2013年8月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その5 海外運用の黎明期(3) 1969年
1969年 (ベルギー ON8YA)
JA0NK井口幸一氏がON8YAで免許を得た頃の様子をレポートしてくれている(写真8)。「JA0NK, JA1GBJ, JA1TBD 私ども3人は仕事の関係でベルギ-に駐在致しておりましたが、知人のON5SF, Francis Saey氏に、外国人でも免許が取れるのであればハムをやりたい旨話しをしたところ、既に外国人に対し80局近くライセンスが発給されており、問題なくOKとなるだろうとの返答を得ました。手続き関係は全て彼に一任しましたので詳細は不明ですが、私どもの準備したものは日本のQSLカ-ドのみで、他に何の書類も要求されませんでした。当初JA0NK, JA1GBJに免許を発給の際、日本人に対しては初めてのケ-スで、電信のみは本当に出来るのかチェックしたいので一人代表を出すようにとの事で、その任にはJA1GBJが当たりました。但し、彼の話しでは、和文を打ったところ感心して試験はせず、よもやま話しをして帰ってきたようです。
写真8. ON8YA井口幸一氏(1992)と、ON8YAのQSLカード(JA0NK, DJ0CTも兼ねている)
現在も同じですが、ベルギ-はEC本部のある国と言う事で、古くから外国人に対してあらゆる面で開放的であり、前例がなければ先ずこちらで作る、と言った気風があります。運用に関しましては、アンテナが20-15-10mのGPしかあげられず、SSBとCWにて200局程度にとどまりました。内 JAは50局程でした。その間で印象に残っておりますのは、駐日大使をされておりました米国のマイヤ-氏との20m, SSBでのQSOがあります。何分にも20年以上も前の事で、その間の日本への帰国、再赴任の繰り返し、当時の資料は全て日本に残したままで手元にはありませんが、局免許はRTT (RegieTelephonTeregraph - 日本の郵政省に相当)のレタ-ヘッドにマジックでコ-ルサインを大きく手書きしたもの1枚と、 ベルギ-の局名録が送られてきたのみでした(写真9)。(1992年記)」 尚、井口氏は現在もドイツでDJ0CTとしてアクティブである。
写真9. ON8YA井口幸一氏の免許状
1969年 (マレーシア 9M2BL他)
筆者JA3AERは、早川電機株式会社(現在のシャープ株式会社)東南アジア駐在員として、初めてマレーシアを訪れたのは1967年12月だったが、首都クアラルンプールの郊外、パタリンジャヤにテレビや冷蔵庫の組立工場があり、その後もたびたび訪れる機会があった。シンガポールの9V1NR(彼は9M2NRでもある)に紹介してもらった9M2LN, Nara(1983年に他界)に初めて会ったのは1968年10月、3度目の訪問時だった。そして同年11月末、Naraの助けを借りて免許の申請をした。所定の申請用紙に必要事項を記入し(写真11左)、日本の免許証、免許状の英訳証明書(大使館で証明を受けたもの)、送信機の仕様書(カタログ)それにアンテナの設置図を添付したほか、パーソナルサマリー(パスポートの内容を記入するもの)、マレー人2名の推薦状、それにM$10.00が必要だった。
これらの申請書等はテレコムに持参し直接係官に手渡したが、日本人の申請を受け付けるのは初めてだから、日本政府に日本の免許について問い合わせるので、しばらく待つように言われた。免許がおりるまでは9M2LN, Naraや9M2AV, Avatarのシャックから、ゲストオペレーターとし運用させてもらい延べ3回のゲストオペで71 QSOをしている(写真10)。
写真10. (左) 9M2LN, Nara。(右) 9M2LN局をゲストオペする筆者
待つこと7ヶ月、ついに1969年6月23日付で日本人として初めて9M2BLのコールサインで免許がおりた(写真11右)。しかし、残念ながらこのときは既に2,3ヶ月後に帰国が決まっていたので運用はあきらめ、7月25日、当局に出かけ好意に謝意を表し免許状を返納した。マレーシア滞在中に、先の9M2LN, 9M2AVの他に、9M2NF (G3PNF), Dennis、9M2TA, Ong などのシャックを訪問するなど、各地で多くのハムとアイボールQSOをする機会があった(写真12)。
写真11. (左)筆者の免許申請書。(右) 9M2BLの免許状
写真12. (左) 9M2LN, Nara(右端)の大家族と一緒に、左端が筆者(1968)。(右) 9M2NF(G3PNF),Dennis (前列左端)の英国への帰国送別会で9M2LN, Naraのシャックに集まった9M2のアマチュア無線家達。前列左から9M2NF(G3PNF), 9M2LN-XYL, 9M2NF-XYL, 9M2CM-XYL, WB6VBN(WB6UJO-XYL), 後列左から9M2ON, 9M2TA, 9M2JB, 9M2AE, 9M2AV, 9M2LN, 9M2CM, 一人置いてWB6UJO, 一人置いて9M2TC, JA3AER(1968)
1969年 (パキスタン AP2SG)
筆者JA3AERは、早川電機株式会社の東南アジア駐在員としてバンコクに駐在していた1969年に、代理店MECO社のある西パキスタンに出張することになった。この代理店がカラチにTV工場を持っていて、SHARPブランドのTVを作っていたため、その技術指導のためであった。約1ヶ月の滞在であったが、この間にラホール、ラワルピンジ、イスラマバッド、ペシャワル、それに帰途、東パキスタン(後にバングラデシュ)のダッカに行く機会を得た。しかし、いずれも短期間であったので、アマチュア無線家に会えたのはカラチだけであった。
カラチに着いたとき、コールブックにあったAP2SG, AzharのQTHにハガキを出しておいたところ電話があり、車でホテルまで迎えに来てくれた。彼はDJ0DLのコールも持っており、ドイツとアメリカに留学していたという。シャックにはアメリカから持ち帰ったというハリクラフターのHT-37とSX-117が並んでいて、ここからしばしゲストオペをさせてもらった(写真13)。JA8BQBなど3局とQSOすることができたが、政情不安な時期で、カラチの日本人クラブの責任者がスパイ容疑で逮捕されたと聞かされ、日本語でのQSOにはリスクがあると思い短時間で切り上げた。
写真13. (左)AP2SG, Azhar。(右) AP2SG局をゲストオペする筆者
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ