とJAがQSOできた。開発途上国で、現地人ハムは彼しかおらず、他はほとんど全部イギリス人だった。現在は数多くハムがいて珍しくなくなった。(1985年記 - 2013年11月修正)」
写真5. (左) 5N2AAJ, Adebayo Joe Browne氏のシャック、(右)5N2AAJ, Adebayo Joe Browne氏とJA1DCY神山堅志郎氏。
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ