2013年11月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その8 企業の海外進出に伴い、ハムの渡航が盛んに 1972年
二国間の相互認証とCEPT
去る9月27日のニュージーランドに続いて、10月21日にインドネシアとの相互運用協定(相互認証)が発表されたことは、我々アマチュア無線家にとっては嬉しいニュースです。二国間の自由貿易協定(FTA)より、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)のような多国間協定の動きが世界の趨勢になってきているように、アマチュア無線の相互運用協定も、二国間の協定より、CEPTのように多国間の協定が世界のすう勢になっていて、日本が遅れを取っていると、ニューヨーク在住のN2JA塚本葵氏が、次のようにJANETのMLに問題提起/提案を寄せられた。
「現在欧州各国は欧州相互運用協定とでも呼ぶべきCEPTを結んでおり、米国、カナダ、ペルー、オーストラリア、ニュージーランド、南ア、イスラエルなどとも協定を結んでいます。欧州でも一部の国は無関係に運用を認めるか、日本との相互協定を結んでいますが、日本との相互協定を結んでいる国は最近インドネシアが追加されましたが、あまり増えていません。これは世界の情勢が二国間協定から、多国間協定に推移したからだと思います。日本は遅れをとっているように思います。グローバルな協定が望ましいけど、まずはCEPTと日本も協定を結び、自由に運用ができるようにすべきだと思いませんか。相互主義からして日本がオープンであることを示すことができ、日本に対するイメージを変える事もでき、互恵主義の立場からしても望ましい状況と思います。グローバル世界において、日本国の市民として他の締結国市民との差別を解消させるという、この意味するところは大きいと思うのです。上記のような国がすでに協定を結び、日本も免許制度はかなりオープンになってきたと理解していますので、日本が結べない理由はないと思うのです。」
1972年 (オランダPA0TAX)
既に紹介したJA1DCY神山堅志郎氏(写真1)は、この年オランダでゲストオペをしておられる。「オランダ(PA)でも免許を持っておられるN1BFO(JH1BED)高橋OMの友人である、PA0TAX局をゲストオペさせて頂いたが、詳細は忘却した。(1985年記)」、とレポートを寄せてくれた。JH1BED高橋重雄氏もこの頃オランダからQRVされたのであろうと思われるが、レポートは寄せられていない。
写真1. JA1DCY神山堅志郎氏(1980年代)
1972年 (アフガニスタン YA1DT)
今では簡単に行けそうにないアフガニスタンで、この年に運用されたJA1EY戸倉正雄氏からレポートが寄せられた(写真2)。「使用機器はスワン350C及びヤエス101、アンテナは4エレ・クワッド19mhを使用していましたが、クーデターにより機械、ログ等を1973年8月13日に没収され、アフガニスタンに於いて、正式アマチュア無線局は全て禁止されている。(1997年記)」、当時の雑誌「Hamライフ」1973年11月号に「クーデターによりYA局のハム活動が禁止される!惜しまれるYA1DT戸倉さん」と題した記事が掲載された(写真3)。
写真2. (左) YA1DTのQSLカードと、(右) YA1DTを運用する戸倉正雄氏
写真3. YA1DTの戸倉正雄氏の記事が掲載された「Hamライフ」誌1973年11月号
1972年 (イラン EP2NH)
上記アフガニスタンでも運用経験のあるJA1CQT中西洋夫氏は、イランで1972年からアクティブにQRVしたと詳細なレポートを寄せてくれた(写真4)。このレポートを読むとイランに対する親しみがわくのではないだろうか。
写真4. (左) EP2NHのQSLカードと、(右) EP2NHを運用する中西洋夫氏
「まえがき: 1971年3月に、私の勤務先会社が、イランでラジオ・TVの製造に関して技術援助を与えて居る現地会社で、前任者達が工場の製造体制を整え終わり引き上げ後、私一人で現地スタッフとテクニカルアドバイザーとして工場を運営し、2~3年間駐在せよ、との打診を受けた。先ず考慮した事は、仕事の事よりHi、現地で私の長年の趣味であったアマチュア無線とスキーが出来るかどうかであった。幸い前任者の中で、2人がEP2CIとEP2MKの免許を取得していた。またスキー場もあると聞き、駐在を快諾して、1971年6月に新婚の妻を帯同して、テヘランへ赴任した。幸い駐在先の現地会社にイラン人のEP2MO、Mortazavi氏が居て、現地免許取得の要領が判った。
免許取得方法: イラン人への免許付与は色々制限があったが、当時友好国でイランの開発の為に駐在して居る外国人ハムの場合、”THE AMATEUR RADIO SOCIETY OF IRAN (ARSI)”に紹介者を得て入会して、半年位毎月のミーティングへ参加後、会長の推薦を以って、当局のPTT(Post and Telephone Telecommunication)へ局免許を申請する方法が確立していた。私の場合、駐在先のイラン人ハムの紹介で、ARSIに入会して、会長のEP2BF、Nuban氏の推薦状を持ってPTTへ、所定の申請書に、在イラン国の日本大使館による日本の無線従事者免許証の翻訳証明書(写真5の左)を添えて申請した。コールサインのサフィックスは通常イニシャルだったが、私の場合”HN”だったが、先約が会った為、逆の”NH”が割当てられ、3ヶ月程で免許を得たのが1972年3月だった(写真5の右)。
写真5. (左) 中西洋夫氏の日本の免許証の英訳証明書と、(右) EP2NHの免許状 (クリックで拡大します)
運用状況: 免許取得後、日本のハムの友人にFT-200の本体のみを購入して貰い、実家から送って貰った。既に無線局免許を取得していたので、駐在先のスタッフに通関処理を依頼して、簡単に輸入できた。このFT-200は安価、本体はコンパクト、軽量、ヨーロッパで評判の機種であった。現地で電源トランスを発注して、電源を用意した。高圧は終段がTVの水平出力管で600Vが推奨だったが、800Vも出るようにして、出力200Wを狙った。終段管の寿命を延ばすため、終段ユニット付近のケースはカットして、その付近に小型扇風機を当て、強制空冷?!とした。それでも終段管は2度取り替えた(出張者に持ってきて貰った)。アンテナは当初現地バザールで探したアルミパイプで自作した15m用3エレ八木と、20m用ワイヤーダイポールを、3階建てアパートの屋上に設置して結構楽しめた(写真6の左)。当時は今の様なドッグパイルは少なく、JAともゆっくり話が出来た。息子が現地で誕生した時(1973年7月)は、ハムで実家にQSPして貰ったHi。
その後、アメリカへ帰るハムから、HygainのTH6DXXを貰い受け、20,15,10mが良く飛んだ。JA局からの要望でダイポールは40m用に延ばし、現地休日の金曜日を主体に楽しんだ。仕事熱心だったのでHi、あまりアクティブに出来なかった。今思えば残念であった。東欧や当時のソ連は猛烈に強かったが、対米国はヨーロッパの壁が凄かった。QSLマネジャーは神奈川県津久井町のお寺の和尚、JA1WUS故浅野氏にお願いした。郵便量の急増から、地元の郵便局長から「和尚、何を始めたのか?」と、いぶかられたとか。
写真6. (左) EP2NHのアンテナと、(右) クラブARSIのミーティング
その他:毎月のARSIのミーティングはテヘランの高級ホテルで開催され、毎回XYLを連れて参加したが、残念ながらと言うか、当然か、名誉会長の国王、EP1(サッフィクス無し)や、名誉会員のプリンスやヨルダン国王にはお目にかかれなかった。参加者の半分以上は欧米人で、極東からの唯一の私は、皆様から親しく接して貰った(写真6の右 & 写真7)。XYLは毎回美味しい西洋料理が楽しみだった。
写真7. 会員の名簿が掲載されたARSIの機関誌 (1974年2月号) (クリックで拡大します)
駐在時、突然JA1UT林氏の訪問を受けた。氏の所属会社がイラン進出のため、調査に来られた。氏とはそれ以来、今に至るまでお付き合いがあり、私が2001年12月から隣国、アフガニスタンでの、無線網構築と言うきっかけを作って下さった方である。またTH6DXXを譲って下さった米人ハムとは、EP2TC(当時W4TRP, 現KW4CQ, Bob)で、奥様が横浜出身の日本人で、やはりそれ以降親しくさせて貰って居る。我々が米国シアトル近郊に駐在中、バージニア州のお宅へ遊びに行ったり、奥様の里帰りの度に会って居る。
また私の帰任後、イランへ赴任されたEP2TY、矢井氏(日本のコール失念)は私が帰任後、横浜までわざわざ私を訪ねて下さり、イランのアマチュア無線事情をお話した。その後のイランでのEP2TY矢井氏の大活躍はCQ誌などでの記載の通り。私のイラン駐在は、仕事以外でアマチュア無線のお蔭で、普通の駐在員が経験し得ないことを様々経験できた。まさに「出会いと絆」を実感した駐在だった。1973年に長男が生まれたイランは、当家の第二の故郷である。1979年にはイラン革命で体制こそ変ったが、他国の革命と異なり、戦火の無い革命で、国の破壊が無かったことで、我々家族は安堵している。(2013年記)」
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ