2013年7月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その4 海外運用の黎明期(2) 1968年
1968年 (タイ HS1TA他)
筆者JA3AERは早川電機株式会社(現シャープ株式会社))の駐在員として、1967年から1969年にかけて約2年間タイの首都バンコクに駐在したが、この国で運用できるとは夢にも思っていなかった。しかし、1968年4月、香港で紹介してもらったHS1CB, Chankijに会って一挙にタイのハム界の様子がわかった(写真7)。そのころタイ政府はアマチュア無線局を認めていなかったが、それを取り締まる法律もなく、STAR (Society of Thai Amateur Radio)の会員になれば会員証にコールサインが記入され(写真8の左)、政府もそれを黙認しているという状況であった。
写真7. (左) HS1CB, Chankij。 (右) HS1CBのQSLカード。
写真8. (左) STARの会員証。 (右) STARの月例ミーティング風景。
筆者のタイでの初めてのQRVは1968年4月7日で、HS1CB のゲストオペとしてであった。同日、Chankij がHS1TAのコールサインを割り当てSTARの会員にしてくれたので早速そのコールサインでQRVした。その後、毎月第1日曜日に Chao Phaya Hotel で開かれるSTARの月例ミーティング(写真8の右)で知り合った HS1BD, HS1HI, HS1FB, HS1AF, HS3AL, HS3DR (いずれもアメリカ人)各局を訪問しては運用させてもらっていた(写真9の左)が、1969年2月にトランシーバーFTDX-400を入手してからは事務所で運用した(写真9の右)り、7月には南西部のHuahin (HS4) や、8月には南東部のPattya (HS2) へ移動運用にも出かけた。このころはタイ全国をHS1からHS4まで4つのコールエリアに分けられていて、HS4には常設局が1局もなかった(写真10)。
写真9. (左) HS1FB, Bill、HS1FR, Rosie夫妻とその家族と一緒に筆者。 (右) HS1TA筆者。
写真10. (左) HS1TAのQSLカード。 (右) HS1TA/HS4のQSLカード。
1969年8月の月例ミーティングで、政府がアマチュア無線を認めることになり、今までの許可(STARの会員証のコールサイン)は無効になる旨の発表があったが、8月末にタイを離れ、そのまま9月には帰国したので、その後の様子はわからない。HSからはゲストオペを含めて、739 QSOであった。
1968年 (シンガポール 9V1PJ他)
筆者JA3AERは、早川電機株式会社(現シャープ株式会社)の東南アジア駐在員として1967年にシンガポールを訪れた際、この国のハムに会いたいとQSLビューローに手紙を出したところ、9V1NR, Charan から電話があり、わざわざホテルまで会いに来てくれた。タイのバンコクを常駐地とし、たびたび訪れる機会があったので、暇を見つけては 9V1NR を訪問し、ゲストオペレーターとして QRV させてもらっていた(写真11)。他に9V1CN, 9V1SJ(クラブ局)のゲストオペを含めると延べ6回で60 QSOであった。
写真11. (左) 9V1PJ, Dr. Charan。 (右) 9V1NRのQSLカード。
その後次第に多くのハムとも知り合い、彼らの薦めもあって免許を申請したのは、1968年11月18日であった。先ず日本の従事者免許証と局の免許状を自分で英訳し、日本国大使館で一般証明してもらい、これを資格証明とした(写真12)。それに裁判所で聖書に片手を添え、通信の秘密を守ることを誓った証明書を加え、さらにパスポートの写し、市民2人の身元保証兼推薦書2通、それにS$10を添えて提出した。落成検査をしたいとの通知を香港で受け取ったのは、約1ヶ月後のことであったが、旅行中を理由に引き延ばして開局の準備をした。
写真12. 在シンガポール日本国大使館の無線従事者免許証英訳証明。
VS6BE に日本から買ってきてもらった受信機 FRDX-400 を香港から持ち込んだ以外は、送信機FL-200Bや周測計 BC-221、それにSWLメーターからアンテナに至るまで、9V1NRなどからの借り物であった。そして9V1NRと9V1JYが検査に備え、アースは大丈夫か、ログブックには頁数がうってあるかなど親切に助言してくれた。落成検査に来たのは、係官のMr. Ngとその助手の2人で、機器については当局(電波監理局)のリストにあるモデルであれば特に調べることもなく、1人が送信している間に他の1人が近所を回ってテレビやラジオに妨害がないか調べるという、実に現実的なテストであった(写真13)。もちろん無事合格し、9V1PJ のコールサインが割り当てられたが、「最後のJ は日本人の君のためにとっておいた」とのことであった。免許状は1969年2月13日付けで交付され(写真14)、早速QRVを始めた。
写真13. (左) 9V1PJの落成検査で審査官Mr. Ngとその助手。(右) Mr. Ngと筆者。
写真14. 9V1PJの免許状。
その後日本から輸入した送信機FLDX-400と先の受信機FRDX-400で運用した(写真15)が、仕事の都合で同年8月に帰国することになり、7月22日を最後にQRTし、それまでに入手したFLDX-400とFRDX-400は 9V1NR に譲って帰国した。半年足らずの9V1PJの運用は僅か421 QSOであった。このころのクラブはマレーシアと合同の MARTS (Malaysian Amateur Radio Transmitters' Society) であった(写真16)が、1979年に 9V1NQ 達がシンガポールを切り離して独立したクラブ (SARTS) にしたいので、発起人の1人に加わってほしいと頼みにきたが、自分は外国人でありいずれ帰国せねばならぬとして断わった。その後しばらくして SARTS (Singapore Amateur Radio Transmitters' Society) が発足したようである。
写真15. (左) FLDX-400とFRDX-400が揃った9V1PJ局。 (右) 送信機FLDX-400の輸入申告書。
写真16. MARTSの会員証。
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ