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海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~

その64 ソ連が崩壊した年 1991年 (1)

JA3AER 荒川泰蔵

ソ連が崩壊した年

1991年12月にソビエト連邦が崩壊しNIS(New Independent States)12ヶ国が独立した。今回は、それらの国の1つであるロシアのアジア地域で、その直前のソ連時代に運用されたレポートを含め、アジアとアフリカで運用されたレポートを紹介する。と原稿を執筆中にUA9AB, Geneさんの急逝が伝えらえた。JA9AA円間さんの紹介で、筆者は6年余り前からGeneさんと切手の交換で交流し、ロシアの切手などを送って貰っていたが、今年(2018年)6月6日に受け取った5月23日付の手紙が最後になった。彼から依頼のあった「日露交流年」記念切手を郵送した旨、6月8日にメールで知らせたところ、翌日ご子息のUA9AAP, Andyさんが、父は6月4日に腎不全で亡くなったと知らせてくれた。非常に残念だが6年間の交流に感謝して、Geneさんのご冥福をお祈りする。今年(2018年)は日露交流年である(写真1)


写真1. (左)UA9AB, Geneさん。(右)「日露交流年」切手の発行案内。

1991年 (ソ連・アジア地区 RZ0CZZ, UZ0CWW)

JJ2RON新井健一氏は、1991年8月に日本とハバロフスクのFOXテーリング(現ARDF)親交のためにソ連を訪問した時、コンテスト局RZ0CZZと、鉄道大学のUZ0CWWを訪問、ゲストオペした旨、写真とQSLカードを添えてアンケートを寄せてくれた(写真2)。「・・・・・ 運用記録・コールサインのみにさせて下さい。(1994年6月記)」と、詳細を公表できない当時の事情を匂わせていた。


写真2. (左)日本とハバロフスクのFOXテーリングに参加した人達。
(右)JJ2RON新井健一氏のQSLカード。

1991年 (モンゴル JT1/JA1OEM, JT2/JA1OEM)

JA1OEM豊福真一氏から、モンゴルでの運用についてアンケートを頂いた(写真3)。「1990年8月にJE7RJZ 野田氏がJTから日本人として初めてQRVした事を知り、私も行きたいとJA1ELYに相談したところ、面識のあるJT1COチャドラルにトライして免許は彼が手続きしてくれた。コールはJT1/JA1OEMですが国内移動の場合はそのエリアNo.を使うとの事で、短時間でしたがJT2/JA1OEMでもQRVしました。JT1COのシャックで(自宅は別)で寝泊りし運用しましたが、現在モンゴルの電源事情はかなり悪いらしく、街外れのせいも有り1/3の時間は停電しバッテリーで運用しました。市民の足の交通はすべてバスでその1/3位はトロリーバスでしたが、停電でそのバスもストップには驚きました。食料や物資もかなり窮屈らしく、配給には長い列が出来ており、ドルショップの店にも品物はごく少なく、買物するにも品選びは不可能で品物があれば◎のようでした。食物は現地の普通のものをチャドラルに頼みまして毎日同じような物をいただきましたが、これは私には実に美味しく毎日良かったですが、後で聞いた話、あれは食べられなかったという日本人もおりました。リグは持って行きませんでしたが、ゴビ砂漠へ2日間観光で行き、雄大な風景にすっかり魅了されました。機会が有ればゴビペディションにいつか行きたいと思います。QSO数は10Mc - 8局, 18Mc - 369局, 14Mc - 70局, 21Mc - 1,205局, 24Mc - 234局, 50Mc - 364局, 合計2,250局。持参したリグはTS-690S、アンテナは18/24Mc 3エレで、外はJT1COのアンテナ(21の3エレ, 50の5エレ, D.P.)を借用しました 。(1991年8月記)」


写真3. (左)JT1/JA1OEM豊福真一氏の免許状と、(右)そのQSLカード。

1991年 (香港 VS6FQ, VS6EA)

JH1TOE石出毅氏は、香港からVS6FQでの運用についてアンケートを寄せてくれた(写真4~6)。「香港で日本人としては初めてVS6の正式コールサインを取得したVS6AK/JA2EDO柴田氏から情報/指導を得て当地で開局しました。1992年5月に、香港日本人アマチュア無線倶楽部(JAROC)を、VS6CS /JA3ECR栗尾氏、VS6ED/JA5AXO野間氏と協同して設立しました(現在同クラブの会長)。主な運用周波数は7, 10, 14, 18, 21, 24, 28, 29MHz オールモード及び 2m FM, 2mパケット(ホームBBSはVS6XMT)。RIG, ANTの主なものはJST-135+JRL2000F+R7(150mh)/FT-3700+ディスコーン(150mh)。29.610MHz FMで、ディジピーター(Voice)を24時間運用中(電波標識)。(1993年3月記)」


写真4. (左)VS6FQ石出毅氏のアマチュ無線資格試験の合格証書と、(右)CW試験の合格証書。
(コピーした感光紙の色が退色している)


写真5. VS6FQ石出毅氏の免許状。(コピーした感光紙の色が退色している)


写真6. (左)VS6FQ石出毅氏のシャックと、(右)そのQSLカード。

JR2BEF鈴木康之氏から、香港のクラブ局VS6EAを、同僚のJI2UAY馬渕茂彦氏がゲストオペした旨、アンケートで知らせてくれた。「会社の慰安旅行で香港に行った際に、現地の友人VS6TM及びVS6VFの好意で、彼等のクラブ局VS6EAを運用する機会に恵まれました。私はQRVしませんでしたが、同僚のJI2UAYが29MHz, FMにQRVしました。土地柄もありTVIの懸念がありましたので、もっぱらベアフットで運用しました。政庁職員のVS6TM, Timさんによると、US-Callとのレシプロで免許を降ろすことができるかもしれない、ということでしたが、いずれにしろ短時間の訪問であったため、正式な(!?) レシプロ許可は次回の訪問までお預けとなりました。(1992年6月記)」

1991年 (カンボジア XU8DX, XU0JA)

JA1JDF河野文孝氏は、カンボジアでの運用について写真と共にレポートを寄せてくれた(写真7)。「1991年9月16日の昼下がり、プノンペンのポチェントン空港に降りたって先ず感じたのは、よくここまで復興したなということだった。前回(1988年2月)に訪れたときは、町なみは内戦で廃虚と化し、夜ともなると停電で真っ暗闇だったのに、今やホテルやコーヒーショップなどにネオンが輝き、立ち直りの速さに驚いた。しかし、その陰には数百万といわれる戦争犠牲者があると思うと複雑な気持ちだった。同日、午後4時、XU8DXのあるカンボジア逓信省を訪ねた。クラブ局オペレーターのソークンさんは以前ドイツで電子工学を学んだといわれるFBなYLさんだ。すぐにシャックに案内され、先ず屋上に上がりアンテナの様子を見た。私より1ヶ月後にJA1NUT鬼沢OM一行が訪れ、XU0JAでオペレートされる予定なので、ステーの痛み具合など綿密に調べた。やはりナイロンロープはかなり痛んでおり、そろそろ取り替えが必要と思われた。1階にある無線室に入ると28MHzのCWにセットされていた。"私の来訪についてJAに伝えてあり、皆がスタンバイしているので、すぐに出てみたら" と促され、しばらく振りに電鍵を握った。バグキーは使ったことはあるが、エレキーは初めての私は汗顔の至り! しかし、JAが強力に入っている。焦れば焦るほどプアーなオペレーションになってしまい、見るに見かねてソークン女史 "SSBにしますか?" 21MHzのSSBに変更した。CQの後ワッチに入ると生まれて初めてのパイルアップに遭遇した。重なり合ってコールサインが取れなかったので、エリア別にお願いした。それでも一度に5、6局呼んで頂だいた。自分の業務の合間にしたオペレーションだったので、1時間程度でQRTを余儀なくされた。それでも9月18日まで連日、夕方1時間位オンエアーし、200局余りのQSOをさせて頂だいた。時間の都合ですべての局にサ-ビス出来なかったことをお詫び申し上げるとともに、QRVを可能にして下さったソークン女史はもとより、QSLマネジャーのJA1NUT, 鬼澤OMに心よりお礼申し上げます。(1991年11月記)」


写真7. クラブ局XU1DX局にて、ソークン女史(右側の女性)とJA1JDF河野文孝氏。

JA1NUT鬼澤信氏はカンボジアでの運用について、XU0JAの免許状のコピーを添えてアンケートを寄せてくれた(写真8)。「内戦が終結したばかりのこの国では、アマチュア無線が一つのシステムとして確立しておらず、その立場はまだ不安定。従って、単にリゾート地に行って海外運用を楽しむというような発想では無理がある。発展途上国の創生期にあるアマチュア無線をバックアップしようということを、第一に考える必要がある。PTTの高官の意向としては、アマチュア無線を商業通信の補助手段として利用していきたいとのことであった。XU0JAの他の免許人はJH1OJU、JH0FBHだった。(1991年11月記)」


写真8. JA1NUT鬼澤信氏達への、XU0JAの免許状。

1991年 (タイ HS5SEA)

JA1AD小林勇氏は、タイのチェンマイで開かれた第19回SEANETコンベンションに参加し、HS5SEAを運用したと、アンケートを寄せてくれた(写真9)。「恒例のSEANETコンベンションステーションです。今までに個人コールをもらったのは、1989年の9V1/JA0ADと1990年の9M8IK、この個人コールは2レターでびっくりでした。SEANETは1985年のDU7SEA以外全部出席し、QRVしました。思えば第7回から通して12回の出席となり、楽しい想い出の多いコンベンションでした。(1992年1月記)」


写真8. (左)SEANETコンベンション局HS5SEAのQSLカード。
(右)SEANETコンベンションにて左からJA0AD小林勇氏ご夫妻と、JA8OW谷本健一氏ご夫妻。

1991年 (ニジェール 5U7M)

JH4NMT松田佳之氏は、5U7Mを運用した経験をレポートしてくれた(写真10)。「青年海外協力隊員でニジェールの郵政通信公社に配属になり、その公社員という所属での運用であった。よって、今後旅行等で立ち寄った際に再び運用出来るかどうかは不明である。ニジェールは無線局免許関係の法令はまだ整備されておらず、殆どがフランスのコピーである。また政権交代等で状況がどのように変わるかわからないので、免許とか運用に対するアドバイスはとても出来かねる状態である。首都ニアメの電力は安定しており、コンテスト中心の運用で十分にアマチュア無線を楽しむことができた。(1994年2月記)」


写真10. (左)シャックにて5U7M松田佳之氏と、(右)そのQSLカード。

1991年 (ナミビア V51/7Q7JA)

JL1IHE加涌由貴氏は、ナミビアでのV51/7Q7JAの運用についてアンケートを寄せてくれた(写真11)。「当時V51JM (ex. 7Q7JM)でQRVしていた国連職員を訪ねてQRVする予定だったのですが、私がナミビアに滞在する時期に彼は国外出張する事になり、彼(ビル)に現地で通信機会社などを経営しているV51DM (Derek)を紹介して貰いました。WindhoekのホテルからDerekの会社にTelすると、彼の会社で働いているV51SW (Rudy)がホテルまで車で迎えに来てくれました。その後Rudyの協力により、午前11時頃にライセンスを申請して、午後にはライセンスが発行される事に成り、昼食後私はQRVの準備に取りかかり、その間にRudyがライセンスを取りに行ってくれました。他のアフリカ諸国と比べたら考えられないぐらい仕事が早く、約2時間でライセンスが発行されました。Rudyの仕事関係上、テレコム職員と付き合いが有った事が、こんなに早く免許された理由と考えられる。免許申請時に提出した書類は、マラウイの免許のコピーと公用旅券のコピーと申請書に名前などを記入したものでした。現地での連絡先は入国カードに記入したUNDP(国連office)を記入しました。日本人として最初のライセンスであり、QRVだと思います。V51DMのシャックを借用して、HF/6mにQRV、コンディションがFBな時だったので、JAやEUを中心にWARCバンドも含め沢山の局とQSO出来ました。ライセンス代はR 15.00で、南アフリカの通貨が使用されていた。まだ独立したばかりだったためか、観光開発が進んでなく、町は小さくアメリカの地方都市のように美しいが、ホテルなどの数が少なく探すのに多少大変でした。AirportからWindhoekまで、道はアスファルト舗装されていて良いのですが、それでも車で1時間ぐらいかかったと思います。(1995年2月記)」


写真11. (左)V51/7Q7JA加涌由貴氏の免許状と、(右)そのQSLカード。

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次号は 12月 1日(木) に公開予定

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