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海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~

その50 アジアの発展途上国への無線技術指導 1989年 (1)

JA3AER 荒川泰蔵

アジアの発展途上国への無線技術指導

1989年当時、まだ発展途上国と言われていた国々へも日本の企業が進出する一方、日本の志あるアマチュア無線家達は、これらの国々のアマチュア無線の普及のため、無線機等の設備の寄贈や技術指導などに努めてきた。このことは既にこれまでの記事でも紹介したが、筆者はこの年、中国各地のアマチュア無線局を訪問する機会を得、それらの人達が果たしてきた成果を確認することが出来た。今回はその記事から始め、更に活動の続く中国、ベトナム、ラオスを紹介する。

1989年 (中国 BY1PK, BY4AA, BY5RA, BY5SY, BY5RCS)

JA3AER筆者は機会があって、中国の3局を訪問した時のことを記録していた。「1989年の初めに仕事で中国を訪問することが決まってから、中国通のJA3UB三好さんに中国の無線局と要人を紹介して頂いた。北京ではBY1PKの汪さん(中国無線電運動協会の副秘書長兼国家体委無線電運動学校の校長)と通訳の盛さん(人民郵電出版社勤務)がホテル(京倫飯店)まで来てくれ、3日後(2月16日)にBY1PK(中国無線電運動協会業余電台)を訪問する約束をした。訪問したBY1PKでは先の両氏の他、台長の童さん、それに上海のBY4AAの台長である徐さん達に歓迎され、歓談の後14MHzを運用、JA局とQSOさせて頂いた(写真1 & 2)


写真1. (左) BY1PKの無線室で歓迎してくれる、左から童氏、BY4AAの徐氏、汪氏と筆者。
(右) BY1PKのシャックにて、左から女史(YL)、童氏、筆者、汪氏、BY4AAの徐氏、盛氏。


写真2. (左)BY1PKのQSLカード。(右)BY1PKを運用させようと準備してくれる皆さん。

その後の2月18日の夜、上海の虹口公園の近くにあるBY4AA(上海市無線電運動協会業余電台)を訪問したが、先の徐さんが副台長の周さんに指示していてくれたらしく、ここでも歓迎を受け、若い人達が運用する合間に14MHzでJAの数局とQSOさせて頂くなど、若いメンバー達と友好親善を図った(写真3 & 4)


写真3. (左)BY4AAを運用する筆者。(右)BY4AAのシャックにて、前列左から周氏、Emmy(YL)、筆者、May(YL)、後列左からTony、Tangの若い皆さん。


写真4. (左)BY4AAのQSLカード。(右)BY4AAを英語で運用する若い皆さん。

また福州では、2月23日にBY5RAの姚さん(福州市無線電運動協会業余電台の首席)がホテル(西湖大酒店)まで迎えに来て、ジープでBY5RA(福州市無線電運動協会業余電台)まで案内してくれた。そこで待っていてくれた戴さん(業務組長)他のメンバー達を含め友誼室の見学や歓談のあと、ここから21MHzでQRVさせて頂き10局程のJA局とQSOすることができた(写真5~7)


写真5. (左)BY5RAの看板がかかる玄関にての記念写真、左から王氏(YL)、張氏、載氏、筆者、姚氏。(右)友誼室にて姚氏と筆者、背後にはBY5RAのコールサインと共に、“我々は世界中に友達を持っている”と英語と中国語で大きく書かれている。


写真6. (左)BY5RAのQSLカード。(右)BY5RAを運用する筆者、見守ってくれている、左が載氏、右が姚氏、背を向けているのが張氏。


写真7. JA3AER筆者へのBY5RAの運用許可証。

初めてのしかも短期間の中国訪問ではあったが、さすがJA3UB三好さんの紹介とあって各地で歓迎を受け、仕事の合間にこのような日中友好の親善交流が図れたのは幸いであった。BY4AAの台長、徐さん達が北京に集まっていたのは、個人局を目指して資格試験の為の講習会をしている時期であったようだ。(1990年5月記)」

JA0AW吉成正氏は筆者の訪中のすぐ後にも、JA1UT林義雄氏を団長とする、JA1CNL笠原豊氏、JA1CMS阿部克正氏、JA1FUY川合信三郎氏、JA1SIM大竹公一氏、JF1WQC飯島博之氏、JK1KHT木場義克氏、JP1FAY中山雅恵氏、JA3UB三好二郎氏、JA4HCK馬場秀雄氏達と共に、福州に5局の無線局を建設する為に出かけた様子をレポートしてくれた(写真8~10)。「1989年4月、JA1UT林義雄氏を団長とする福州業余無線電建援団11名の一員として参加、4月17日 5グル-プに別れて、5無線電台(局)の一斉建設に当たる。アンテナ組立、調整、機器との接続、各バンドのアンテナ調整に殆んど終日を費やす(テストウエ-ブ発射)。翌18日は早朝より開局式を1時間ずつずらしながら、午前中福州市内4局、午後約50km離れた福清第一中学で、同一日に5局開局、当方はJA4HCK馬場英雄氏とBY5SY福州第十一中学を担当、午前8時30分より開局式典後のon airを皮きりに約30分間にJA 13局とQSO、その後現地オペレ-タ-と交代、他局の式典に参加、夕刻市内に戻り、倉山区少年宮BY5RCSよりon air、JAの 3局と交信した。(1991年12月記) 」


写真8. (左)BY5SYを運用するJA0AW吉成正氏と、福洲第十一中学副校長の林氏(YL)。
(右)BY5SYのQSLカード。


写真9. JA0AW吉成正氏へのBY5SY及びBY5RCSの運用許可証。


写真10. BY5SYやBY5RCSなど福州に5局が新設された記事のコピー(モービルハム誌1989年6月号)。

1989年 (ベトナム 3W5JA, XV2A, XV4MPT, XV4VT)

JA7SGV鈴木進一氏は、グループで3W5JAの免許を得て運用したとレポートしてくれた(写真11~13)。「ベトナム政府は旧南ベトナムの急激な社会主義化を試みましたが失敗したため、南の自主性に任せる方針で来てはいますが、全ての承認はハノイとなっており、ハムのライセンスについても南のホーチミン支局の担当レベルでは簡単にOKとなるものの、ハノイ本局が承認しない限りは正式とはなりません。今回参加したメンバーはJA2JPAをリーダーとして、JJ2BBZ/6, JA6LDD, JA7DRM, JA7JPZそして私JA7SGVの6名でした。リグはIC-721, TS-440, FL-2100Z, HL-1K、アンテナは318Jr, AFA-40、WARCバンド用にT2-3VX、ローバンド用にCV-48、160mは逆Vを準備しました。ホーチミン市にはバンコック経由で入りました。完璧な書類整備がされていたため何のトラブルもなく、スムーズに入国出来ました。空港では現地関係者の出迎えを受け、ホテル側では使用人総出でアンテナの設営を手助けして貰いました。既に多くのDXペディションが相次いだため、年末年始に無線をしながら海外で過ごすという、ペディションをエンジョイする形できばらず行えました。ちょうど3Y5Xのブーベと重なったため、又、似た様なコールサインで、各局には迷惑をおかけしたと思います。3W3RRのロメオも言うように、正式なベトナム政府発給のライセンスとしては第1号です。XV1AやHAのグループ、Uゾーンの局へのライセンスは全てホーチミン郵政局の発行です。まあいずれもDXCCにはOKとなりましたが。(1991年9月記)」


写真11. (左)3W5JAのシャックにて、JA7SGV鈴木進一氏と運用したグループの皆さん。
(右)屋上のテラスに仮設された3W5JAの2基の八木アンテナ。


写真12. (左)3W5JAのQSLカード表と裏。(右)アジア・パシフィックで活躍して来られたJA7SGV鈴木進一氏のホームシャック(1993年)。


写真13. (左)3W5JAの免許状。(右)JA2JPA網代隆氏による、3W5JAの運用報告記事の一部。

故JH3DPB田中裕氏は、JA3UB三好二郎氏に誘われてベトナムに出かけた時のことをレポートしてくれた(写真14)。「ベトナムからの運用について、JA1UT林さんやJA3UB三好さんは数年前から手を打っておられたのだろうが、私が三好さんから電話をもらったのは12月7日の深夜近くだった。彼がXW8KPLから私とQSOした際、"帰ったら話がある"と言われたのを思いだした。何かと思ったら"ベトナムへ月末に一緒に行かないか" との話だった。行くことが決まっても、ホーチミンがどのような都市なのか全く情報がなく、何を用意すべきかもわからない。そこで思いだしたのがNational Geographicの11月号だ。確かハノイとサイゴンの特集をしていたっけと探してみると、ホーチミンは物資も豊富だし、ホテルやレストランも沢山あって快適とある。これなら楽勝だ。 ホーチミンの郵政省へクラブ局を作りに行くとのことで、JA3UB三好さん、JA3AYU荒木さん、JE3MAS高津さん、それと私JH3DPBの4名に決まり、高津さんと私はオペレーターだからと、政治的な交渉はあとの2人に任せた。12月19日にマニラからベトナムのタンソニット空港に到着、早速PTTへ行きここでXV2Aのコールサインが決まった。アンテナの建設、設備の設置等を終え、21日12:58 UTC、21MHzで運用を開始。勿論最初は三好さんだ。JAが呼んで来るがXVのコールでとまどっているようだ。ベトナム人のクラブ局とPR。20分後から私がQRVしたが、声が大きいので皆ビックリしたようだ。22日の夕方から本格的な運用が始まった。プリフィックスの関係もあるのだろうけれど、ものすごく呼ばれる。その後PTTによる機器の検査、3W3RR/UB5JRR, Romeo君の登場、JAとの間で50MHzのオープン、PTT職員への技術指導、ローカルTV局からの取材、PTT招待の昼食会等々、変化にとんだ忙しい日が続いた。三好さんと荒木さんは予定通り26日に帰るとのこと、我々2人は29日まで滞在延期を三好さんに交渉してもらい成功した。三好さんと荒木さんが帰ってから、先生方の我々に対する質問が多くなる。生徒達もシャックへ来て色々質問する。授業の一環とかで、運用を止めてでも答えるようにしたが、今までお2人が蔭で引き受けてくれていたのが有り難く感じた。運用7日間の成果は50MHzを含め17,594 QSO であった。(1990年2月記)」


写真14. XV2AのQSLカードの表と裏。

JA3AYU荒木浩孝氏は、ベトナムでの活動についてレポートしてくれた(写真15)。「XV2Aはホーチミン市P.T.T.の依頼による無線局設置と運用で、1989年12月22日に開局、大パイルアップを受けた。この直後に3W3RR, Romeoが合流してきた。その後のXV4MPT(固定局), XV4VT(移動局)は、D.G.P.T.(ベトナム郵政省電監本省)の依頼による無線局設置と試験運用で、1992年2月11日に開局。いずれもスポンサー無しの完全なボランティアで、機材は全てプレゼント。だから成功したと言えます。我々が行く直前、JA2EZD, W6KG/W6QL等がベトナム入りしていましたが、運用出来ませんでした。ようするに寄付以外の受付はないようで、1992年2月現在、いわゆるペディショナーに対しては、全く当局は無視しているようです。(1992年4月記)」


写真15. JA3AYU荒木浩孝氏による、XV2A開設の記事(CQ誌1990年3月号)。

1989年 (ラオス XW8KPL)

JA1FUY川合信三郎氏は、ラオスでの活動をアンケートで寄せてくれた(写真16)。「ラオスの首都ビエンチャンで、国営通信社 "KPL" にアマチュア無線局XW8KPLを、民族局としての設置で日本人グル-プ(代表JA1UT)6人が、協力・援助しました。1975年12月のラオス人民民主共和国の発足と共にアマチュア無線は禁止となっていたもので、14年間の空白の後に再開しました。ウオンテッド第8位のXW8は、オンエアと同時にすざましいドッグパイルにあい、日本人op. 現地局op. 共に懸命のオペレ-トを行なってサ-ビスにつとめたのはいうまでもありません。今回の援助の主眼は、あくまで民族局を作って、同国にアマチュア無線を根付かせることにあり、単なるDXペディションでないことを強調しておきたいと思います。(1989年12月記)」


写真16. (左)XW8KPLの免許状、免許人は現地のMR. Inh Siphachanh。(右上) 大阪国際交流センターラジオクラブ(JI3ZAG)の月例会に参加したXW8KPL, Mr. Inh Siphachanhと共に、左からJA3AYU荒木浩孝氏、JA3UB三好二郎氏、XW8KPL, Mr. Inh Siphachanh、JA3AER筆者、JA3TXZ印田光徳氏(1990年)。(右下) 大阪国際交流センターラジオクラブ(JI3ZAG)を訪れたXW8KPL, Mr. Inh Siphachanhとの写真、左からJR3MVF三好京子氏、JA3AYU荒木浩孝氏ご夫妻、XW8KPL, Mr. Inh Siphachanh、JA3AA島伊三治氏(CQ誌1991年3月号)。

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次号は 12月 1日(木) に公開予定

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