2016年7月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その40 CEPTその後 1987年 (2)
CEPTその後
2015年2月号の当コラムでCEPTについて触れたが、JARLの国際問題検討委員会の下に組織された「CEPT相互運用に関する分科会」の一員であるJQ2GYU櫻井豊氏から、現在日本の2アマも含めて、短期滞在者を対象とするCEPT T/R 61-01への日本の加盟について、課題とその対応を検討中であり、包括免許制度のない日本でも、90日以内に限ってCEPT加盟国の免許人には一定の条件の下で運用を許す方法の検討を進めている旨の連絡を頂いた。詳細については櫻井氏が別途FBニュースに寄稿される予定で、これが成功すれば日本人が短期の海外旅行でも容易に運用できるだけでなく、加盟国から訪れるアマチュア無線家達に日本で運用して貰えることになるので喜ばしいことである。また、この制度が包括免許への一歩になってくれることを願いつつ、分科会の健闘にエールを送りたい。
1987年 (ソロモン諸島 N6LYB/H44)
JH1ORL酒井章宏氏は、ソロモン諸島でN6LYB/H44の短期免許を得て運用した経験をレポートしてくれた。「ナウルにてC21NIを運用した帰りにソロモン諸島に寄り運用した。当時H44JA汐月氏がおられたおかげで短期滞在の免許が得られた。JAの免許はNGで(短期滞在の場合)、USAの免許ならばOKとの事であった。運悪く持参した無線機が全て故障してしまい、H44AFの好意にあまえて彼のシャックより7~21MHzを運用し、約100局とQSOを行った。また、ソロモンにて青年海外協力隊隊長の中村氏には多大な協力を得て感謝の念で一杯である。(1990年5月記)」
1987年 (ニューカレドニア FK/JR3KEG)
JR3KEG山内雪路氏はCQ ham radio編集部を通じて、FK/JR3KEGの免許を得て運用した時の様子を、詳細にレポートしてくれた。「ニューカレドニアは日本から直行便が飛んでいるため、私達にとっては大変なじみの深いリゾート地です。事実、今回私達が渡航した際も飛行機に同乗した日本人は95%以上が新婚旅行のカップルでした。ところが、フランス語圏に属するためか、ここからQRVした日本人ハムはまだ極めて少ないのが実状です。今回、ニューカレドニアからオンエアする機会を得ましたので、ライセンスの取得法、通関、運用方法などについてご紹介したいと思います。FK(ニューカレドニア)はフランスの海外県になりますが、大幅な自治権が認められており、アマチュア局のライセンスもFKにて発行されます。日本人が運用する場合、日本の上級資格(1, 2アマ)および局免許があれば問題なくテンポラリーライセンスを発給してもらえます。申請方法は所定の申請用紙に運用期間、運用場所などを記載して、日本の免許の英文証明(仏文証明の方がベターでしょう)を添えて現地のテレコムに申請します。ただし現地に到着してからではダメで、遅くとも渡航の2カ月程度前に提出しておく必要があります。私達の場合約40日前に提出しましたが、テレコムに免許を受け取りに行ったときはまだ出来上がっておらず、超特急で作成してくれました(写真1)。申請料は無料です。所定の申請フォームはJARLにありますが、私達がテレコムから入手したものはJARLにあるものと少し違っていますから、できれば直接テレコムからとりよせたほうが良いでしょう。さて、私達のように大量の無線機材をFKに持ち込む場合、空港での通関は大変困難となります。普通の観光客然とした格好の場合は殆どフリーパスで税関を通過できますが、怪しげな段ボール箱や長尺物(アンテナ)を持っている場合、間違いなく引っかかってしまいます。もちろんこれらの機材は関税を支払えばすぐに持ち込めますが、推定税率は100%を越え、おいそれと支払うわけには行きません。そのため、今回私達は現地のハム、FK0AW, Jim氏の協力を得、彼の保証のもとに全ての機材を間違いなく日本に持ち帰るという誓約書を作成し、無事通関することができました。聞くところによれば、FKのハムにとっても多量の機材を持ったビジターを迎えたことが今までになく、勝手が分からなかったようです。幸い私達が通関しようとしたとき、たまたま空港職員のFK8FX(?)がいて、彼が税関と交渉してくれたようです。今後FKからのQRVを計画される場合、通関をスムーズにするため、予め持ち込む機材のリスト(シリアルナンバーを含む)を作成し、現地のハムに送って手続きを依頼しておくと良いでしょう。ただしFKのアマチュア無線連盟の会員に限るようです。次にFKから電波を出すとき、どこから運用するかが大きな問題となります。現地の知り合いを訪ねてオンエアさせてもらう場合は別として、普通はホテルの一室からQRVすることになります。ところがFKの首都ヌーメア近郊のホテルはほとんどが人口密集地に建てられていて、HF帯のアンテナを建てるには全く適していません。ちょうど日本の温泉街を想像すればどの様なロケーションかお分かりになるでしょう。また、たとえアンテナが上げられたとしても都市雑音が非常に多く、DXには余り向いていないとの事でした(現地ハムの情報)。そこで、私達は前出のJim氏の紹介を受けて、ヌーメアから約80km離れたBoulouparisという所にあるホテルからQRVしました。ここは現地人向けのリゾートホテルでプールは勿論の事、18ホールのゴルフコース、ボート、乗馬、テニスなど一通りのことはできます。周囲は見渡す限り民家などなく、またホテルの電源事情もしっかりしていることからオンエアには理恵的なところです。唯一の欠点は車がなければどこへも行けない事ですが、トントウ一夕国際空港まで(約20km)は宿の主人Dino氏が送り迎えしてくれます。最後にFKへ行く人にアドバイス。たとえどんなに少しでもフランス語を覚えて行きましょう。身振り手振りで意志はかなり的確に通じますが、外人向けのホテルやみやげ物屋を除いて英語はまるで通じないと覚悟しておく必要があります。(1987年12月記)」
写真1. (左と中央)ニューカレドニアの免許申請書。(右) FK/JR3KEG山内雪路氏の免許状。 (クリックで拡大します)
1987年 (オーストラリア VK2EVP, VK2FFI, VK2FFU, VK2FHY, VK3FHY)
JA1WSA/JJ3PRT青木洋二氏は、オーストラリアで免許を得た時の様子をレポートしてくれた。「日本とオ-ストラリアの間には当時相互運用協定はなかったが、日本人で1級を持っている人には、オ-ストラリアのUnrestrictedという最高クラスの免許をくれるということだったので、シドニ-の電波管理局に申請に行くと、その場でVK2EVPのコ-ルサインをくれた(写真2)。(1991年11月記)」
写真2. (左) VK2EVP青木洋二氏の最初の免許状と、(右)更新後の免許状。 (クリックで拡大します)
JP1DMX宗本久弥氏は、オースリラリアでVK2FFIの免許を得て運用した状況をアンケートで知らせてくれた。「免許の取り方: 幸運にもオーストラリアへ旅行に行く直前に相互運用協定が発効したので早速利用した。パスポートと日本の従免及び局免をDOCのオフィス(シドニーのNSW State Manager)へ持参したところ10分位でその場で免許がもらえた(写真3)。費用はA$26(約2600円)。日本の免許の英文証明は不要の様で、従免の”第2級アマチュア...”と記されているところを指差して”The 2nd Class”と説明してすんだ。あちこちを旅行するため、住所をどうしたらよいのか心配であったが、1泊でもいいからどこか泊まるところを書いておけとのことだった。日本の局免が必要か否かは確かめなかったが、これは日本でのコールサインか、と聞かれてメモしていた。その他、申請書の書き方のわからないところなどすべてむこうの人が書いてくれた。日本のお役所仕事とはえらい違いである。時間にしろお金にしろ日本はかかりすぎである。電監に問い合わせたところ、免許の英文証明を発行するだけで3週間もかかるといわれた。運用状況: 日本から持参したミズホのピコ28と専用ホイップアンテナで見晴しのよいところから運用した。普段は全然相手がいなくてダメだったが、3月下旬のWPXコンテスト(SSB)ではコンディションも良く、多くの局が入感した。アンテナが貧弱で、パワーも出力2Wだったため、かなり苦労したがJAとも10数局QSOできた。(1989年6月記)」
写真3. (左)VK2FFI宗本久弥氏の免許状。(右)DOCの各州/地域事務所一覧表。 (クリックで拡大します)
JH3OII中村千代賢氏は、オーストラリアでVK2FFUの免許を得てのミニ・ペディションの経験をレポートしてくれた(写真4)。「出張していると不意にアポイントの変更などがあるもので、その時もそんな訳で平日だというのに一日スケジュールが空いた日でした。North Sydneyにある通信省までタクシーで10分、飛び入り申請を試みました。パスポートの他に日本の免許の原本(つまりコピーは不可)の他に英文翻訳証明を要求された。翻訳証明は”オーストラリア人が日本で免許申請するとき日本語の証明が要るのですか”などと屁理屈をつけて結局無しで済み、あとは申請料(A$25位だったと思う)をその場で払い待つこと約10分。実に簡単でJAでもこのくらいにならないかと思います。VKコールをくれるのですが(VKコールしかくれない!)、2mなどの場合はVKコールではどこからの旅行者かのアイデンティティがわからず。更に”F”で始まるサフィックスは外国人である事もあまり知られてないため、QSOの初めには長いいきさつの説明が必ず要りますHi。21MHzでは1W QRP機に付属のミニホイップとモービル用のマグネット基台を持参、ホテル屋上のプールサイドでCWの運用をして、JA約10局と交信できました。次回はフルサイズの導線ダイポールでも持っていこうかと考えています。尚、本当はエレキーがほしかったのですが、リグ本体より大きいエレキーを持っていくスペースが無く、超小型標準電鍵でがんばりました。今回のミニペディションキットは次の通り。1. ミズホMX-15S(クリスタル計5コと新品電池付)、2. ウオークマン用ヘッドセット、3. 21MHz用ホイップ、4. モービル用マグネット基台、5. 超小型標準電鍵、以上です。(1988年2月記)」
写真4. (左) VK2FFU中村千代賢氏の免許状と、(右)その絵はがき利用の即席QSLカード。
JR1LFT見城信之氏は、オーストラリアでVK2FHY, VK3FHYの免許を得ての運用の様子を、手製のQSLカードを添えてレポートしてくれた(写真5)。「1987年5月シドニーに着任早々、当時Amateurの所轄であったDept. of Communicationへ出向いてライセンス取得方法についてアドバイスを求めたところ、日豪政府間で相互運用協定が実施になったことを知らされ、早速その恩恵を受けて、1ヶ月後の6月にUnrestricted Amateur Licence(日本の1アマ相当)の許可を得て以来オーストラリアからの運用を続けています(写真6)。仕事の関係でシドニーを振り出しにメルボルン(VK3)へ転勤、その後またシドニーに戻った経緯があり、過去7年半の間に住居は5回も変わりました。広大なオーストラリアとはいえ、特にアンテナの設置、近所とのマッチング、インターフェアーに関しては本当に苦労しました。今まで住んだ5軒の家の内、まともにアンテナを立てられたのは2軒だけでした。現在住んでいる家は当初から運用を念頭に入れて敷地が大きく立木があり、かつ隣の家との距離があり、但し家自体は小さく古い(後でXYLから相当文句を言われましたが Hi)という借家を見つけ、ようやく平均的な設備で運用できるようになりましたが、サンスポットの低下に伴い最近急にJAが遠く感じられるようになってきました。伝播上で運用していて気が付いた点は、ローバンドでDPベアフットでもU.S.A.東部、カリブ海、中米がたやすくQSOできる反面、南米、アフリカは非常に困難なこと。14MHz以上ではヨーロッパに対しロングパスが抜群で、コンディションが低下した現在でも21/28MHzでU.S.A.とはコンスタントにQSOできること(JAより楽)。JAの局で特に強力な局は高さ10~15m程度の高さのアンテナを使用している局で、オーストラリアに対しては必ずしも高いアンテナが良いとは思われない等です。現在使っているLine UpはTS-940S、HL-1K(400W出力)とアンテナは高さ10m程の3エレトライバンダーとローバンド用はDPです(写真7)。(1994年11月記)」
写真5. VK2FHY見城信之氏の手作りQSLカード裏表。
写真6. (左)VK2FHY見城信之氏の免許状。 (右)ポーチでのBBQ。左からVK2BEX朝比奈氏とVK2FHY見城信之氏。
写真7. (左) VK2FHY見城信之氏のシャックでVK2BEX朝比奈氏(手前)と。 (右) VK2FHY見城信之氏のアンテナ。ガレージの上に3エレトライバンド八木と、右側の立木にローバンド用ダイポールの碍子が見える。
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ