2014年2月号
連載記事
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~
JA3AER 荒川泰蔵
その11 米国で日本人にも免許 1975年
1975年 (マレーシア 9M2BZ)
マレーシア在住の9M2BZ(JH1LKO)鶴岡慎一郎氏(写真18及び19)から次のようなレポートを頂いた。「会社(商社)の人事異動により現地会社へ出向を命じられ、1973年11月に着任しました。仕事も忙しく無線どころではありませんでしたが、久し振りに友人が送ってくれたCQ ham radio誌を見たところ、写真の中にかかり付けの医者Dr. Lee(9M2BT)を見つけてびっくり、早速シャックを訪ねテレコムに勤めるMr. Loke (9M2AP)を紹介してもらいました。日本人が開局していると教えてくれましたが、住所が離れていたため当人と連絡できず、免許申請手続きは9M2AP及び9M2BTに協力してもらいました。申請書と日本のライセンスのコピー、パスポートのコピー(労働許可を含む)、裁判所で宣誓した証明書、身元保証推薦状2通をテレコムに提出、6ヶ月後の1975年6月に免許されました(写真20、21及び22)。現在はもっと早いようです。当時は免許されてから1年間はCWのみ25Wと限定されていましたが、日本で免許されていた期間を考慮してくれましたので限定はありませんでした。
写真18. (左)9M2AXのシャックにて、後列左から9M2XX高橋明治氏、9M2AC斎藤守氏、9M2BZ鶴岡慎一郎氏、前列9M2AX田中悦男氏(1986年)と、(右)KLのクラブ局9M2JKLのシャックにて、後列左から9M2BDX宮原啓造氏、JA7LMU(NY9I)木村誠氏、JM1EDS山崎俊夫氏、9M2BZ鶴岡慎一郎氏、前列左からHB9EBH, Uri Laub氏、 JA3AER筆者(2012年)
写真19. (左) 9M2BZ鶴岡慎一郎氏のQSLカードと、(右) 鶴岡慎一郎氏撮影の写真を使ったクラブ局9M2JKLのQSLカード
写真20. 9M2BZ鶴岡慎一郎氏の更新された免許状(1986年) (クリックで拡大します)
写真21. 9M2BZ鶴岡慎一郎氏の更新された携帯用免許状の表と裏
写真22. 9M2BZ鶴岡慎一郎氏の更新された移動局用携帯免許状の表と裏
ローカル(日本での)のJA1VDJ金平氏に機材の送付を頼みました。当地で無線機の通関となると想像以上に難しく、知人の税関職員に税金を払いようやく輸入できました。最初はKuala Trengganuという町からQRVしましたが、人口55万人のTrengganu州にハムはたったの一人、珍しさもあってか落成検査の時には総勢7人も来ました。そのとき、ライセンスのコピーが当地の警察、軍関係にも提出されていることを知らされました。先ずはJA1VDJと初QSOしたのが1975年8月3日、以来延べ8,500局とQSOしました。9M2全体のアクティビティが低いため、HF帯ではよくパイルされます。T 147.9MHz, R 147.3MHzのレピータがありますが、日本語でラグチューをするのに気がひけるため、145.2MHzで日本人ネットを持っています。最近ローカルの局がよくブレークをしてくるので、レピータが故障しているのかと思えばそうでもなく、気がついたら2mで一番にぎやかなのがこのチャンネルでした。ローカルとの融和を図るため、フィールドデー、VHF伝搬実験などにできるだけ参加していますが、海外で運用する際この点が非常に重要だと思っています。(1987年4月記)」 鶴岡慎一郎氏はマレーシアで長くビジネスを続けられていて、クアラルンプールにある日本クラブのクラブ局9M2JKLの管理者のお一人でもあり、筆者もKLを訪問する度にゲストオペをさせて頂くなどお世話になっている(写真18の右及び19の右)。
1975年 (シンガポール 9V1SP)
JN1AYX倉橋 勲夫氏(写真23)から次のようなレポートを頂いた。「五洋建設株式会社(英名: PENTA-OCEAN CONSTRUCTION Co., Ltd.)のシンガポール支店の駐在員として、1974年2月に赴任した。1961年から1964年の3年間エジプトに滞在して、このときはハム開局ができなかったが、今回はぜひ開局したいと思い、9V1OD, Tan、9V1QM, Aw、9V1OK, Frankそのほか多くのハム局の援助を受けて開局することができました(写真24)。無線従事者免許証 (日本の1級または2級ハム) を大使館で英文に直してもらって申請し、開局の無線局検査は、日本で以前に受けた100W局の落成検査とほとんど同じであった。日本人としてシンガポールで正式に無線局が開局できたのは、9V1PJ荒川さんに次いで2人目で、われわれと同じように、外国人が日本でもハム局の運用ができるように望んでいます。(1985年5月記)」
写真23. (左)9V1SP倉橋 勲夫氏(1977年)と、(右)9V1SP倉橋 勲夫氏のQSLカード
写真24. 9V1SP倉橋 勲夫氏の免許状(1975年) (クリックで拡大します)
4U1UNの創始者HB9RS, Dr. Max C. deHenselerがSK
この原稿の執筆中に悲しい知らせが入ってきました。2013年8月号(その5)で「4U1ITU開局50周年」として紹介させて頂いた情報を送ってくれたHB9RS, Max C. deHenseler氏(写真25)が、去る12月30日にサイレントキーされたというニュースです。下記ARRLのURLで詳細をご覧になれますが、氏は1980年代にニューヨークの国際連合本部のアマチュア無線クラブ(4U1UN)の会長を務めていて、筆者を含むJANETクラブのメンバーを中心に、多くの日本人ハムにゲスト運用させてくれました。国際連合本部というエンティティに1局しかない4U1UNを、多くのJA局にもサービスすることが出来ました。運用された多くの方々からレポート頂いていますので、1980年以降の記事で紹介させて頂きますが、HB9RS, Max C. deHenseler氏のご冥福を祈ると共に、アマチュア無線家としての功績を、次号に紹介せて頂きたいと考えています。
http://www.arrl.org/news/founder-and-president-emeritus-of-4u1un-max-de-henseler-hb9rs-sk
写真25. (左)4U1UNを運用するHB9RS, Max C. deHenseler氏 (1982年)と、(右)氏の特別なQSLカード
海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~ バックナンバー
- その45 タイで第16回SEANETコンベンションを開催 1988年 (1)
- その44 CQ誌の「N2ATTのニューヨーク便り」 1987年 (6)
- その43 記事執筆を励まされるもの 1987年 (5)
- その42 相互運用協定の恩恵 1987年 (4)
- その41 海外運用の後方支援 1987年 (3)
- その40 CEPTその後 1987年 (2)
- その39 相互運用協定が拡大 1987年 (1)
- その38 当連載では日系人も紹介 1986年 (4)
- その37 国際平和年 1986年 (3)
- その36 大学のラジオクラブが活躍 1986年 (2)
- その35 多様な国々からQRV 1986年 (1)
- その34 日本人による海外運用の記録をCQ誌に連載開始 1985年 (7)
- その33 IARU第3地域国際会議 1985年 (6)
- その32 中近東地域へも進出 1985年 (5)
- その31 中国への支援や指導での友好関係が延々と今に続く 1985年 (4)
- その30 JLRSのYL達が活躍 1985年 (3)
- その29 国際連合創設40周年 1985年 (2)
- その28 米国で日本との相互協定による運用許可開始 1985年 (1)
- その27 アマチュア衛星通信が盛んに 1984年 (3)
- その26 肩身の狭い海外運用 1984年 (2)
- その25 免許状 1984年 (1)
- その24 FCC 1983年 (3)
- その23 CEPT 1983年 (2)
- その22 世界コミュニケーション年 1983年 (1)
- その21 ユニセフアマチュア無線クラブの活躍 1982年 (2)
- その20 米国で日本の経営や品質が見直された時代 1982年 (1)
- その19 青年海外協力隊員が海外運用でも活躍した時代 1981年 (2)
- その18 相互運用協定への聴問会が開かれる 1981年 (1)
- その17 日本人によるDXツアーが始まる 1980年 (2)
- その16 1980年代の概観 1980年(1)
- その15 国際クラブ・JANETクラブ発足 1979年
- その14 海外運用のグローバル化・筆者米国へ赴任 1978年
- その13 バンコクでSEANETコンベンション開催 1977年
- その12 国連無線クラブ局K2UNの活性化 1976年
- その11 米国で日本人にも免許 1975年
- その10 戦後初のマイナス成長 1974年
- その9 変動為替相場制に移行 1973年
- その8 企業の海外進出 1972年
- その7 初回SEANETコンベンション開催 1971年
- その6 大阪万博の年1970年
- その5 海外運用の黎明期(3)1969年
- その4 海外運用の黎明期(2)1968年
- その3 海外運用の黎明期(1)1965~1967年
- その2 20世紀後半の概観
- その1 プロローグ