今月のハム
2023年3月15日掲載
熊本市南区にあるシャックからDXの追っかけに熱心な中嶋邦浩さん。これまでに13回の転勤を経験した後、熊本に戻った今ようやく腰を据えて無線を楽しめるようになった。
中嶋さんは小学6年生の時、購読していた学研(学習研究社)の雑誌「科学」に付録として付いていたゲルマニウムラジオを作ったことで電波に興味を持った。そのゲルマニウムラジオに、庭の木と木の間に張った手製のアンテナを接続し受信すると、電池もないのにラジオ放送が聞こえ、しかもNHKとRKK熊本放送が同時に聞こえたことをよく覚えている。ちなみにNHKの熊本放送局は当時日本一の500kW出力局だった。
さらに中学生になって購読を始めた学研(学習研究社)の雑誌「中学一年コース」に、「アマチュア無線をはじめませんか」と謳うアマチュア無線資格取得の通信教育の広告をよく目にするようになった。ぜひアマチュア無線の免許を取ってみたいと思ったが、周りでは誰もやっていなかったこともあり、どのようにして免許を取るのか全くわからなかった。そこで中嶋さんは、「中学一年コース」にあった質問コーナーに「どなたかアマチュア無線の免許の取り方を教えてください」と投稿したところ、免許取得の教本を送ってきてくれた読者や、運用中なので教えてあげるよと手紙をくれた読者もいた。中嶋さんは、後者で京都在住のJF3AFD佐古田さんとペンフレンドになって手紙をやり取りするようになり、免許のとり方をはじめアマチュア無線について色々と教えてもらった。
そして電話級アマチュア無線技士の免許を受けるための準備を進めたが、思わぬ難関が立ちはだかった。父親から国家試験の受験を反対されたのだ。「今は高校受験のほうが大事なんだから、高校に入学してからでもアマチュア無線を始めるのは遅くはないだろ」と言われ従うしかなかった。中嶋さんは国試の受験は諦めたが、アマチュア無線に対する興味が薄れることなかった。
高校に入学すると、各クラブの説明会でアマチュア無線部の説明を聞き、その日に入部を決めたという。すぐに国試受験の準備をはじめたものの当時は年2回しか受験チャンスがなく、4月の国試はすでに締め切られていたため、10月の国試に向けて勉強を進め1発で合格した。
この頃にはコールサイン割当の進み具合もCQ誌などで把握しており、JR6Jxxのコールが欲しかった中嶋さんは、その時点ですぐに開局申請書を提出した場合JR6Ixxになってしまうため、開局申請を少し待つことにした。
当時、中嶋さんの手元にはすでにFT-101ESとアンテナ(旭製鋼産業のGP/ECHO-8G)があり、合格より先にバンドワッチを始めていた。というのは、中嶋さんが通っていた高校では2年生からバイク通学が認められ、オートバイ(原付)で通学する生徒が少なくなかったが、中嶋さんは父親に「卒業までの3年間自転車で通学するから、バイクの代わりに無線機が欲しい」と懇願し、買ってもらったからだった。
従免も無線機もアンテナもあるのに、電波が出せない状況にはもう耐えきれず、もうコールサインはなんでも良くなって、中嶋さんは開局申請書を提出した。そして1977年3月、高1の最後にJR6IKDの局免許を受領した。免許状を受け取ったその日に初めての電波を発射したものはいうまでもない。
初交信は、一学年上で別の高校に通うJH6SPO守江さんと決めていた、というのは日々のワッチで守江さんが毎日出てくる時間と周波数が分かっていたからだ。21MHzでその時間にその周波数で中嶋さんから守江さんを呼び出してみたところ応答がありファーストQSOとなった。守江さんとは、毎朝のように通学途中で顔を合わせていたため、「あっ君か」、「免許来たのか」ということから話がはずんだ。当時のログを見ると中嶋さんは人生初のQSOでなんと1時間以上も交信していたようだ。
開局当時のログの1ページ目
セカンドQSOの相手も決めていた。それは中学1年のときに手紙で情報提供してくれたJF3AFD佐古田さんだった。翌日、中嶋さんは佐古田さんに電話をかけ、交信時間と周波数を伝えて7MHzで無事に交信できた。その後は学校から帰ると毎日のように電波を出し、さらに高校2年の10月に電信級を取得してからは電信中心の運用となった。理由は電信ならば10Wでも簡単に海外と交信できるなど、電話よりも飛ぶからだった。中嶋さんは特に21MHzでアクティブに運用し、高校を卒業するまでどっぷりとアマチュア無線に浸かった。
高校卒業後の1979年4月、大手電機メーカーに就職したが、勤務地が横浜になったことと、会社の寮ではアマチュア無線が禁止されていたため、寮から運用することができなかった。そのためアクティビティはかなり下がってしまったが、それでも、ときには車を持っていた寮生に移動運用に連れて行ってもらったり、盆や正月に帰省したときは実家から運用した。また、CQ誌は毎号購入して熟読し、さらに21歳のときに2アマを取得するなど、アマチュア無線熱が冷めることはなかった。22歳のときに熊本勤務に戻り、その機会に自分で庭に穴を掘って自立タワーを建てた。
JR6IKDの現在のアンテナ群。一番右のタワーが22歳のときに建てた20m自立タワー。
その後、中嶋さんは24歳のときに別のメーカーに転職したが、前職と併せて現在に至るまで都合13回の転勤を経験することになる。途中で熊本勤務になったときに100W機であるIC-760PROを購入し、21MHzモノバンドの7エレ八木を上げた頃からDXハンティングに傾倒していった。鹿児島での勤務時代には、DXペディションがあると車を飛ばして実家まで帰ってきてコールしたことが何度もあったという。
苦労したのは転勤の多さだけでなく、台風対策には今でも苦労していますよと話す。九州は台風の襲撃が多く、過去にはエレベーターでアンテナを下ろしていた状態でも、風に煽られてレールから外れ、アンテナに大きな被害を被ったこともあった。特に1999年の台風18号での被害が大きかったという。最近はエレメントをブームから外したり、コイル付きのエレメントの場合はコイルとその先を外したりして対応している。下ろすのも大変ですが、上げるのはもっと大変ですよと話す。
台風接近時スムーズにアンテナやエレメントを降ろせるよう、
各アンテナをマストに直接取り付けない工夫がなされている。
中嶋さんはアマチュア無線をやってきて良かったこととして、友人が増えたことを一番に挙げる。アマチュア無線をやってなければ絶対に知り合うことがないであろう職業も年代も異なる友人が、国内だけでなく海外にもたくさんできた。その中には今でも連絡を取り合っている友人も多い。最近では大西洋のカナリア諸島にいる友人EA8ZTから、日本製無線機の部品の確保を依頼され、メーカーから取り寄せて送りましたよと話す。
2004年に熊本に帰ってきて以降は転勤がなくなり、腰を据えてアマチュア無線を楽しめるようになった。同時に1アマも取得して1kWへの増力も果たした。コンテストにも積極的に参加するようになり、国内コンテストでは電信部門で入賞を重ねた。ただ、DXコンテストは月曜日の朝9時まで運用する必要があり、なかなか全力で出られませんが、リタイアしたらDXコンテストにも全力で参戦したいですと話す。
オールJAコンテストで受賞した盾(中)と賞状(右)。
DXハンティングの成果としては2011年にDXCCを取得し、2022年にはDXCC HRメンバーとなり、残りはMixで5エンティティとなっている。さらに2023年3月には、50MHzで待っていたラスト1枚がLoTWでコンファームでき念願の10バンドDXCCが完成した。その他には、WAZ、WAS、DXCCチャレンジ2000などを受賞している。
10バンドDXCCが完成したLoTWの表示画面。
一方、中嶋さんはアイボールQSOを楽しみとして、ハムフェアほかアマチュア無線の各種イベントには昔から積極的に参加するようにしている。特にDXCCのカードチェッカーになってからは、西日本ハムフェアで毎回カードチェックを担当している。この西日本ハムフェアはコロナで3年連続の中止を余儀なくされたが、2023年は4年ぶりに開催された。
西日本ハムフェアでのカードチェックの様子。
中嶋さんは今年2023年中のリタイアを計画しており、その後は農業(米作り)で飯を食っていきたいと話すが、アマチュア無線では(仕事を休まずに)月曜日の朝9時まで運用できるようになるので、DXコンテストにも力を入れながら、DXCC全エンティティと交信して、#1 HRになることが当面の目標ですと話す。残りの5エンティティはすべてDXペディション待ちだが、今の無線熱を継続しさえすれば、そんなに遠い未来の話にはならないであろう。
DXCC HR盾と5B DXCC盾。どちらも最新デザインのもの。
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