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今月のハム

JA1FY 野田隆志さん

1932年生まれのJA1FY野田隆志さん。1953年に開局し、今年で67年目のハム活動に入っている。渋谷区代々木で生まれた野田さんは、子供の頃からものづくりに興味津々だった。5歳の時に横浜に転居し、小学生の時には模型飛行機のキットなどを組み立てて遊んでいた。その頃、従兄弟がモーターを作っているのを見て自分でも作ってみたくなり、父親にコイル用の電線とブラシ用のリン青銅板を買ってもらい、ベースは蒲鉾の板、回転子と固定子は缶詰の空き缶を切って作ったことを覚えている。

また父親から鉱石ラジオを見せられたのがきっかけで、ラジオに興味を持った野田さんは、ラジオいじりからラジオ作りと進み、やがて2-3バンドのオールウェーブラジオを組み立てて、短波放送を聞くようになったという。

終戦の年1945年4月、中学校への入学式の日に横浜の家が爆撃で潰され、やむなく野田さんは母親の実家である福島県に転居し、福島県の中学校に入学することになった。そのまま福島県で終戦を迎え、その年の末まで福島で過ごしたが、終戦後に水戸の陸軍航空隊から復員してきた元電信教官から、反動送信法で和文電信を習った。

横浜に帰った後、中学3年生の頃、同級生からアマチュア無線について教えてもらい、自作のラジオで14MHzなどをワッチしてみた。すると、JA2xxなどのコールサインで米軍関係者が交信しているのが聞こえてきた。途中でオペレーターが女性に変わるなど、フォーンパッチを使っているのも理解できたという。当時まだ日本人にはアマチュア無線は許可されていなかったので、聞くことしかできなかった。

1951年に電波法が改正され、戦後初のアマチュア無線技士の国家試験が実施された。野田さんは明治大学入学後、1952年の9月期に2アマの国家試験を受験し、その年の12月に無線従事者免許証を手に入れた。冬休みにアルバイトをして貯めたお金でパーツを集めで送信機(終段管1625)を完成させ、翌1953年4月に予備免許JA1FYをもらい、同年6月に落成検査に合格して開局。その頃野田さんは、父親の職場の社宅のあった台東区浅草橋場に住んでおり、この場所で開局したのであった。浅草橋場は山谷や吉原に近く「環境的には必ずしもベターな場所ではありませんでした」と、野田さんは話す。

当時の2アマには、HF帯では電波型式A3(現表記A3E)で7050kHzと7087.5kHzのわずか2波のみがスポットで許可されていた。野田さんのファーストQSOの相手は同じ台東区内のJA1EQ局だった。ちなみに、VHF帯の50MHzや144MHzでは2アマにもバンドで許可されていた。


野田さんが使った水晶発振子
左から7050kHz、7087.5kHz、3504kHz。

その年1953年11月、大学祭でアマチュア無線局の公開運用を行うことになり、同級生のJA1DH川田さんが大学祭の会場に、野田さんが高周波研究室に、それぞれ設置場所を変更して変更検査を受けた。日本で移動する局が認められたのが1956年なので、それ以前は設置場所以外で運用する場合、いちいち変更検査を受ける必要があった。

同年12月には設置場所を自宅に戻すために再度変更申請を行ったが、その際には3.5MHz帯で3504kHzと3510kHzの電話2波が2アマにも許可になっていたため、3.5MHzの追加と、さらに50MHz用の送信機(終段管2E26)を作って50MHzの免許も受けた。


1953年の野田さんのシャック

1956年に移動する局が免許されるようになり、同年には総武クラブ主催の関東合同移動訓練というイベントが実施された。当時所属していた東光クラブから選抜された野田さんは上空移動の担当となり、毎日新聞社の双発機デ・ハビランドダブに搭乗した。羽田から飛び立ち、保田海岸経由で東京を横切り富士山に向かったが、相模湖上空で前方に積乱雲が現れたため羽田に引き返したものの、その間にかなりの多くの局と交信できたという。


上空移動のスナップ

明治大学を卒業後、野田さんは1956年に重電メーカーの明電舎に就職した。当初は電力設備、変電所や発電所の配電盤社内試験および現地据付試験を担当する部門に配属された後、新しくできた電子部門に異動した。ここでは遠方監視制御装置等が製作されており、野田さんは引き続き社内試験及び現地据付試験を担当したが、この装置は山奥の発電所を無人にして電力線を通して里側の変電所から監視制御する装置だった。

遠方監視制御装置に内蔵されている電力線搬送装置は200kHz台の高周波を使う通信設備で、重電メーカーの試験担当者にはあまりなじみがなかったため、野田さんが調整試験マニュアルを作った。また発電所設備は水晶時計を装備しており、立ち会い試験に精度検査を要求された。野田さんは趣味の無線通信の知識を活かして、短波受信機とダイポールアンテナで標準電波JJYを受信し、水晶時計とJJYのパルスを電磁オシロに出し1週間でのずれが仕様範囲内にある事を示した。「重電メーカーには通信の知識を持っている人が少ないので、アマチュア無線の知識が役に立ったと思います」と話す。

1958年、電波法の改正で電話級(現在の4アマ)、電信級(現在の3アマ)アマチュア無線技士が新設され、それまでの2アマ(旧2アマ)は電話級相当になったが、5年以内に電気通信術(欧文のみ)の試験に合格すれば、新2アマに移行できることになった。不幸にも野田さんは当時、新工場の建設、移転時期と重なり、多忙を極めたため、この新2アマへの移行試験に臨むことができず、結果的に電話級に降格となってしまった。

それでも、時間的に多少余裕が持てるようになった1972年に新2アマの試験をパスして、当時住んでいた沼津市で新たに落成検査を受けて100W局を開設し、JH2QUOのコールサインで開局した。沼津時代は工場に社団局(JH2YHK)を開設して、本社や各工場の社屋の社団局と定時交信を行ったり、会社の保養所で各工場クラブの合同ミーティングなどを実施したりアクティブに活動した。またJH2YHKはコンテストにもよく参加し、JARL主催のフィールドデーコンテストで東海地区1位になった事もあった。


沼津のシャックにて

その頃の沼津には、漁船の通信士も多く、彼らは和文モールスでラグチューしていた。それを受信しているうちに、特に意識して練習したわけではないが、野田さんは和文を習得でき、ラグチュー仲間に入れてもらった。また仕事が多忙の中、地域の世話役から頼まれて養成課程講習会の講師を担当することになり、教える立場として学科の勉強を行ったこともあり、「おかげさまで、1974年に受験した1アマは苦労しませんでした」と話す。

その後の転勤で千葉市に転居した際、購入した自宅にクランクアップタワーを建て、HF~5600MHzまでのアンテナを取り付け、HFは500W免許を取得してアクティブにオンエアした。その成果として、AJD、WAJA、JCC500、WAC、DXCC、WAZ、ADXAなどのアワードを取得している。


千葉市の自宅に建てたクランクアップタワー


野田さんが獲得した代表的なアワード

2001年、米国FCCのアマチュア無線ライセンス試験に挑戦し、最終的にアマチュアエクストラ級に合格してAD6ZWのコールサインを取得した。その頃から、野田さんはJARL千葉県支部の監査指導委員長を務めていたが、2007-2008年の2年間は千葉県支部長を引き受け、千葉県と協力して非常通信訓練などを行った。

また、当時JAXA(宇宙航空研究開発機構)の勝浦宇宙通信所が所有する直径18mのパラボラアンテナが使用期限を越えて撤去予定になっているという情報を聞いた人がおり、これをJARL千葉県支部で借用してEMEを運用すべく特別局8J1AXAの免許を得て2年間運用した。支部長だった野田さんは、それまでEMEの経験は無かったが、勝浦宇宙通信所に毎週のように通って習得し最終的には運用も行った。

定年退職後も野田さんは、電気主任技術者免状を持っていた関係でずっと仕事を続けた。75歳でリタイアした後もアマチュア無線やPCをやっているので退屈する事はなく、「恐らくボケ防止にもなっていると思います」と、笑って話す。


小笠原へ向かう船上でMM運用した際のスナップ。

終活のために自宅のクランクアップタワーとアンテナを全て撤去して譲渡した後は、自宅から目と鼻の先にある高層マンションの9階にある一室を借りてシャックを構え、東側のバルコニーに建てたマグネチックループアンテナ(7-21MHz)でオンエアしている。地上高があるため、この小型アンテナでも野田さんの電波は米国西海岸へよく届き、毎週日曜日朝に行われているJANETへチェックインしている。そのほかは、小さなアンテナでも楽しめるFT8を主に運用している。


現用のマグネチックループアンテナ

一方、ビルの陰になるヨーロッパ方面は飛びが悪く、JAIGのロールコールにはなかなか届かないので、D-STARを使ったチェックインにトライすべく勉強しているところである。将来は、小型アンテナを使って、デジタルモードでの1.2GHz EMEもトライしてみたいと大きな夢も持っている。

現在、野田さんは、アマチュア無線以外に力を入れている活動として、国際情勢を中心に自らの視野を広げ深めるための会員制勉強会「国際交流まくはり」の副会長に就任した。これまでに培った人脈を活かし、各方面で国際的に活躍するエキスパートに講演会の講師を依頼するなど、この方面でも活躍している。

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次号は 12月 1日(木) に公開予定

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